13. 思慕

花series Extra Shot


「あー、コイツ」
心は久々に顔を出した事務所で、乱雑に置かれた書類を一枚掲げた。人の顔を覚えるのは得意ではないが、多分そう。
「どうしました?」
隣に居た崎山が、心の珍しい行動に首を傾げた。
書類なんて心にとっては広告以下。見向きもしないのに、手に取ってる!そんな驚きが顔に出ていれば可愛気もあるが、全くもって平常な、いつもと同じ澄ました顔。
その崎山が、長身の心が持つ書類を少しだけ背伸びして覗き込む。
「あ、こいつ、今来てますよ?債権回収したんで、挨拶に来ていただきました」
「でかいんか?」
「10本程度です」
崎山は心の掲げた書類の男を見て、フッと笑った。10本程度ということは1000万。程度という金額でない。
所詮は自分から助けて下さいと手を出したものなので、それが元で首が回らなくなったとしても不憫だなんて微塵も思わない。
お前の蒔いた種だろうということだ。
「…へぇ」
心はそう言うと、乱雑に置かれた書類の上にどかりと腰を下ろした。それを崎山が横目で見てくる。
そこに座るな、その書類を退かせろと言いたいのは山々だが、言っても無駄な人間に言うだけ疲れるというところ。そして、その矛先はきちんと書類整理をしなかった部下へ向けられることになる。
ちらり、事務所の中を見渡してみるが、事務所は静かなものだ。
心が現われた事で事務所は蛻の殻になった。いきなり現われた心に、組員は卒倒。混乱状態に陥った。
収集のつかない状態に苛立った崎山は、そこに居た組員を外に叩き出した。
気ままな男の気ままな行動。出入り口にはバツの悪そうな顔の男が一人。心の側近の成田だ。
一言、連絡する時間がなかったのかと、睨みつけてみても後の祭り。心は煙草を銜えて、その書類をパラパラ捲る。
何の面白みもない男だ。田舎から出てきて商売を始めた。それが軌道に乗りかけた時に悪い男に騙され借金を背負い込んだ。
田舎者の人の善し悪しを判断出来ないところをついてきた、何とも典型的なパターン。
結局、どうにもならくなった男は、闇金に手を出す。闇金に手を出せば最後、鬼の様な督促が襲ってくる。負のループ。
「結婚しとるんか」
「ええ、嫁も働いてますけど、スーパーのレジじゃあ金利にもなりませんね。子供が小さいとかで、フルタイムで働くのは難しくて…あの?」
「へー」
心は誰に言うまでもなくそう言うと、その書類を崎山に渡して机から腰を上げる。次の行動がさっぱり読めない男は、事務所の奥にずかずか向かって行く。
「え?ちょ、組長?」
崎山が慌ててその後を付いて行くと、心はノックもなしに商談室と呼ばれるそこのドアを開けた。
「ぎゃー!!」
途端に、相川の馬鹿みたいな雄叫びが聞こえて、崎山は頭を抱えた。
商談室では佐々木と相川が、債権相手の男と話をしている最中だった。男は顔色も悪く、今にも倒れそうなくらいにやつれていて、その窪んだ瞳で心を見上げた。
「え!?な、どうしたんで…!?」
相川があたふたと立ち上がる。佐々木はさすが年の功か、ひょろひょろと長い身体を持ち上げて、ゆっくり頭を下げた。
「お前、また伸びたんちゃうんか?」
「まさか、伸びてないでしょ」
心が佐々木に言うと、佐々木はそう言って笑った。そして、心はわたわたと落ち着かない相川の頭を叩いた。
「ぎゃん!」
犬が叩かれたような声を上げて、相川はソファに押し戻された。佐々木は心に席を譲って、崎山を見る。
何なの?と聞きたいのだろうけども、崎山も訳が分からないのだから仕方が無い。
「昔は大きい男やと思ったけど、今はそうでもねぇな?痩せてるからか?」
心は男の丸まった背中を見て笑った。男は心が一体何者なのか分からずに、だが場所が場所なだけに怯えた顔をしていた。
少しだけ小刻みに震えていて、心は喉を鳴らして笑いながら男の前にゆったりと腰掛けた。
「…あ、あの」
男は崎山を見たり佐々木を見たりして、心許ない。何か助言してやりたくても、生憎、それを求めているのは崎山達だ。
「なぁ、お前、昔、ガキに前歯を折られたやろ?」
「え…?」
