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超高層建築物。その名に相応しいビルを車窓から眺めながら、心は首を鳴らした。
「いつ来ても、うぜぇビル」
心は備え付けの灰皿に煙草を捩じ込むと、その重たい身体を起こす。
どうもこのビルは好きになれない。このビルを好きになれないのか、イースフロントを好きになれないのか。
とりあえず、あまり何に対しても執着がないのはそういう性分なのかもなと考える。
オフィスの立ち並ぶ界隈はその交通量も多く、心達の前は渋滞が起こっていた。少し行って左折すれば専用地下駐車場の入り口があるが、そこまでがなかなか遠い。
「混んでますねぇ」
成田がそう言って首を伸ばした瞬間、隣でガチャっと嫌な音がした。
「あー!!」
叫んだ時には、心が助手席から降りてドアを閉めた後。あまりの突然の出来事に身体が反応しなかった。
だが次の瞬間には慌ててシートベルトを外して、外に飛び出した。
「ちょ!!組長!」
成田の声を聞いているのかいないのか、心は暢気に欠伸をしながらイースフロントの正面玄関に向かって歩いていってしまった。
もちろん、一度も振り返る事なく。
「何やの!!ちょっと!!あー!もう!!」
成田は車に乗り込むと、少し動いた渋滞の列でアクセルを踏み込んだ。
心は、まるでそこにしか目的がないようにどんどんと人が集まるそこを、不思議そうに眺めた。
イースフロントの正面玄関。大きな回転ドアは二つあり、それを支える壁の全体にガラスが埋め込まれている。上を見上げてみれば、太陽の光をも反射せん勢いのガラスの壁がどこまでも続いていた。
自分の持ち物であるが、滅多に顔を出さないために実感は皆無だ。何度か来て役員会議なるものに音声のみで出席した事があるが、あれは死ぬほど退屈だった。
まず言っている意味が分からない。
大体この会社は何の会社なのか、実はそれも把握していない。全く興味が沸かないのだ。
ビルにどんどん飲み込まれるスーツ姿の男達。一体、このビルに何の用なのか、一人か二人捕まえて聞きたいくらいだ。
そんなくだらない事を考え、心はその男達に混じってビルの中に足を踏み入れた。
高い天井ロビーは3階まで吹き抜けていて、受付カウンターにはずらっと受付嬢が並ぶ。その受付嬢が次々と来る客を捌く様子は工場の流れ作業のようだ。
受付の向こうのオフィスに上がるエレベーターに行くには、受付嬢が渡すICチップ入りのカードがないと開かないゲートを潜る必要があった。セキュリティーを少し変えたとは聞いたが、面倒なことをしてるなと心は思った。
受付の横は広くホテルのロビーの様にソファとテーブルが数多く並び、そのテーブルで何人かが書類やPCと睨めっこしていた。
奥のスペースには変わった椅子やインテリアが展示されている。それを一通り眺めて、心はフンと鼻を鳴らした。
「一体、何の会社やねん」
社長の発言とは思えない事を呟いて、心が受付で嫌がらせに相馬を呼び出そうと悪巧みを考えたとき、心の背後で悲鳴と怒号が響いた。
「…?」
振り返れば警備員と思しき男がフロアに転がり、その身体を誰かが殴打していた。その隣にもスーツ姿のサラリーマンが転がっていて、小さく呻いていた。
警備員、そうだ、確か出入り口と入ってすぐに居た男だ。心はそう思い、ただ事ではないその様子を静観することにした。
「プライマリープロダクツ・セクション4の池上を出せぇ!!」
男は警備員の首にサバイバルナイフを当てて喚いた。それに周りから悲鳴が上がった。
慌てて逃げて転ぶ者、状況が飲み込めずにとりあえず逃げる者。究極の事態ほど人間は本性を現すというが本当だなと、心はそんな事を思いながらククッと笑った。
「人の会社でやらかしてくれるやん」
