仁流会、鬼塚組一行。その中央のCL65AMGには、先代の急死により組長の座を受け継いだ鬼塚心が若頭の相馬北斗の運転で乗っていた。
気怠さを一切隠さないまま、心はレザーシートに深く座り、大きく息を吐いた。
心は極道になったとき、イコール、鬼塚組組長である。極道の世界に足を踏み入れた瞬間に鬼塚組の頂点に君臨したのだが、ここに来るまでが死ぬほど面倒だった。よく耐えたものだと思うほどにだ。
先代が急死したとき直ぐに後継者として、今まで存在の知られていなかった鬼塚清一郎の子である心の名前が出て、組は大騒ぎになった。
子供が居たことも寝耳に水なうえに、それが後継者というのだから当然のように傘下の組の組長連中から難癖をつけられた。
一体、それ誰ですか？という状態なのだから、仕方がないといえば仕方がないのだが、後継者に鬼塚に縁も所縁もない兄弟組の坂東の名前まであがったくらいだ。
元々、関東の極道を牛耳る鬼塚組の組長を心が襲名すると、自動的に傘下にある自分達は心の下で動くコマとなる。結局、それが釈然としないのだ。
年功序列など関係ない世界ではあるが、些か心ほどの年齢となると迷ってしまう。が、心の襲名は仁流会総本部会長、関西の風間龍一が言い出したことだった。
その手前、意見するにも勇気のいることだろうが、その反発も風間は至極承知の話だった。
要は、心がその組長どもの首を、どう縦に振らすか。その器量もないのなら、この暴対法のある御時世、組を存続させることも難しくなる。
極道への風当たりの強い昨今、傘下の組が事を起こせば心の使用者責任を問われる事もある。勝手な行動をさせない為にも、絶対的の存在にならなければならない。
後ろに風間が付いているから言う事を聞くなんて、どこぞのチンピラの様な情けない話では、この鬼塚組を率いる事は不可能な事。
誰かの後押しや敷かれたレールの上を歩くだけなら、誰にでも出来るという事だ。
心は、あれやこれや言う傘下組長の顔を見回した。
どれもこれも、闇に染まった顔をしている。自分もゆくゆくはこうなるのかと、他人事のように思った。
「大体、心はんが継いだら誰が若頭なるんですかいな。原田はオヤジさんの側近。そのまま付かすんかいな」
鬼塚組の直接の傘下にある藤原組組長、藤原俊成がタバコを銜えて、心を小馬鹿にする様な笑みを浮かべた。
鬼塚組の傘下の中では一番力のある組で、藤原もまた、風間が育てた極道だった。いつかは総代の椅子を…等、企んでるのであろう。
心の父親が亡くなった今、喉元にドスを突きつけてる気になっている様だった。
「原田は身体を悪うして、表舞台からは引退したい言うてます。若頭は相馬にさせます。俺を止めれるんは相馬だけですから」
静かに言い放つと、それを聞いた組長達が失笑した。
「心はん、あんさん我の年分かってるんか？加えて相馬て…ガキの作る暴走族やないんやぞ」
藤原は周りに賛同を求めるように、“なぁ”と言った。
それにつられる様に周りが息づき、そうだそうだと騒がしくなる。
「大体何や止めるて。お前さんがそないな暴れ馬には見えんで。風間のオヤジの元で、ちぃと育っただけやないかい。ワシにはただの小綺麗な面構えの、青二才にしか見えんし」
「さよか…じゃあ明日、この場所にまた集まってもらえますか。手土産持ってきますから、それで俺の器量判断してもらえますか」
心の鋭い眼光に、周りの者は静かに息を呑んだ。
心の父親の鬼塚 清一郎も人を射抜くような瞳を持っていたが、心のそれは、また上をいく恐ろしさ。
確かにこの年で、これだけの組長や若頭前をにして怯むことなく話す姿は、さすがというものだろう。
翌日、心に言われた通り、顔を揃えた各組の組長を前に、心は血に染まりどす黒くなった風呂敷を差し出した。
藤原がそれを怪訝そうに覗き込み、中のそれと目があった瞬間、込み上げる吐き気を必死に抑えた。
「き、貴様、正気か」
「何でですん？」
心は口角をあげ、犬歯を剥き出してニヤリと笑った。その表情は”鬼”という名が、相応しいものだった。