心が妙な事を言い出したので、その部屋に居た人間全員が首を傾げた。男は何の事だか分からずに、その顎を擦り、乾いてがざがざの唇を触った。
「前歯は…子供の頃に…」
「折られた。目付きの悪い、表情の薄いガキに」
「…ああ。はい、そう…です」
「名前、覚えとるか?」
「え?名前…?え…えーっと、」
「及川心」
「あ、ああ、そう。確か、そんな名前の子やった…」
男、春日 昌樹は膝を叩いて頷いた。心はそれをくつくつ笑って見て、紫煙を燻らせた。
「…え?まさか」
「及川心や。今は…ちょっと違うけどな」
「え!?」
春日はその頃の面影を必死で探す様に、心を見る。そして、その鋭い双眸を見て、ああ…と小さく頷いた。
「本当や、そうや、君や」
自分の今の姿を憂えているのか、春日は笑って両手で髪をもみくちゃにした。
「お前、村はどないした。まだあるんか?あの村」
時代錯誤も甚だしい、1世紀前のような世界。だが、山も川も、そして空気も全てが綺麗で新鮮だった。
「村は…まだあるよ。相変わらず、寂れとって…いや、あれがええんやな」
春日は寂しそうに笑った。
「都会に夢見て出てきて、痛い目遭うたんか」
ククッと喉を鳴らして笑う。
閉鎖的な世界。右も左も、他人なのに全てを知っている村人。毎日がひどく単調で、新鮮さは皆無の村に若い者は嫌気が差して出て行く。その閉鎖的な空間から逃れるべく、街へ飛び立つのだ。
老いていく村。寂れて、ただ朽ちて行くのをじっと待つ。
ガキ大将だった少年の、あの自信に満ち溢れた堂々とした面影は消え、疲弊し、憔悴した、夢も何もかも失った男は心に逢い、村が懐かしくなったのか啜り泣いた。
「俺がアホやった。外に出たら…何もかんも真新しいもんばっかりで。ほんなら事業まで当ててもうて、ここで一花咲かそう思うたら…騙されて。もう、村には帰られへん」
「お前、村に山持ってるんやろ」
「あれは、俺のやのうて…家族のや。俺なんか、もう家族やあらせぇへん。やて、俺は…山も川も…」
もう、言っていることは支離滅裂だ。春日は溢れる涙が止まらないのか、ずっと涙を拭っている。
心は窓の外に目をやり、ぼんやり眺めた。そして、背後に居るであろう崎山を指を動かして呼んだ。
「10本」
「…は?」
「ないんか?」
「ありますけど」
崎山は遂にトチ狂ったかと言わんばかりの顔をして、商談室を後にした。
「山も、まだあのまんまか」
「ああ、あそこは不便やさかい。開発もされんとあのままや…集落がのうなったら終わってまうけど」
「どうぞ」
崎山がどんっと机の上に封筒を置いた。
相当機嫌が悪いなと心は笑った。
「それ、お前にやるわ」
「は…?」
春日が間の抜けた声を上げたが、崎山はやっぱり!と言わんばかりの顔をした。青筋が浮いて見える様で心はそれを背中で笑う。
「お前の借金、それでチャラや」
「いや、言ってる意味が…」
全員分からないんですけど?
「昔、お前の前歯折ってもうた。あれから、少し考えて…やりすぎたなぁ思うてなぁ。あないな村やったら、前歯も綺麗に治す歯医者もおらんかったやろう」
医者と呼べるのは、齢80の今にも死にそうな爺だけだった。
心は一度だけ熱を出して、その爺に診察をしてもらったことがあるが、聴診器を耳に付けずに心の心音を聞いて風邪だと言った。
心が知る限り、医者と呼ばれるのはそのコントの様な爺だけで、眼科も整骨院もなく勿論、歯医者は居なかった。
「いや、でも、そんな」
春日は状況が飲み込めずに狼狽した。
また、騙されるのでは?そんな疑心が春日を襲っていた。
「心配か?せやなぁ、なんか騙されるかもって?なら、条件がある」
やっぱり!と春日は心を見た。
疲れきった目を見て、心は鼻を鳴らす。
「もう十分やろ」
「…え?」
「条件は一つ。村へ帰れ。ほんで、こっちに二度と出てくんな。お前の家は…確か米作ってたな」
「ああ、うん。今は、両親と祖父母が。弟はサラリーマンで…九州に転勤で」
「ちょうどええやんけ。ああ、お前、結婚しとったな」
「ああ、うん」
「連れて帰れ。これ持って」
心が言うと、春日は涙腺が崩壊したように滝の様な涙を流した。礼を言っているようだったが、もう言葉にはなっておらず、嗚咽混じりのそれはいつまでも商談室に響いた。