心はその時ばかりは自分の会社と宣い、高揚する気持ちを抑えぬままご機嫌に歩き出した。
周りは騒然となっている。喚く男の周りには一気に人が居なくなり、受付嬢が慌ただしく動き出している。
警備員を呼んだのか警察を呼んだのか。
心は驚いて後ずさって来る人間を避けながら、どんどん男へと近付く。男は相変わらず池上を出せと喚いているが、心がその池上という人間を知る訳もない。
心が男がよく見える場所に辿り着いた瞬間、男は胸元から瓶を取り出した。掌ほどの瓶の口から白い布が出ていて、警備員に馬乗りになった男は興奮した様子でその瓶を掲げた。それに心はスンと鼻を鳴らした。
「火炎瓶?」
心が小さく呟くと、隣に居たスーツ姿の男はビクッと身体を震わせた。
「か、火炎瓶!?今、火炎瓶って言ったのか!?」
オーバーなほどに驚いて大声を出す。その声にまた周りが騒々しくなり、男を中心に円を描く様に人間が引いて行った。
心を残して。
「ああ!?何だ、オマエは!!池上呼んでこい!!」
一人残る心に男は喚いた。男は鼻息荒く高揚した顔で、今にも警備員を刺しそうな勢いだ。
サバイバルナイフを右手に持ち警備員の首に突きつけ、左手には瓶を持って…。緊迫したその状態だが、心はあることに気が付き首を傾げた。
「それってさぁ、どうやって火ぃ点けるん?まさかナイフ置いて、ポケットからライターでも出すんか?」
「何だと!!誰だ!!オマエは!!」
男が言うと、周りの人間も確かに誰だと共感しだす。心の姿はノーネクタイの黒のスーツ姿。
だが、そのスーツはブリオーニで高級品。しかしその皺一つないスーツとは違い、セットされているとは思えないような無造作な髪。それでも長身で鍛え上げられた身体にスーツはよく似合っているが、やっぱりイースフロントに来る来客にしてはどこか不自然。
違和感も覚えるほどに、不自然な心を男は訝しげに見上げた。
猛禽類を想像させる鋭い眼光と、ただならぬオーラに思わず息を呑む。サバイバルナイフも火炎瓶も持っているのに、圧倒的にこちらのほうが優勢に思えるのに、背筋が寒くなった。
「誰やって言われてもなぁ」
心は呟いた。その時、心と男の攻防を吹き抜けの3階ロビーから見下ろした一人の男は絶句した。
崎山雅。イースフロントの副社長秘書であり、総務総括長兼秘書室室長引っ括めてG.A.D OP division。
元の単語が何かも分からない様な、そんな肩書きを持ちながらも本業は仁流会鬼塚組の幹部だ。
一階ロビーに不審者が侵入してきて暴れていると、連絡を受けたのは5分前。面白い事してくれるな、このくそ忙しい時にと思っていると外部から報告を受けた。組長が到着したと。しかも、地下駐車場にではなく一階ロビーに。
どうしてそこ!?と慌てて下りると、非常時マニュアルに沿ってエレベーターが一階ロビーに到着出来なくなっていた。停止するのは3階のみ。
苛立ちを抑えずに3階に降りてみれば、吹き抜けロビーに響き渡る男の怒号と悲鳴。そのロビーに居るのは不審者と心と来客たち。
どう考えても最高のシチュエーションじゃねぇか!と見てみれば、予感的中。対峙する二人。
「おいおい。何してんの、あの人」
こんな時に限って、相馬は緊急の案件で取引先に赴いたまままだ戻っていない。今日はフロント企業の仕事なので、もちろん彪鷹は居ない。居ても余計にややこしくなりそうだ。
とりあえず条件は最悪ということ。
「くそったれ!」
崎山は呟いて、スーツのポケットから携帯を取り出した。
こうなれば裏の連中を使うしかない。そう考えたとき、崎山の耳にサイレンの音が届いた。上から見下ろせば、心も気が付いた様で男に手は出していなかった。
「ラッキー」
崎山は胸を撫で下ろした。社内に不審者が侵入。警備員にも暴行を加えて負傷者も出ている。
