事務所でTVを観ていた成田に相川が唐突に聞いてきた。今更、何を聞いてくるんだと答えようとして言葉に詰まる。
あれ？高杉、何だったけ？と、ぼんやりと高杉の顔を思い浮かべた。
高杉は自他ともに認めるコミュニケーション能力に欠けた、コミュ障である。コミュ障のくせに態度もデカイし、当たり前のように礼儀はない。
敬意を知らない男は、実はこの幹部連中の中では一番年下だ。見た目は決して悪くないのに、中身は人間の出来損ないと言ってもいいほどに残念な男、それが高杉だ。
「何やっけ？高杉ー、」
付き合いは長いが、下の名前を聞いた覚えがない様な気がする。いや、もしかしたら聞いたかもしれないが、男の名前なんて覚えないものだ。
もともと高杉を最初に手懐けたのは雅で、成田はその雅に高杉を紹介された。何度も言うが、高杉はコミュ障である。
なので、初対面の成田に礼儀正しく名前を名乗って挨拶をした、なんてことはなく、頭を下げる事もせずにそっぽを向いていたのだ。第一印象、史上最悪な男だった。
「高杉…あれ？知らんわ」
「太郎」
「いや、お前、それ適当やん」
「だよねー。だって、俺、男の名前とか全員太郎でいいと思ってるもん」
何だそれ。じゃあ、聞いてくるなよと、TVのスイッチをリモコンで消して煙草を銜えた。
「じゃあ、お前も相川太郎で」
「え！そりゃダメっしょ？アウトっしょ？割とガチでこの名前、カッケーって言われてんのに。超俺っぽいって」
それって、昔に世間を騒がしたプレイボーイな芸能人と同じ名前なとこが、相川さんと似てるねっていう”カッコいい”なんじゃないの？
「でも、ほんまになんやろ？聞いたことあったっけ？」
「…ゆずだよ」
事務所で新聞を見ながら煙草を燻らしていた佐々木がポツリと呟いた。
「え？なに？」
「高杉の名前、遊ぶ樹って書いて
「マジでか！！！」
予想外の名前に、相川と二人で声を上げた。態度も悪く礼儀もない男、高杉の名前がまさかのそれ。
もちろん、偏見ではあるが、あの横柄な態度からは”ゆず”なんて可愛らしい名前は不似合いである。では、何が合っているのかと聞かれても答えられないが、それでも”ゆず”はないだろうと思った。
「やべー、バビるんだけど。なに、そのパネェ名前。俺、超平凡」
その超平凡な名前を、ガチで気に入ってると言っていたのはどこのどいつだ。
「お前、調子乗って、ゆずとか呼ぶなや」
「え？なんで？」
「やて、言わんってことは、気にしてるとかちゃうんか。何や、女みたいな名前やし」
「いや、気にしてないよ。高杉、飲みに行ったときとかボトルキープに、ゆずって書くもの。気に入ってるんじゃない？」
またしても佐々木の言葉に、相川と二人して固まる。なにそれ、そんな一面があるの？あの武器オタクに。
「ちょ、俺、今、高杉のこと可愛いって思っちゃった」
「お前は、ほ乳類なら何でもええんかい」
呆れるわ、マジで。
「なぁ、高杉の名前って知ってる？」
家に帰って冷蔵庫の中の牛乳を取り出しながら雅に聞くと、雅は何を今更な顔をして成田を見た。
「高杉？遊樹だろ？」
「え？知ってんの？」
いや、知ってて当たり前かと成田は冷たい牛乳で喉を潤しながら、馬鹿なことを聞いたなと思った。
「みんな知ってるでしょ。アイツ、事務所の冷蔵庫の自分の食べ物に、”ゆず”って書いてるじゃない」
「え！？知らん！」
というか、事務所の冷蔵庫を開ける習慣がない！何故ならば、成田はガレージと整備が一緒になった車庫に常に居る。
そこには自分専用の冷蔵庫もあって、事務所の冷蔵庫は何だか他人の家の冷蔵庫の様な気がして、開けることをしなかったからだ。
「ね、本当に知らなかったの？でも、山瀬さんも酔ったら”ゆず”って呼んでたじゃない」
「マジで！？」
「何、知らなかったの？じゃあ、佐々木さんの名前も？」
「え？佐々木？えーっと、なんやっけ？佐々木ー」