「あ、じゃあ…」
落ち着いた春日は、小さく頭を下げて立ち上がろうとした。だが、心を見て口を開く。
「俺、まだ子供で…、それに村は小さくて。大人の噂話も良く耳に入って…それで調子に乗ってあないな事言うてもうて。殴られてもしゃーないんやて、大人になってから気ぃついてん。ほんまにすまんかった」
「懲りたら、こっちに近寄んな」
「あ、お母さんの事は気の毒やった。ほんまに…」
「…あ?」
「え?知らんのか?亡くなったん」
春日の言葉に、心以外の人間は少し驚いた顔を見せて心を見た。だが心は眠たそうな顔のまま、ただ煙草を燻らした。
「そうか、知らんかったんか。いや、せやな。知らんかもしらんな。ある日突然、見たこともない高級外車が数台現われて、あんたを連れ去ってもうて。子供取られてもうたのんが精神的にきたんか…山で首吊って死にはった」
「…そうか、死んだか」
心はやはり表情も変えずに呟くと、ゆっくり紫煙を吐き出した。

「やらかしてくれたそうですね」
春日の送迎に成田を使ってしまい、足のなくなった心は崎山達の思惑通り相馬の送迎で帰る羽目になった。
勝手に会社の金を1000万も捨て、回収債権も捨て、その損失は小さいものではなく崎山の怒りももっともなわけだが。
「お前はないわー」
今、一番逢いたくなかった。心は敢えて口に出して、助手席のリクライニングを目一杯倒して運転席に背中を向けた。
「乃愛さん、亡くなってたそうですね」
「さらっと傷口抉るよな、お前。こういう時はそっとしとくんやろ」
「おや、傷心しておいでですか?」
ああ。やだやだ。本当に…。
「傷心…はどうやろな。一緒におったんも短かったし。あ?お前、まさか知っとったんか?」
相馬なら、しれっと知っていましたよと言いそうで心は運転席に顔だけ向けた。
「まさか。乃愛さんはあなたを隠すために戸籍も現住所も出鱈目でしたからね。探すにも、書類で探せる状態でもありませんでしたし」
「あっそ」
ちょっと意外だと心は笑って、また運転席から顔を背けた。気の合わない男の顔をいつまでも見ていられるほど、寛大な心は持ち合わせていない。
「探すべきでしたか?」
「なんでやねん。せやけど、死んで正解かもな」
「は?」
「生きとって、俺の親やてどっから漏れ伝わるか分からん」
確かに、心の親、しかも母親となると不利益になることが多くなる。心の母親を見たのは写真だけだが、心とは似ても似付かない儚さのある綺麗な女だった。
今、健在であったとしてもその美しさに陰りは無いだろう。そして、女は所詮、自分の身を自分で守れる程に強くはない。
心にとって、一応はマイナス要素に成り得たかもしれないということだ。
「あなたが母親思いなのは意外です。でも、乃愛さんのことは本当に、お悔やみ申し上げます。ですので、明日からイースフロントへ出勤なさってくださいね」
「お前な、お悔やみの意味、知ってんのか?」
「あなたよりはね。損失、私が香典と言うとでも?」
「思わへんわ、ボケ」
「なら良かった。ああ、そうだ。今日は静さんが雨宮と一緒にカレーを作ってましたよ、楽しみですね」
相馬はそう言って笑った。

それから数ヶ月して、春日から事務所に大量の米が届けられ組員は大喜びした。