HAPPY V.D ?

花series EVENT Valentine


少しづつ寒さも和らいで来たある日、静は大学内にあるコンビニに入った。朝のニュースでお姉さんが満面の笑顔で春はもうそこまでなんて言っていたが、春を感じさせてくれる陽気はまだまだだ。
とりあえず寒い。こういう時は温かい飲み物が欲しくなる。そんな思いで店へ入ったのだ。
入った途端に聞き慣れた電子音が鳴り、それに合わせて店員の軽快な声が聞こえる。珍しく店内も空いていて、静は何気に出入り口を入ってすぐの雑誌コーナーに足を運んだ。
特に何か用事があるという訳ではなかったが、まだ家が平和な頃に毎週買ってた漫画雑誌、今は何の連載がしているのだろう。あの頃、熱心に読んでいた作品はどうなっているだろう。ちょっと、何となくという気持ちだった。
心と暮らすようになり暮らしは落ち着いたものの、180度ガラリと変わってしまった生活になかなか馴れないで居る静は心に翻弄される毎日を送っていた。
年下のくせに生意気な!と思いながらも、心の言動や立ち振る舞いに、あれ?こいつって年下だったっけ?と訝しむ瞬間が数多くある。年齢にそぐわない見た目も手伝って、実は騙されていて10歳くらい年上ですよと言われた方が納得する。
いや、それはそれでどうなんだという話ではあるが、実年齢に見た目が追いついていないような違和感が…。いや、でもたまにクソガキのような言動もするし…。
「年下は年下か…」
独り言を呟いて、日頃の心を思い浮かべる。とりあえず、よく見るのはソファでゴロゴロしている姿だ。休日のお父さんかというくらいにソファでゴロついている。
組長というポストに就いていながら、まるで引きこもりのような生活を送っているのでスーツを着ている姿よりラフな格好でソファに転がっているのがスタンダードのような男だ。
あんなゴロゴロしているのに誰よりも身体が仕上がっているのは若さか…。
そもそもあの年なら、テレビでドラマを観て、今流行りのファッションを知る為に雑誌なんか読み漁り、話題から置いていかれないように必死のはず。少なくとも自分の周りはそうだ。
なのに!心はといえばテレビは専らニュース。流行を追う雑誌の代わりに毎日新聞が届けられ、しかもそれは多方面の情報を得るためか駅の売店並みに揃っている。おかげで静の最近の愛読書はスポーツ新聞だ。
「中年リーマンかって…」
今日も朝から顔に不似合いと心に言われ、新聞を投げつけてきたばかりだ。
「あ、あった」
懐かしい雑誌名を発見し手を伸ばそうとしたとき、視界の片隅に賑やかな表紙の雑誌が飛び込んできた。『モテチョコでバレンタイン』という丸めのフォントを使った大きな字が羅列を組む。
「バレンタインか」
”モテチョコ”の意味は理解不明だが、バレンタインは理解出来る。そういえばレジの横にもクリスマスかと見紛うくらい賑やかな包装紙で包まれた箱が積まれている。
今までバレンタインに縁のない静は、それを眺め、漫画雑誌を手に取ることなく店を出た。

「あいつ、チョコ欲しいと思う?」
「は?」
愛車のカイエンで大学近くまで静を迎えに行き、自宅に戻る車内で相馬は静に問われた質問の意図が分からず、珍しく拍子抜けした声を上げた。
「チョコ。バレンタインじゃん」
「そう…ですね。静さんがくれるなら、あれも人間味のある顔をするかもしれませんね」
朝、鬼塚に新聞を投げつけ、“撃たれて死ね”と暴言を吐いた静を見ていた相馬は驚いた。大学へ行っている間に、何か心変わりをするようなことでもあったのだろうか。
心は暇さえあれば静を揶揄うし、静はそれを真に受けて怒り心頭に発する。とても蜜月関係の恋人同士には見えない。
あまりに静が気の毒なので、一度、心を咎めると“おもろいから”と呆れる答えが返ってきた。そんな心に、静が…?
「差し上げるんですか?毒でも入れて」
「は?毒?じゃなくてさ…」
静は言葉を濁すようにモゴモゴと口籠った。いつもはっきりと言いたいことを言うのに珍しい。しかし、毒入りではないとしたら本当に純粋にチョコをあげるつもりだろうか。
相馬は静の思いもよらない言動に、ただ困惑した。

2月14日当日、仕事を終え部屋に帰ってきた心は、有り得ないほど甘ったるい匂いの充満する部屋に思わず眉間に皺を寄せた。
この部屋に来てから、いや、本家にいても関西に居ても嗅いだことのない甘い香り。あまり甘い物が得意ではない心は短く咳払いをして、部屋を見渡した。
静はもう帰っている時間で、何やら部屋の奥のキッチンからガタガタ音がする。まさかと、心はゆっくり奥に進んだ。

