相馬北斗の家は、旧家である。
一人息子である北斗は、容姿端麗、頭脳明晰ーまさにその言葉がぴったり当てはまる子供で、近所でも評判だった。
家が代々弁護士や検事というのは結構面倒なもので、何故か、家と全く関係のない人間までもが、このまま将来はやはり弁護士や検事になるんだろうねと期待に満ちた眼差しを送ってくる。
別に他人の目が気になる性格ではないので、それをプレッシャーだとか苦痛だとかは一度足りとて思った事はない。それに、弁護士や検事という職業は、自分に向いているかもしれないと思っていた。
父親の良樹が極道の顧問弁護士だと知ったのは、小学校の高学年になって間無しの事だった。
極道の弁護というのは、色々と面倒だと聞く。酔狂にも程があると、自分の父親のことながら他人事の様に思っていた。
だが、良樹が顧問弁護士をしていた仁流会鬼塚組という組はわりかし人情味に厚く、堅気の人間相手に難癖をつけるようなチンピラもいない、極道にしては殊の外クリーンな組だった。
良樹が顧問をしているせいで遣いで組に出入りしても組員はとても気さくに接してくれ、組長である鬼塚清一郎は子供が居ないとかで、北斗が組に行くとえらく喜んでいた。
目尻に深い皺が掘り込まれた辺りを見ると、もう世継ぎを設けるのは難しそうだ。
別に世襲でないと組を継げない訳ではないので何も問題もないだろうが、色々と面倒だろうなぁと、やはり他人事の様に思った。
「鬼塚の世継ぎが見つかったらしい」
初夏の陽気が肌に馴染む頃、朝の朝食の場で良樹が言った。
そんなに老い先短い様には見えなかったが、そうか、もう引退するのかと思いながら傍らで聞いていた。
良樹は案外、無頓着な人間で、仕事の話をまだ幼い北斗の前でも平気にしていた。
母親の佐和子はそれを嫌ったが、元々、それを聞いた所で他所で話しをする様な下世話な北斗ではないことくらい、佐和子が一番良く分かっていて半ば諦めていた。
「世継ぎって、引退なさるんですか?」
「いや、何でも産まれていないと思っていた子供が、産まれていたらしい」
「何ですか、それ」
ようは鬼塚の女の一人が鬼塚に内緒で産んだのだろうと、察しの良い北斗は一人納得した。
さすがに北斗の前でそんな話をするのも気が引けた様で良樹もそこは濁していたが、余計に察しがつくというものだ。
「まぁ、それでね、戸籍を動かしたり養子縁組の手続きに動くから、少しの間バタバタしそうだよ」
「ねぇ、その子供っていくつなんですか?」
「あ?えっとね、北斗より年下だよ。まだ小学生じゃないかなぁ」
”まだこっちに来てないみたいでね”とブツブツ言っていたが、小学生という、幾分、物事の状況が把握出来る年に極道の家に急に連れて来られて何とも不幸な。と、やはり人ごとの様に思ったが、北斗には何ら関係のない話で、不憫だとか可哀想だとかは一切思わなかった。
「やはり、継ぐんですか?」
「さぁ、器量の問題だろうね。会社を継ぐのとはまた違うからね」
「可哀想ねぇ、まだ小学生なんでしょう。急にねぇ」
佐和子はやはり親心か、極道の世界に急に連れて来られた顔も知らない子供を、不憫に思っている様だった。
「鬼塚氏は結婚もしてないから女手もないし、色々と不便だろうねぇ」
「さすがに大泣きでもして、手がつけられない子供かも」
朝食のサラダを頬張りながら北斗が口を挟むと、”そうかもなぁ…”と面倒くさそうな顔を覗かせた。
北斗の面倒な事はあまり好きではない性分は、父親譲りの様だ。
小学生なら強面の組員ばかりの家に放り込まれて、不安にならない事はないだろう。だが、それも運命だと受け止めるしか無い。
何せ、鬼塚組の唯一の世継ぎ。戦国時代なら、一言意見するにも許可の要る立場だ。
極道か…それはそれで面白そうなのになと、相馬はコーヒーを飲みながらそんなことを思った。
夏休みともなれば、塾の夏期講習で週の大半以上はほぼ埋まる。
塾には通って入るが、特段、成績は悪い方ではない。どちらかと言えば優秀過ぎる方で、夏期講習もそろそろ面倒だと思い始めていた。
