06. A past story of Yuzu

花series Each opening


吾輩は猫である。名前はまだない。そんなフレーズで始まる話を読む度に、昔の自分にリンクする。
白煙と爆音の中、崩れ掛かった建物に身を隠して冷たい機関銃を握りしめていたあの頃。
あの頃は、こんな時が来るなんて夢にも思わなかった。

高杉 遊樹ゆずの幼い頃の記憶は、見知らぬ国の聞き覚えのない言葉から始まっている。
どこで生まれ、どこで育ち、両親がどうだったかなどの記憶は一切ない。
遊樹はその頃の記憶が断片的にしかなく、一番鮮明に覚えていることと言えば、地下の薄汚い鼠の走り回る下水道だ。そこには紛争から逃げた女子供が身を寄せ合って、明日の光を夢見ていた。
男は戦場に赴き、自由を求めて銃を握る。そこに遊樹は混じっていた。
明らかに違う肌の色と顔。異国民の彼は、ずっと昔、だが昔というには遠すぎる頃にここに連れてこられた。性奴隷として。
言葉も何も分からない遊樹は、金のために売り飛ばされ国を渡った。それが何歳のときだったのかなどは記憶になく、ただ幼すぎる遊樹にはこの現実がどういうことなのか理解することは難しく、ただされるがまま、足を鎖で繋がれ大きな鳥かごの中で生活をしていた。
今でこそ、高杉遊樹という立派な名前はあるが、その頃は名もなかった。
天井には目映い光を放つシャンデリア。壁には少年天使の戯れる絵画。
ペドフィリアだと分かる趣向の部屋には、遊樹の他に同じ年頃だが肌の色や髪の色の違う少年が沢山居て、生気のない虚ろな目で鳥かごの角で踞っていた。
愛でるだけの飼い主でラッキーだったのかもしれないと、今となっては思う。
真っ白な裾の長いワンピースのような服を着て、ただ鳥籠の中で座ったり眠ったりするだけでよかったのだから。
だが鳥籠の中の少年たちは年月とともに身体は成長し、その変化を止めることは出来なかった。それは遊樹も同じだった。
漆黒の瞳と、華奢な身体。そして黒い髪の少年は珍しさから元は高く売れたが、思春期を迎えるようになると高くは売れず、売れ残れば男娼として身体を拓くことになる。
その頃には自分の立場を理解していた遊樹は、その現実を漠然と他人事のように考えていた。だが、そんなときに内戦が起こった。
爆撃は連日連夜続き、反政府組織と軍とのせめぎ合いが日に日に激しさを増した。負傷者が出続ける中、遊樹は兵士として反政府組織に参加することを余儀なくされた。
言葉よりも先に覚えたのが銃の扱いと爆薬の取り扱いだ。手先が器用な遊樹は、少ない材料でも殺傷能力の高い兵器を次々と作り上げていった。
そのおかげで組織の中でも遊樹は重宝された。しかし顔で異国民と分かれば色々と面倒なことになると、遊樹はいつも顔を布切れで覆い隠していた。
戦地で顔に大きな傷を負う者も多く、遊樹のそれを訝しむ者は誰一人居なかった。ただ、相変わらず言葉は少ししか分からなかったし、幼い頃から会話というコミュニケーションを取ってこなかったせいで何をどう喋ればいいのか分からずにいたせいで、遊樹はbigot=偏屈と呼ばれるようになった。
毎日が生きるか死ぬかという間の中、長く続いた紛争は隣国が介入し、一時休戦という形になった。そうしなければ、国諸共なくなる道しか残されていなかったからだ。
しかし、その瞬間に、遊樹は生きる場所をなくしてしまった。

