26. Le Petit Prince

花series Extra Shot


「そういえば静さんは、海などに行かないのですか?」
「う〜ん」
相馬の問いかけに鮸膠も無い返事をしながら、静は辞書を捲った。相馬は心のプライベートルームで、静の論文の手伝いをしていた。
今回の論文はフランス語で書く感想文。もちろん、お題の本もフランス語で綴られた”星の王子様”。原題Le petit princeはアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説で、砂漠に不時着した”ぼく”と小惑星から来た王子様の話だ。
宇宙からの侵略みたいな宇宙戦争を思い浮かべてしまうあたり、相当キてるなと思う。ここ数日フランス語に侵略されている静の頭の中は、ラテンアルファベットで満員御礼だ。
こういう課題が出ると、どうしてフランス語を専攻したのか入学時の自分を恨んだりする。よりによってフランス語と思ったが、ロシア語を専攻した学生はもっと悲惨という噂を聞いた。ロシア語なんて、挨拶すら分からない。
「フランス語なんて、取るんじゃなかった」
後悔が口をついて出る。言っても仕方ない事だが、言ってしまいたくなる。
「フランス語はとても簡単ですよ。基本はア・イ・ウ・エ・オです。ローマ字読みということですよ」
「あ、ははは」
相馬の助言に乾いた笑いが漏れる。頭の違いを分かってよ、なんて思ってしまう。
相馬は大学でフランス語を専攻していたとかで、星の王子様どころかモンテ・クリスト伯を辞書なしで読めるほど、フランス語に長けているそうだ。
モンテ・クリスト伯を読破するあたりが、相馬らしいといえばそうではあるが…。だがフランス語に長けていると聞いてしまえば、多忙だと知っていても土下座の勢いで助けを求めるというものだ。そういう流れもあり、今、こうして相馬は一文一句漏れる事なく頭に入っている”星の王子様”の講師として、静の前に座っていた。
「静さん、海はいつもどの辺に行ってるんですか?」
「うーん、海…」
レポートと睨めっこを続ける静に相馬が息抜きの雑談で話しかけたのだが、静の耳には届いていないのか生返事しか返ってこない。相馬はそれに肩を竦め笑った。
「静さん、ここ、スペルが違いますよ。rassurer。sが足りませんね」
「あ…」
「少し休憩しましょうか?」
「あー、うん」
静は伸びをすると、ペンをテーブルに転がした。頭の中で星の王子様が嘲笑っている。アラン・ドロンがニヤリと笑った気がした。
「最近、卒業に向けてのレポートが多いですね」
「うん、俺、単位足りないから」
「息抜きに、一日くらい、暁さんと海にでも行きますか?お供しますよ」
「俺も行く」
ソファで身の丈の長い身体を投げ出して眠っていると思いきや、急に声を挙げる男を二人して横目で見ると、嘆息した。声の主はもちろん、この部屋の主、心だ。
この男は静が必死でレポートを遣り上げ様と躍起になっているのに、あれこれと横槍を入れてきて、先ほど静に怒られたのだ。すっかり不貞腐れて眠っていると思いきや、しっかり起きていたようだ。
「人の会話に入ってくるなんて、下世話ですよ」
「お前らが俺を邪険に扱うからやろう」
「邪魔な人間を邪険に扱って、何が悪いのですか?」
「ふん、で、どこの海にすんねん」
「俺、行かねーし」
二人の論争が始まるかという時に、静は言い捨てるように言った。
「「は?」」
思わず、心と相馬の声が重なる。だが、相馬がフフッと笑った。
「ああ、鬼塚が行くのが嫌なんですね、ええ、連れて行きません。ご安心を」
「はぁ?何を言うてんねん」
「行かないって!!!」
二人のやり取りが始まろうとする前に、静は更に大きな声を挙げ立ち上がった。
ガタンという椅子の音が部屋に響き、室内は水を打ったように静まり返った。それにハッとした静は驚く二人の顔を見て、きまりが悪い顔を見せた。
「…ごめん」
静は小さく呟き、”シャワー浴びる”と部屋を出て行く。それを相馬と心は見送った。そして、相変わらずソファに寝転んだままの心は、煙草に手を伸ばし銜えると火を点けた。
「相馬ぁ、静のオヤジ」
「ああ、やはり貴方もそう思いますか?」
「海であがったオヤジ見たら、そりゃ海入りたないなぁ。今回はオマエが悪い」
「そうですね、申し訳ない」
相馬は心の向かいに腰掛けると、長い足を組んだ。
静の父親は借金苦から海に身を投げた。静にとって海は、苦々しい思い出しかないのだ。
「…ああ、そうだ」
相馬は何かを思いついたように、ニッコリ微笑んだ。