まだ陽が高い時間から、エアコンの程よく効いた部屋でホワイトボードに書き込まれた数式を解析していると、何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。
それならいっそ思う存分外で散歩でもしてから家で適当に勉強する方が、身になるというものだ。
第一、ここで教えられている事は、北斗からしたら既に理解し終えたもので何の役にも立たない。これでは高い月謝を払っている両親に、申し訳ないというものだ。
いっその事、帰ってから塾を辞めたいと言うのも良い。佐和子も良樹も、北斗の申し出を反対するタイプではない。
別に、教育ママでもない佐和子は北斗の好きな様に何でもさせるタイプだし、良樹はどこか惚けていて、北斗が塾に行っている事すらよく知らない様に思える。
この塾だって、難関高校の合格率が高いと聞いて試しで入りたいと言ったのだ。入塾テストは開講以来の満点合格で、塾長は北斗を両手を広げて歓迎した。
塾が終われば友達とファストフードで話をしたりなど寄り道もありきかもしれないが、ここに通う子供はやはりらしくない。
この年で何年後に通うのであろう志望高校に目標を定めて、皆、勉学に励むのだから普通ではない。
同じ塾に通うのに同じ狭き門を目指す敵としか思っていなくて、成績トップの北斗などは最早、塾生全員から敵対視されているのだ。
やはり早いこと辞めてしまおうと、北斗は一人思いながら帰路についた。
エアコンに慣れた身体は、初夏と言えども暑さが堪える。夏も本番になる頃には、一体どこまで暑くなるのか少しばかりうんざりしてきた。
「ただいま」
「あ、北斗、良い所に帰って来た。ちょっと、鬼塚の家までお届けものしてくれる?お父さん忘れ物したんだって」
「一応、夜から塾あるんだけど」
夏期講習は朝から15時までと18時から22時まで。その辺のサラリーマンと同じ様な過酷なスケジュールで動いている。土日祝日も休みがなく、夏休みの間休みなくずっと、というのを入れると塾の方が過酷かもしれない。
午前の部が終わり午後の部までの空いた時間に課題をしたり一眠りして食事をしたりするのだが、家の近い北斗は後者だ。
コンビニで何か買って来て塾の自習室で勉強をしながら食べる者も多いが、そこまでしても人間の脳には吸収容量というものがあるのだ。やればいいものではない。
そう言いながらも、食事くらい家でゆっくり食べたいというのが正直なところだ。
「じゃあ、お母さんが持って行くしか無いか」
「いいよ、僕が持って行きます。そのかわり、塾、辞めさせてくれます?」
「あらら、飽きたの?」
「飽きたというか、つまらないし身にならない。あれではお金の無駄です」
「ああ、そう」
子供らしくない事を言う北斗を大して気にもせずに、それじゃあ届け物が出来るわねと、何事も無かった様に佐和子は書類を押し付けた。
せめて汗臭い身体をシャワーでスッキリさせたかったが、どちらにせよ鬼塚の家に着く頃にはやはり汗だくになっていることは必須で、北斗は諦めた様に家を出た。
鬼塚の家は、電車で2駅。近いと言えば近いし、駅から鬼塚の家が離れているので遠いと言えば遠い。
ただ、この暑さの中では随分と遠い気分になる。
相馬法律事務所と書かれた書類を子供があからさまに持つのは気が引けて、トートバックに入れたA4の封筒を電車の中で覗き見た。
よく見ると、書類の束の中に戸籍謄本を見つけた。これは今回の件に一番重要な書類ではないのか、どこか抜けている良樹に半ば呆れた。
覗き見てみると、どうやら子供は福岡から連れて来られた様で、住所も戸籍も福岡だった。
「…心?」
子の欄に書かれた名前を、北斗は聞こえない様な声で呟いた。
一体どういう子だろうかと、北斗は初めて心に興味を抱いた。鬼塚の家に行けば逢えるかもしれないと思いつつ、目的の駅で電車を下車した。
やはり暑い。もう脳内はそればかりで数学の公式や化学式を思い浮かべても、やはり、それが馬鹿馬鹿しいと思えるだけで、早く鬼塚の家に着かないかと自然に足取りが早くなる。
結局、”無”になる事が一番暑さを紛らわせると一人納得しながら、覚えのある道をひたすら歩いた。