「おい、何してんねん」
匂いを出している張本人に向かって、心は地を這うような声を出した。
「おっ、いいとこに帰って来たじゃん」
他の者なら卒倒してしそうな心の問い掛けも、静からしたら何事でもない。あっけらかんとした顔で心を手招きする。
「いいところにって、鼻が捥げる」
「どうして?今日はバレンタインだぜ、知らねーの?」
静に言われて心はカウンターに置かれた液晶時計を見た。時刻と共に表示されている日付は2月14日。
まだ極道の世界に足を踏み入れていない時分、この日には数多くのチョコをもらった記憶がある。甘い物が得意でない心からしたら、こんな物で気持ちを告白されても甚だ迷惑な話だった。
極道になってからは心にチョコを渡そう等という強者が現れる訳でもなく、世間だけが賑やかな日で終わっていた。まさか、それを静が心にくれようとは…。
「は?そのために作ってんのか?」
驚く心に、静がニヤリと笑った。
「欲しいんやろ」
「下手な関西弁使うな、どあほう」
言いながら、心はスーツのジャケットを脱いでカウンタースツールに座った。
「…にしても、どないかならんのか、この匂い」
鼻にこびりつく甘い匂い。嗅覚が麻痺しそうな香りに、頭までクラクラする。
「チョコホンデュ、酒の魚に良いだろ」
良いわけがない。少し腰を浮かしキッチンを覗き込むと、鍋でチョコレートがグツグツと煮込まれている。
一見すると毒でも入ってそうな、魔女が茹でる鍋の中の様子に似ている。
「うわっ!何ですか、この香り」
入り口の方から声が聞こえ、心が振り返ると書類を手にした相馬が心と同じ様に眉間に皺を寄せ立っていた。
相馬は心以上に甘い物が得意ではない。どちらかと言うと”大嫌い”な部類に入る。もしかしたら、この部屋に居る事さえも拷問に近いものかもしれない。
「あ、相馬さん」
カウンターキッチンから静がひょっこり顔を出し、ニッコリ笑う。
「何をされているんですか?」
「良いとこに来た。もう出来るから、相馬さんも食べて行きなよ、チョコレート」
「チョコ?いや、私は結構です」
この甘ったるい室内で、甘ったるいチョコを食べるだなんて冗談ではない。そもそも静の手作りチョコレートを食べるなんて、心を目の前に出来る訳がない。
また間の悪いときに来てしまったと、相馬は溜め息をついた。
「相馬さん嫌い?チョコホンデュ、今日はチョコレートを食べる日だろ」
「は?」
静の言葉に相馬は驚き、心は打たれたように顔を上げた。節分の日に恵方巻きを食べるなんていう習わしは、先日終わったばかりだ。
心が仕事で居なかったので、部下に恵方巻きを買いに行かせ静と二人食べた。静が今言うそれは、まるでその習わしに似た…。
「何がいいかと思ってさ、俺、料理とかあんまり出来ないし、皆で食べれるのってチョコフォンデュとかかなって思って。これなら溶かすだけだし」
上機嫌で話す静に、相馬はもとより、心は空いた口が塞がらないという感じだ。まるでバレンタインというイベントの内容を勘違いしているような…。
そもそも、その辺の女性より群を抜いて綺麗な顔つきの静に、憧れこそは持つものの、自分が間違いなく引き立て役になるのが分かっていてアプローチしてくる女の子も、ましてやチョコレートを渡す女の子が居る訳がなかった。
更に、大多喜組に追い回されそれが周りに知られてからは距離を置かれていたし、バイト三昧の日々を送ってきた静にはこういうイベント事など無縁だった。
「バレンタインデーがどういうイベントなのか、ご存知ないのでしょうか?」
まさかそんなはずある訳ないよなとは思ったが、念のため確認だ。静はふるふると首を振って、チョコフォンデュのために果物のバナナを剥いて一口サイズに切り始めた。
「知ってるよ。あれだろ?俺がチョコレートあげたい、日頃世話になってる人にあげるんだろ」
心のテーブルに置いた指が僅かに動いた。さすがに動揺しているか。まぁ、無理もない。まさかの展開だ。
こういうのは世間知らずになるのか、いや、社内で上司に渡す義理チョコも日頃の感謝を込めて…というものも多いらしい。だから静の話も強ち間違いではない。
間違いではないが…。
「待ってください、それではホワイトデーは?」