兵器を持つ必要もなく、街は復興に励むべく地下に潜んでいた人間を吐き出した。皆が皆、生き生きとした表情でレンガを積み上げ、家を構築していった。
そこには、遊樹に手を差し伸べる者は居なかった。
内戦が治まると同時に、他国からの支援物資や医療チームがどんどんと国に入ってくるようになった。遊樹は、その様子を積み上げられた瓦礫の上に座り、ぼんやりと眺めて息を吐いた。
昨日まで泣いて明日を悲観していたのに、今日は何が面白いのか笑顔で歌う群衆を遠目に見て、遊樹だけが明日を悲観した。
何もない。家族も家も言葉も何もない。そもそも、自分が誰なのかよく分からない。
ここに連れてこられた記憶は曖昧だし、名前も分からない。
この国に連れてこられた日から、誰かと会話らしい会話をしたことがないおかげで、これからどうすればいいのか尋ねる術を遊樹は持ち合わせていなかった。
教養もなければ、自分がどこから来たのかも分からない。鳥かごの中で過ごし、その後、各国の情勢も情報として得れない内戦のおかげで遊樹は”日本”という国を知らなかったのだ。
それほどに幼い頃に、海を渡らされたということだ。
空は快晴で、遊樹の心とは裏腹に鳥が飛んで陽気に鳴いている。不思議なことに内戦で国が不安定なときは、鳥も姿を消していた。
「Hello?」
ふっと影が出来、遊樹の顔を覗き込む男が突然現れたので、少しぎょっとした。男はサングラスをずらし、布切れで覆われた遊樹の顔を見ると蛾眉を顰めた。
「日本人らしいってあっちで言われたんだけど、俺の言葉、分かるか?」
遊樹は男と視線が絡んだだけで背筋が寒くなり、ふっと顔を背けて瓦礫の上から飛び降りた。身体が、心がざわざわして落ち着かずに吐き気がした。
人と目を合わせたのは初めてだということに、今更ながら気が付いた。それがこんなにも恐ろしい事だというのを、遊樹は知った。
爆撃で飛び散った人だった物を初めて見た時よりも、自分に銃口を向ける男の頭を撃ち抜いた時よりも、何よりも、武装していない男の視線が死ぬほど恐ろしかった。
遊樹は震える足を悟られないよう泥を払う素振りを見せて、そこから立ち去ろうとすると突然、その身体を担ぎ上げられた。
「!!!」
「澤さんー、これ、確保」
暴れる遊樹をお構いなしに、男は日の丸の描かれたテントに向かう。それを見てゾッとして男の背中を叩き、暴れ、そして吐いた。

「ライフラインも崩壊してる水もないここで、まさかゲロ吐かれるとか」
「乱暴にするからだよ。本当にもう」
遠くで昔に聞いた言葉が聞こえた。それは長く身を置いた国の言葉よりもきちんと理解が出来、懐かしさを覚えた。
ぼんやり目を開けると白いテントの天井が見え、空が見えなかった。
「あ、起きた。大丈夫?ここは日本赤十字のテントだよ。君、日本人だろ?」
遊樹が目覚めた事に気が付いた丸眼鏡の男は、優しい笑顔で遊樹に話しかけてきた。だが、遊樹はすぐに顔を逸らし、ただ首を振った。
「えっと、日本人、じゃないのかな?」
「日本人だろうよ、首振ったじゃねぇか。言葉通じてるぜ、そいつ」
眼鏡の男と違い、乱暴に話す男は遊樹を担ぎ上げた男だ。遊樹はテントの中に用意された簡易ベッドに寝かされ、腕には点滴をされていた。
「あ、これは点滴。脱水症状起こしてるんだよ。君、物資受け取ってないだろ、水とか」
そんなものが提供されていたのも知らない遊樹は、ただテントをぐるぐる見回すだけだった。武器がないことに一抹の不安を覚え、息を呑む。
早く、ここから出たいと思ったが、どうにも身体が動かずにいた。
「この子、身元、誰も知らないんだよね。周りに名前聞いてもbigotとしか分からなくて」
「bigot?偏屈か」
何だそれと男が笑ったが、確かに周りは皆、遊樹のことをそう呼んだ。
初めは自分の事を呼ばれているとは分からなかったが、武器の事などで話しかけてくる男達はみな、その言葉を初めにつけたのだ。
名前のない遊樹は、それが会話の合図なんだろうなと思っていた。
「そうやってみんな呼んでたらしいよ。彼もそれで返事をしてたって。返事といってもそれに反応するくらいで、多分、言葉は通じてないんじゃないかって」
「そんなガキを戦場に立たせてたのか、しかもよその国のガキを」
男は苛立ったように言ったが、遊樹は落ち着かずに相変わらず視線を泳がせた。
落ち着かないのか、不安なのか、ことの変化に付いていけないのか、そわそわとしている遊樹に手を伸ばそうとした澤の手を男が掴んだ。
「無闇に触るな。そいつ、多分、軽度だけど自閉症だぞ」
「え?」
男の言葉に澤はハッとして遊樹を見た。
遊樹は相変わらず目を泳がせて、異様に居心地が悪そうだ。指を擦り合わせて、今のこの時間が苦痛に見えた。
外の崩れた瓦礫の上で過ごすよりも、言葉も分かり瓦礫よりも柔らかく寝心地のいいベッドに居る今が、遊樹には苦痛で仕方がないのだ。
遊樹の過ごしてきた環境がそういう症状に追いやったのか、元々持ち合わせたものなのか、推測するにはあまりにも情報が少なすぎて澤は頭を掻いた。
「とりあえず、この子の入国手続きをしよう。えっと、とりあえず名前だな。bigotじゃあ無理だ」
「遊樹」
「え?」
「遊ぶって書いて、樹木の樹で遊樹。名前はそれ」
男は紙に書いた文字を澤に見せて、これと再度言った。
「へぇ、良い名前だな。遊樹か。何だ、色々と紙に書いているそれって、名前を考えてたのか」
澤は遊樹に微笑みかけてみたが遊樹はそれに気付かず、いや、気が付かないようにしているのか、ただ何もない真っ白な天井を穴があくほど見つめているだけで反応を示さなかった。
視線を送る先が分からなくなったので、そこを見つめることにしたという感じか。
「日本人が居るって聞いた時は、まさかこんな子供だなんて思わなかったよ」
澤は手に持った資料を見て悲しそうな顔をした。そこに写っているのは機関銃を構え、その先にある”獲物”を狙う遊樹の写真だった。