「どこ行くんだよ!!!」
わーわー喚く静を横目に、珍しくハンドルを握る心はどこかご機嫌だ。だが静はそんな心とは対照的に、すこぶる機嫌が悪いというか激怒。それもそのはずで、静は大学から帰って早々、心に部屋から連れ出された。
そして問答無用、行き先不明のまま車に押し込まれた。ほぼ拉致だ。怒るのも無理がないというところ。今日は相馬が忙しいからと、迎えは成田だった。そして部屋に行くと心が居たので驚いた。
心も最近では多忙で、日付が変わらないと帰ってこない事が多かったからだ。仕事が一段落したのかと思ったが、だからといって拉致られる覚えはない。横暴さは今に始まった事ではないが、されるがままというのは性に合わないので、何するんだと抗議する。
だがそうしたところで、聞く耳を持たないと言わんばかりに心は何も言わない。わかってはいるが、やはり腹立たしい。静はその爆発しそうな怒りを、目の前のダッシュボードをガンッと蹴って散らした。心のお気に入りのH2だろうが何だろうが、こんな横暴をされる覚えはない。
しかし、怒り心頭の静に大したアクションも起こさずに、心はただ車を走らせた。静も馬鹿ではない。結局、この野放図な性格の男に言うだけ無駄だと、諦めて流れる町並みを眺める事にした。
暫く走った車は滑り込むように、ある敷地に入り込んだ。その敷地に聳える建物に静は目を丸くした。都内でも有数の高級ホテル。世間に疎い静でも、そこがどれほど格式あるか知っているくらいの高級ホテルだ。
「ちょ、ちょっと」
思わず声を上げた。ダッシュボードを蹴飛ばしたことは謝るからと、見当違いなことを口にしそうになる。心とホテルが頭の中でイコールにならずに、これはまさしく間違い!と心の服の裾を掴んだ。
スッとホテルの正面玄関に車が停まると、制服に身を纏い、他の服装が想像出来ないようなベルボーイが頭を下げて出迎え出てきた。助手席の静の方のドアを開けられるが外へ出ようとせずに、ぎゅっと服を掴んだまま首を振った。
「え、ま、待て。何これ、ちょっと、何?お前、何でこんなとこ。大体、外に勝手に出ちゃったじゃん。これ、ちゃんと相馬さんとか知ってるんだろうな」
「なにが」
心はそんな静を放って車を降りると、スタスタと入り口へ向かう。その後ろ姿を唖然として見送っていたが、いつまでも助手席から降りようとしない静にベルボーイが困った顔を見せていることに気がついた。
「あ!えー、あーっと…降ります」
すいませんと頭を下げて車を降り、慌てて心を追いかけた。