「あ、北斗さん、こんにちは」
ここいら一体で一際目を惹く門構えの前に、打ち水をする男が北斗に声を掛けた。
声を掛けられた事で、ここが鬼塚の家の前だという事に気が付いた。もし声を掛けられなければ、このまま通り過ぎていたところだ。
「こんにちは、届け物を」
「ああ、先生は今、頭と話している最中ですわ。中で涼んで下さい」
男は、気さくに北斗を中に迎え入れた。
北斗は、ほうっと溜め息をついて門を潜った。あまりの暑さで、着ている服すら気持ちが悪い。
旧家というのはハイテクのエアコンが設置されていなくても、風通り等を考えて作られたせいか快適の温度で屋内を保っている。
中に入っても肌寒さや作られた涼しさの不快感もなく、北斗は広過ぎる玄関でサンダルを脱いだ。
時折、組員が北斗を見つけて声を掛けて来る。
やはり子供らしくない北斗に、大人と会話をする様に話掛けて来る組員を邪見に扱う事も無く、北斗は他愛ない会話から軽い冗談まで、全て受けて流す程度の話術で成し遂げる。
そうして辿り着いた客間に北斗は入り込み、上品なソファーに身体を預けた。
暑さで解けそうだという表現はあるが、まさにそれだ。
「暑い…」
「夏やねんから当たり前やろ…何や、オマエ、誰」
誰かに言った訳でもないのに、急に返された言葉に北斗は飛び起きた。
周りを見渡せば、先程北斗が入って来たドアとは別の書斎に通じるドアに一人、少年が立っていた。
北斗より小さい少年は、それでも長過ぎる前髪の隙間からこちらを伺う双眸は獰猛な光りを放ち、顔立ちは眉目秀麗で見惚れてしまう程だった。
その言葉に相馬は、あれ?と思ったものの、人当たりの良い笑顔で微笑んだ。
「こんにちは。僕は相馬弁護士の家の者です」
北斗はゆっくりとした口調で、少年に挨拶をする。それに少年は露骨に顔を顰めた。
「名前。俺、オマエの名前聞いてんねん」
見るからに、北斗は自分よりも年上に見えるはず。明らかに少年よりも背も高いし、中身が大人びているせいか、外見も年齢よりも年上に見られる事はしばしばある。
なのに少年はそれに気が付いているのか、そんな事は関係がないのか上からものを言う様に北斗に言い放った。
「相馬北斗だよ。君は心君だろ?」
この家に子供が居るのを、北斗は見た事がない。
それなのに子供が居るという事は、良樹が言っていた”世継ぎ”だろうと北斗は思った。
「ふん、オマエもか」
ナニが?と聞きたかったが、とてつもなく機嫌が悪い様に思える。
子供らしいのからしくないのか、子供ならそれ相応に媚情を見せたりしそうなものの、そんなものは微塵も見せずに全ての感情を表に出す様だ。
心は北斗の前のソファーに腰をおろして、気怠そうに欠伸をした。
自分は極道の息子だぞと、不遜な態度を取っている訳ではない。どちらかと言うと、その立場すら自分には関係がない様な無関心に見える。
と、ドアがノックされ目を向けると、見覚えのある組員が顔を覗かせた。
「あ、心さん、ここにいらしたんですね、急に居なくなるとビックリしますよ。あ、北斗さんとお話されてるんですね。よろしくお願いします」
男はそれだけ言うと、北斗に頭を下げてドアを閉めた。北斗は心の眉間の皺が深くなる事に、なるほどとほくそ笑んだ。
「君、あれに腹を立ててるんだろう?」
「はぁ?」
「何をガキに敬語使ってんの?ってそんなところだろ?」
図星をさされたのか、心が驚いた様に北斗を見た。
「図星?」
「ムカつくわ、オマエ」
「違ったら謝るよ。ああ、僕がこういう話し方なのは、別に君の立場がどうこうという訳ではないよ。ただ、こういう性分なんだ」
フフッと笑ってみせると、癪に障ったのか、目の前の大きなガラスのテーブルを足でガツンと蹴った。
「ああ、このテーブル、フランス製なんだよ。あんまり無下に扱うと勿体ないよ」
「オマエ、ほんまにムカつく」
「そうかい?僕も、君は嫌いだなぁ」
ストレートに言った言葉に、心は傷ついた顔を見せる訳でもなくフンと鼻を鳴らすだけだった。
これが、相馬北斗と、鬼塚心の出逢いだった。