ガチャッと鉄の擦れる音が部屋に響く。フォアエンドを引くと、独特の音が鳴り遊樹はフッと笑った。
部屋と呼ぶにはあまりに無機質なそこを、遊樹は気に入っていた。壁には数多くのディスプレイが街のあちこちの防犯カメラをハッキングして、映像を流している。
奥のドアを開ければ、遊樹が集めた武器が宝石を陳列するようにして並べられている。
遊樹の、意味のある毎日。あの頃は、一切、想像出来なかった。
「ね、お前、強盗でも行くの?」
入り口を見ればショットガンを嬉しそうに整備する遊樹を、崎山が呆れた顔で見ていた。
遊樹は崎山に銃口を向けて引き金を引くジェスチャーを見せて、また笑った。
「最新型だぜ?」
「ね、どこで使うの。ここ日本だからね」
崎山は机に並べられた銃を避けて腰をかけた。
崎山の距離感は好きだ。というよりも、この極道という世界は生きやすい。
誰も過去を詮索してこないし、相変わらず視線を合わせることの出来ない遊樹に、とやかく言う者は居ない。
常識やマナーにある程度うるさいところはあるが、そういう欠陥があると認識されると、一般、普通の世界よりもわりかし仕方がない奴だなと受け入れられるからだ。
さらにはこの法治国家のなか、銃器を自由に扱えるのも遊樹からすれば天国なのだ。
「しかし、よく手に入れたなぁ、お前」
崎山は机に無造作に並べられた銃器を一つ手に取って、弾抜いとけよと小言を言う。
「手に入れたとしても、この国では出番はねぇな。残念だ」
「お前は見てるだけでいいって感じだね。まぁ、別にいいけど…。あれ?この国、また内戦始まったの?」
数多く並ぶディスプレイの一つに映し出されたネットニュース。長らく安定していた情勢だったが、また内戦が始まったというものだった。
女が幼い子供を抱えて砂埃の中、逃げ惑う。そして、あちらこちらにモザイクのかかった遺体が転がる。
目を覆いたくなるような惨状が、そこにはあった。
「そこ、俺の母国」
「はぁ?何言ってんの、お前」
「フッ、冗談」
高杉は満足したように銃を置いて、天井を見上げた。

吾輩は人間である、名前は遊樹。