「おいってば!!出掛けること、ちゃんと相馬さんとか知ってるんだろうなって聞いてるんだよ」
「ああ?…さぁ」
「さぁって!!」
弾除けの車も居なかった。部屋を出てから組の人間に逢って居ないし、もしかしたら、今、組は大変なことになっているかもしれない。
だが、慌てる静を余所に、心は静の腕を引きエレベーターに乗り込んだ。目的地は最上階。後ろを見れば、ガラス張りのエレベーター内から街が一望出来た。
段々高くなる視界に広がる視野。すっかり陽の沈んだ都会を彩るネオンがキラキラ輝いて、静は感嘆した。
「きれ…」
感動も束の間、エレベーターは目的の階に緩やかな振動で到着すると、心はまた静の腕を掴み歩き出した。
「おい!痛いって!ってかどこ行くんだよ!」
「喚くな、喧しい」
「じゃあ離せ、馬鹿!」
悔しいことに、長身の心と静ではリーチの違いが大きい。少し駆け足にならないと、歩調が合わないのが腹立たしくて仕方がない。
向かう先を見れば、解放されたドアが見えた。観音開きの西洋風のドアの向こうは真っ暗だ。心はそのドアを潜ると、ヒョイと静を抱き上げた。子供のように抱き上げられ、静はぎょっとした。
「ぎゃー!何すんだ!おろせ!!!」
「ムードのねぇ…犯すぞ」
心の言葉に静がピタリと声を噤んだ。暗い部屋を心はまるで夜行性の獣の様に、迷いなく歩く。訳のわからない静はパニックだ。
すると心が急に立ち止まり、静を横抱きのスタイルにして抱え直すとその額に口付けた。
「…へ?」
「ほな、下ろすわ」
心は一言そう言うと、軽い静の身体を宙に放り投げた。
「えっえっ」
宙を舞う身体と、どこに落ちるか分からない恐怖に静は身体をバタつかせたが、あっというまに静はそこに落ちた。ザバーンッ!!!!!水飛沫をあげながら飲み込まれる身体。
予告なく水中に投げ込まれた静はパニックになった。目を開けても辺りは暗闇で、もう上も下も分からない。もがいたせいで口から容赦無く水が入り込み、ぎゅっと身体を縮ませた。
息苦しさの中、静の頭に浮かんだ水に濡れ真っ青になった父親の姿。静はハッとして、無我夢中で何かに縋ろうとした手を力強い手が掴み、その方向へ引き寄せられた。
「ゲホッ!ゲホッ!」
「ゆっくり、呼吸せぇ」
「ゲホッ…こ、のゲホッ」
文句を言いたくても、気管に入った水がそれを塞ぐ。噎せ返りながら、離されてなるものかと心の逞しい身体に縋り付いた。大体、人を予告なく水に投げ込んどいて、ゆっくり呼吸せぇとは何事か。
「お前が溺れそうなっても、俺が助けたる」
「…ゲホッ…あ…?」
「お前は俺が守ったるから、そんな過去に縛られんな。ムカつく」

”心で見なくっちゃ、よく見えない。いちばん大切なものは目に見えないんだ。”

ぽんっと星の王子様の台詞が頭に浮かんで、水に濡れた、端正な顔の心を見つめた。
「……」
「何か言え」
「やっぱり…お前、ムカつく」
少し顔を赤らめた静の言葉に、心は満足気に口づけた。
「…邪魔して申し訳ないんですがね」
パッと灯りが点けられ、目が眩むがまさしく相馬の声だ。
「遅いやんけ」
「先に部屋に来ると思うでしょう。まさか服のまま入っているなんて、夢にも思いませんよ」
「うっわ!めっちゃ広いし!スゴいっすね!」
「相馬さんと、成田…さんも?」
慣れた瞳で見回せばそこは屋内プール。静が服のまま入水しているのは、紛れもなくプールだった。
ガラス張りの壁からは都内が一望できプール事態も大きなもので、静が相馬たちが来ても心から離れないのも、かなりの深さがあって足がつかないからだ。
「…へ?何?プール?」
「海は行きたないんやろが」
「プールならどうかと思いまして」
相馬が静の手を取り引き上げる。ずぶ濡れの服が重たい。べっとり身体にへばりつく衣服が、嫌な感じだ。次いで心が軽々あがり、濡れたシャツを脱ぎ捨てた。
「成田も、あと崎山や橘や相川も来ますから」
「え…」
「夏はどこも行かんかったし、海はもうクラゲが出とる。他所の国の言葉と睨めっこしすぎて、ここにシワが寄っとる」
心は静の眉間を指で突いた。
「それ好かん」
「着替えましょうか、とりあえず」
相馬は心の言葉に笑うと静を連れて、プールのすぐそばの部屋に足を運ぶ。プールの横に部屋。メインは部屋かプールか、平凡な静には理解し難い部屋だ。
「あ、あの相馬さん」
「はい?」
「この間はごめんなさい」
「この間?ああ、構いません。誰しもそんな時もありますよ」
「こんなとこまで借りてもらって」
「借りる?いえいえ、ここは組の経営です。といっても鬼塚の名前を表に出してない、フロント企業のね」
このホテルの経営を鬼塚組がしているのかと、衝撃的な事実に言葉を失う。これはもう、鬼塚組がすごいのか、フロント企業がすごいのか分からない。
「この階はプライベートルームになっているので、一般客は泊まれません。鬼塚の持ち物です。ですから、気兼ねしないでください」
呆然としている静をよそに、相馬はにっこり微笑んだ。