感謝の意味でチョコレートを渡すなら、それにまたお返しをもらうというのも筋が通らないのでは?相馬はすっかり不貞腐れた心の隣に失礼しますねと声をかけ、腰を下ろした。
この際、この甘ったるい香りは我慢しよう。どこをどう間違えれば静のような発想になるのか不思議で、そして興味もあったからだ。
「あ、それはもう一つの誕生日?」
「「はぁ?」」
思わず、心も相馬も声を上げた。
「え、違うのか?」
「どういう意味やねん、誕生日って」
「ん〜、とりあえずバレンタインは母さんと妹に貰ってたんだけど、ホワイトデーに何か返したことなくて。だって感謝とか日頃のお礼に渡すのに、また返してもらうって意味が分かんなくてさ。で、大学の子に聞いたら、“愛より見返り”って言われて益々意味が分からなくて。じゃあ、要は、もう一つの誕生日だよって言われたんだ」
静の言葉に相馬と心は唖然とした。高いブランド品やアクセサリーをどうやって買わせようか、イベント毎に試行錯誤し、更には逆チョコなるものまでも生み出された。
静の会話の内容から察するに、男はひたすら貢ぐだけのような考えの今時の女子大生に聞く方がどうかしている。
「もうええ」
見ていて不憫なくらい肩を落とした心が、ポツリと呟いた。そう言いたくなる気持ちも分かる。
「何だ?元気ないな〜腹減った?」
静が仕方ないな〜と、チョコをべったり付けた苺を心の前に差し出した。
「ほら、垂れるから!口開けろ」
差し出された苺を、心は大人しくパクリと頬張った。刹那、相馬は吹き出してしまった。これが極道の頂点に居る男の姿か。
今の心の姿を他の組の人間が見たら、皆、腰を抜かすだろう。
「で、お前は何が欲しいねん」
声を殺して笑う相馬を睨みながらも、あまりの甘さに眉間の皺が深くなる。イチゴの酸っぱさとチョコの甘さが口の中で大乱闘だ。
「え、くれんの?」
「いらんのか」
「う〜ん」
「欲しい物があるなら仰ればいいじゃないですか。鬼塚もこう言ってるんですし。それとも、とても高価な物なんですか?」
どこか楽しむように言う相馬に、静はゆっくり頷いた。静は普通ならば学生生活を満喫する学生。欲しい物があっても何ら不思議ではない。
今まで我慢して生活してきた静が心と生活をしだして、普通の生活をようやく送れるようになったのだ。今まで何一つ欲しいと言わなかった静からすれば、大きな進歩ではないか。
「高い…んだ」
「なんや言うたらええやろ。車か服か」
「手に入るのが難しい物ですか?大丈夫ですよ。何とかしますから」
相馬も心も静の欲しい物が何か早く聞きたくて、捲し立てる様に質問する。一体そこまでして何が欲しいのか、早く聞きたかったのだ。
静は言いにくそうにしながらもスッと息を吸って、心を見た。
「なんや」
どこか機嫌の良い心が、タバコを銜えて静の背中を押すように問う。
「あの、その…ジャンプ」
「なに?」
心は思わず首を捻った。
「ジャンプって、まさか、あれですか?漫画雑誌の」
学生時代、周りのクラスメイトが週始めによく教室で読んでいた雑誌の名前が、確かそんな名前だった様な気がする。相馬もたまに借りていた、少年であれば一度は読んだことがあるものではないだろうか。
「高いって、オマエ」
「だって毎週出るんだぜ。俺が買ってた頃より、値段が上がった感じだし」
「オマエ、俺を舐めてんか」
額に青筋が見えるが…さすがに心の意見には同意だ。今の値段は知らないがワンコインで釣り銭がもらえるような値段のはず。
それを高いって…。関東一の極道の鬼塚組の総代の心。フロント企業も数多く抱えていて、その資産は計り知れない。
その心に、週一回販売の週刊誌を買うのが高いと言っているのだ。今日日の煙草よりも安い品物だ。だがそんな物でさえ、静にとっては高価な贅沢品になる。
「価値観の違いは破局への前触れですよ」
意地悪な顔をして心を見ずに独り言の様に呟く相馬の言葉に、心の身体がビクリと動いた。関東一の極道も想い人の前では形無しのようだ。
「舐めんなよ、何冊でも買えや」
半ばヤケクソの様に心は言い放ち、銜えていた煙草に火を点けた。
「マジで!?」
それに静が瞳を輝かせて反応した。

それから週始めには心の部屋へ新聞と一緒に、静の望んだ週間ジャンプが届けられる様になった。
ここだけの話、誰も居ない時間を見計らって心が静のジャンプを読んでいる事は誰も知らない。