幸いというか何というか、心は表に出ない男でその素性は謎となっている。顔をしっかり把握しているのは、警視庁の組対4課くらいだ。
通報を受けて来るのは制服組。心の顔を知るはずもない。これは難なく終わるなと崎山は携帯を仕舞い、1階ロビーへ下りる広い階段へ向かった。
「おい!武器を捨てろ!」
在り来たりの言葉を聞きながら警官が突入してくる。とりあえず、あのどうしようもない上司を確保して上へ連れて行こうと考えていると、あれだけ大騒ぎしていた男はあっさりと武器を捨て、警察に捕われた。
一体、何がしたかったんだと首を傾げながら見ていると、正面玄関からスーツ姿の如何にもの男達が数名入ってきた。
「新宿署です!皆さん、御静粛に!」
そのスーツ姿の男一人が、警察手帳を掲げて叫んだ。崎山はその男の隣に目を凝らして見て、ギョッとした。
「…あれは…東雲?ちょ!マズい!!!」
崎山は慌てて、階段を駆け下り始めた。
心は面倒な連中が次々と入ってくるので、すっと傍観者を決め込もうと野次馬に紛れ始めた。すると、その腕をいきなり掴まれ蛾眉を顰めた。
腕を掴む手を見れば、無骨だが綺麗な手をしていた。その手を辿る様に見れば男と目が合った。
年頃は彪鷹と似たところか。片眉を上げるところが自分のよく知る男に似ていた。身長は心と変わらないが、筋肉と骨組みのせいか心よりも少し大きく感じた。
安物のスーツを着てノーネクタイで胸元を開けるそれは、チンピラの風貌と変わらない。
とりあえず顔つきが悪い。精悍で高い美鼻に薄い唇。片眉を上げて、片方の口角だけ上げる表情は質の悪いホストのようだ。
「あ?何や、オッサン」
「初めて見たぜ、鬼塚心。現行犯逮捕だ」
「は?」
ガチャンと、いつから色がそれに変わったのか分からない手錠が心の手首に嵌った。
「あー!!おい!何してんだ!!」
振り返れば崎山が見た事がないほどに慌てながら、こちらへ走って来る。心はそれが可笑しかった。
何だ、そんな顔も出来るのかと、それどころではないのに暢気にそう思った。
「ジュク署の東雲だ。現行犯逮捕だって」
「現行犯!?何の?ちょっと、ね、おかしいでしょ?この男が何したっていうんだ。逮捕するべきなのは、あのジャンキー1人だよね?あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「俺が現行犯ったら、現行犯なんだよ。あー、あれ、公務執行妨害」
「はっ!いつ、どうやって?俺はずっと見てたけど、この男は誰にも指一本触れてない」
「何、オマエ誰だ?コイツの正体、知ってて庇ってるのか?」
東雲に言われて、崎山が顔を歪める。
ここが鬼塚組のフロント企業だということは、黙認された常識だ。だが、この鬼塚心という男は警察当局ばかりではなく、同業者の極道でさえも正体を知る人間はごく僅か。それを今、この民間人しか居ない場所で自己紹介よろしく紹介するにはリスクが大きい。
「弊社の顧客だ」
崎山が苦虫を噛み潰した様な顔で言うと、東雲はニヤリと笑って眉を上げた。
「じゃあ、後日アポイント取って、また来社だな」
東雲はそう言うと、心の手錠をもう片方の手にかけて心を引っ張っていった。
「クソがっ!!」
崎山はそう吐き捨て踵を返すと携帯を取り出した。今頃になって慌てて降りて来たフロントでの崎山の部下に、指だけで騒ぎの収集を指示する。
あまりに唐突の出来事で頭が混乱する。どうして東雲が現れた?とりあえず、組に連絡を取ってと携帯のダイヤルボタンに手をかけたが、それを使う前に物陰に隠れている男を見つけて誰にも悟られぬように近付いた。
「何してんだよ、このくそボケカスナス!!」
小声で捲し立ててる崎山に、軽く頭を下げる。成田だ。
「やて、俺が出て行ったら余計におかしなんで」