用意された水着に着替えて上にTシャツを着てプールに戻れば、やたらはしゃぐ声がする。見れば、成田や相川が橘にビーチボールを当てて、大はしゃぎしていた。
プールサイドに用意されたソファベッド心は寝転がり、その横の大きなテーブルにはいつの間に運び込まれたのか沢山の料理が並べられ、崎山と相馬は水着に着替えてはいるものの、その料理と酒を楽しんでいるようだった。
「ああ、静さん。着替えれましたか?」
「うん。ありがとう」
どこに座ろうか迷ったが、空いているところは心の寝転がるソファベッドしかない。渋々、そこに腰を下ろすと、その腰に後ろで寝転がっていた心が腕を絡めた。
「静、酒取って」
「自分で取れよな」
と文句をいいながら、テーブルに並べられた缶ビールを取り、心に渡した。
「泳ぎますか?静さん、泳げますよね?」
「泳げるけど、腹減った。先に食べていい?」
「ええ、何か食べたいものがあれば言ってください」
「成田さんたち…腹減らないのかな」
確か静よりも年上で、あと、極道ですよね?と確認したいくらいのはしゃぎっぷりだ。あまりに楽しそうなので、早く混ざりたい気持ちにもなる。
「こういう場所に来ると、必ずああやってばか騒ぎする奴居るでしょ?あれが典型的な例ってやつでしょ。腹減るよりも遊びたいみたいなの」
崎山が呆れたようにいい放ち、酒を飲む。プールは最早、小学生の夏の日。プールサイドから飛び込んだり、上に乗っかかって相手を沈めたりとやりたい放題だ。
「あいつら、あれですね。阿呆」
崎山が冷たく言ったが、ぎゃーぎゃーと子供のようにはしゃぐ成田達と、その傍らで相馬達との食事。
それだけで静は心が弾み、相馬達との会話を楽しんだ。

静はシャワーを浴びにバスルームに来ていた。広いジェットバスの隣に壁に埋め込まれた鏡。静は鏡に両手をつき、鏡の中の自分を見つめた。結局、プールに入らなかったが、それには理由があった。
「…あり得ねぇ」
一言呟き、目を閉じる。そして、食べても食べても太らない腹を擦った。
「何なの、あの腹筋」
心は風呂あがりなど見慣れては居るが、よくよく考えてみると寝てばかりのくせに、やたらと身体は引き締まり絞り込まれている。
無駄な肉の一切ない、筋肉で覆われた見事なボディ。心を褒めるつもりはないが、あれは男ならば憧れる身体だ。そして相馬はスーツを纏っていても、鍛えているんだろうとは思っていたが、心と良く似た身体つきで驚かされた。
成田や橘や相川達に至っては、やはりとしか言いようがなかった。橘なんてその身体が凶器のような筋肉だったし、成田のそれも心と作りは似ていた。
相川は典型的なボクサーの身体で、身体を見ると本当にボクサーだったんだなと実感したほどだ。現役を退いているにしては、出来上がりすぎている身体だった。
だがその誰よりも一番、静を驚愕させたのが崎山だ。スーツの上から見る限り、華奢に見えた。いや、華奢にしか見えなかった。
そして色白の肌と中性的な顔というのが、正直、見た目だけは勝手に親近感を持っていたのに、水着になった崎山に愕然。あれを詐欺と言わずして何と言う。
見事に割れた腹筋と、腕と背中の筋。無駄のない美しいフォルムが、崎山が格闘家であると語っていた。それを目の当たりにした静は、一瞬にしてプールに入るのを、いや、Tシャツを脱ぐのを止めた。
「ダメだ。筋トレしよ」
静はそう呟くと、シャワーのコックを捻った。