何か、昔っぽい名前を想像してしまう。何となく、あの飄々としたところのせいで。秀吉とか、宗次郎とか。
そんなことをあれこれ考えていると、相川の、男はみんな”太郎”が出てきた。
「うわ、ほんまに分からん！太郎が離れん！」
「太郎って誰よ、それ。本当に知らないんだ。佐々木さんは、
「え、ちょ、え？しき？なんで、そんな芸能人みたいな」
にょろにょろみたいな長いだけの人なのに…。いや見た目でそんなこと言ってはいけないかもしれないが、でも…。
「似合わねぇ！！！」
「ね、失礼だよ」
「だって、あの高杉も何か芸能人みたいな名前で、佐々木さんまで！！だって、雨宮も或人だぜ！？アルトって！！外人か！！」
「何なの、ちょっと…」
雅はいい加減呆れて、ソファにコロンと転がった。
成田が今更、どうして同僚の名前を持ち出したのかは知らないが、これだけ長い時間、一緒に仕事をやってきてフルネームを知らないという方が驚きだ。
もしかして、相馬の下の名前も知らないんじゃないだろうなと訝しんでしまう。
「橘も
「完全に名前負けだよね」
いや、それ、お前の前だけだから。と言う訳もいかず、でも、何だか悔しくて地団駄を踏む。
「やてさ！」
転がる雅をぐいっと抱き上げて、背中から抱き締めるとそのまま一緒にソファに転がる。ソファベッドとしても使えるそこは、男二人が寝転んでもまだ少し余裕があった。
「彪鷹さんかてそうやしさ、死神かて鷹千穗とかでさ」
「何なの…」
ようは強そうな名前になりたいの？いや、遊樹は強そうではないか。じゃあ何だ？雅は目の前のセンターテーブルに手を伸ばして、リモコンを手繰り寄せた。
「組長の名前、出てこないね」
「……」
TVを点けたところで日付の変わる手前の時間。くだらないバラエティーか興味のないスポーツ番組くらいしかやっていない。
スイッチを切り替えて衛星番組にすると、アクション映画がパッと映ったので雅はリモコンを置いた。
「…字幕」
耳元でボソッと呟かれ、ああ、と字幕のスイッチを押す。一度、観たことある映画だなと思いながら、高級車で街を突き抜けるカーチェイスを眺めていた。
後ろから抱き締められていると、その成田の熱で眠気に襲われそうになる。ぎゅーっと強い腕で抱き締められるのは嫌いではない、寧ろ、一番居心地が良い。
「で、組長は…？心、だよね」
このまま睡魔に堕ちてしまいそうだと思いながら、話を続ける。心という名前も悪くないと思う。
心という字が、あの傲岸不遜と言われる男に合っているかは分からないが、雅は似合っているなと思っている。
「なんか、心は…在り来たり」
そんな雅の考えを一蹴する言葉に、ぶっと、思わず吹き出した。
「何？ね、もしかして、変わった名前に憧れてるの？」
小学生か！と言いたいが、恐らくそうだ。今、挙げられた名前を考えてみても、みんな、変わった名前ばかりだ。
今ではそういう変わった名前を”個性”と呼んで、有り得ない命名をする親が増えているらしい。
世界で一つだけの、あなただけの名前よと一生懸命考えてくれたのかもしれないが、これはないだろという名前もある。
そして、結局、その個性的な名前を付けられた子供は”普通”に憧れるのだ。無い物ねだり、お互いがそうなのだろう。
「ふふふ…」
雅はぐるっと向きを変えて、そのまま久志の身体を押して上に乗る様な格好になった。下敷きにされた久志は、微笑を浮かべる雅の唇を指で撫でる。
「ね、じゃあ、俺の名前も憧れないってこと？」
「雅は俺にとって、一番、意味が合って価値がある名前やから、憧れとかやないの」
久志はそう言いながら、ハーフパンツの裾から不埒な悪戯を仕掛ける。絹の様に品のある上品な肌と、陶器の様に白い肌。
この世で一番の雅びやかな、雅だと、久志は頭の中で思いながら、桜の花びらのように、薄い桃色をした唇に吸い付いた。