確かに、如何にも裏の人間ですというスタイルの成田まで現れると、話が余計にややこしくなる。東雲なら成田までも連行しかねない。
今日はこちらへ赴くために心も成田もスーツ姿だ。別に、原色カラーのスーツにシャツだなんて虫が寄って来そうなスーツを着ている訳ではないが、元々、表に出ることの一切ない成田は裏の雰囲気が色濃く染み付き、どうしても堅気には見えない。
本業は極道なのだから、それを悪いとは思えないが、今回ばかりはそれが煩わしく思えた。
「神保先生呼べ」
唸る様に言うと、崎山は自分の携帯を成田に押し付けた。
「えー、俺がぁ?」
「お前のせいでもあるだろ!」
「せやけどさぁ」
神保とは鬼塚組の顧問弁護士、所謂、極道弁護士だ。だが成田はその神保が苦手だった。
というよりも、苦手でない組員といえば心と相馬くらいだ。ようはそのレベルの性質の人間という事。
成田は突然の出来事に怒り心頭に発した崎山を横目に、渋々、通話ボタンを押した。
ここに入るのは2度目だな。と言っても前は警視庁の取調室なので、ここよりは綺麗ではあったが、共通で言えることは狭苦しい部屋ということ。
心は連れてこられた新宿署の取調室を軽く見渡して、首を鳴らした。部屋には東雲と東雲と年の変わらない男が二人。狭苦しさとむさ苦しさ倍増。
前に入ったのはいつだったのか覚えていないが、顔に安物の出がらしの茶をかけられ、指と指の間にボールペンを挟まれギリギリと上から押された。
人権フル無視でやることは極道のそれと変わらぬ様が可笑しくて、挟まれた自分の指を折ってやったら意外と大騒ぎになってつまらなかった。
心は目の前に座る東雲を見た。煙草を銜え、頬杖をついてこちらを舐める様に見てくるのが気持ちの悪い男だ。
「なんやねん、気色悪い」
「本当に…関西弁なんだな」
「…はぁ?」
「噂にしか聞いてねぇもんでなぁ。しかし…本当に若いなぁ。いくつだ?」
「……」
「何だ、黙秘か?そうだなぁ、20歳は超えてるよなぁ?」
東雲は心の前髪を掴みあげた。ぶちぶちと、前髪の千切れる音がした。
「ハゲるやんけ」
「はぁ…こりゃ色男だなぁ。目付きだけは一人前か」
東雲はパシンと心の頬を叩いて笑った。そして前髪を掴む手を乱暴に離す。
「さーて、何を吐いてもらおうかなぁ。仁流会の内部事情は吐いてもらわねぇとなぁ。なんせ、お前ら組織は謎だらけだ。まるでマフィアみてぇにな。今時、古いんだよ、極道とかよぉ?お前らもやり難い世の中になったろうよ、暴対法なんて出来ちまって」
「さぁなぁ。興味あらへんわ」
本心を言えば、東雲が心の胸元を殴った。後ろ手に手錠をされた心は構える事も出来ずに、それを受けた。
ひゅっと、一瞬、呼吸が止まる。
そもそも後ろ手の手錠は今の心には必要ないはずだ。
「東雲さーん、殴ったら痣んなるでしょう」
窓際に立っていた男が笑った。昨今では取り調べ可視化が取り沙汰されているが、なるほど、これが現状ならばそれもそうだ。
広いとはお世辞にも言えない部屋の中で、横柄な態度を取る犯罪者相手にルールに則って紳士的な取り調べ。
そんな優等生な人間が、果たして何人居るか。器の様な広い心も度が過ぎれば割れるものだ。
「痣ってなぁ…転んだって言ったらいいんだよ。おい、オマエが組でどこまでエラいか知らねぇがな、所詮はクソガキなんだよ、ゴミだゴミ。行き着く先は俺の靴を舐める犬になるんだよ」
東雲はそう言うと、机の下で心の足を蹴った。
「…はぁ、ならその靴にジャムでも塗っとけや」
心がニヤリと笑うと、東雲の目付きが変わった。その時、外が異様に騒がしいことに気が付いた。
騒がしさは尋常ではない、怒号と叫声。物の壊れる音と何かが倒れる音。東雲が首を傾げると、窓際の男が入り口に近付いた。
「来よったわ」
その音を聞きながら心が口角を上げて笑い、東雲を射るように見た。