心の持ち込んだものは、鬼塚組の島で薬や売春に手を染め、勢力を延ばしつつあった志摩野組の組長の
たった一人で志摩野組に乗り込み、組長の志摩野忠明の命を取り、まさに戦国時代のそれの如く、ふんぞり返る組長達の前に志摩野忠明の首を差し出した。
仁流会鬼塚組組長、鬼塚 心の誕生の時。
だが、組長になったからといって、心の心が満たされることはなかった。志摩野組の一件依頼、あれだけ虚勢を張っていた傘下の組の組長共は、心に意見しなくなった。それもそのはず。
鬼塚組は想像を超えるスピードで成長し、しのぎを稼ぐのに必死のこのご時世に、フロント企業は黒字計上。かと言って、警察に叩かれても埃一つ出ないクリーンさ。
これはもとより、鬼塚の右腕の相馬北斗のなせる技でもあった。
「あの、先日のモデル覚えてます？ＭＩＳＡＫＯ」
運転しながら、相馬が後部座席で物思いに耽る心に話しかけた。なぜ今頃、昔の事を思い出したのかと、心は気怠さと共に息を吐いた。
「どれや？名前まで覚えてへん」
「お会いしたいと連絡が入ってますよ、髪の長い…目尻に黒子がある」
相馬に説明されるが、目元の黒子なんてあった女が居たかさえ心には分からなかった。それほど、心にとって女とは性欲処理の”道具”にしかないのだ。
「別にまだ溜まってない。相馬が相手せぇや」
「いえ、私は結構。あなたと兄弟はねぇ」
クスクスとどこか楽しそうにハンドルを握る相馬に、心は眉間にシワを寄せた。
昔から一緒に居るが、掴み所のない嫌な奴だと心の中で悪態をつく。
「俺は眠い…くだらんジジイの戯れ言聞いて、イライラしとんねん。こんな日に女とヤッたら、後始末するお前が大変やぞ」
「総会も大切な仕事ですよ。まぁ、確かに今日のは戯れ言でしたね…っ！」
言い終わるか否か、相馬が急ブレーキを踏んだ。
後部座席に居た心は、咄嗟に運転席の背もたれに長い足をつき、その衝撃を受け止めた。
「何や襲撃か。この雨の中」
「いえ…人が倒れています」
心が寝食をするビルに帰るには、毎回毎回道を変える。関東の極道の頂点を生きる心の命を、狙う者は数多く要る。
その為の追跡や待ち伏せを避けるためで、今日も初めて通る裏道に逃げ込んだばかりの時だった。
「轢いたんか」
「いえ…」
相馬が運転席から出ると、早々と駆け付けた部下が傘を差し出す。心は、なぜか雨に打たれ、動かないそれが気になりドアを開けた。
「く…組長！」
慌てて部下が傘を差し出す。
「なんですか。大人しく待っていて下さいよ」
子供を叱るように言い、肩を竦める相馬を押し退け転がるそれに目をやる。
「死体か？」
「いえ…気ィ失ってるみたいですわ。喧嘩ちゃいますか」
部下の下澤がそれを軽く起こしあげると、今まで隠れていた顔が心に見えた。
「…！」
全身に寒気が走った。
寒いんじゃない。これは武者震い。
キツく閉じられた瞳を縁取った長い睫毛に、寒さに小刻みに震える柔らかそうな唇。見た感じは女のようだが、体つきからみて男だろう。
そんな“男”に何故…。
心は考えるのを止め、雨に濡れるのも高級なスーツが汚れるのも気にせずに、転がるその男を抱き上げた。
「な…何を！」
「組長！？」
普段は沈着冷静な相馬までもが言葉を失い、部下に至っては、雨に濡れるやスーツが汚れるや、他の組の罠だなど慌てふためく始末。
心はそんな組員達を押し退け、車内に戻った。
スーツの上着をかけ、それごと抱き締める。長時間雨に打たれたのか、身体が小刻みに休むことなく震えていた。
「どうするんですか、猫拾うみたいに人間拾って」
呆れながら車に戻った相馬は、ルームミラー越しに心と心に大事に抱き締められる男を見た。
「おい、暖房」
「…私を汗だくにするつもりですか」
相馬は呆れたように上着を脱ぎ、車内の温度をあげた。
「で？どちらへ？塩谷の病院へ行きますか？」
「部屋へ帰れ。塩谷は部屋へ呼べ」
「…本気ですか」
「早くしろ、熱がある」
それは心の方だろうとツッコミたくなる気持ちを抑えて、相馬は車をゆっくり発進させた。
マンションに着いてからの心の行動は、さすがの相馬も呆気に取られた。
汚れた服をテキパキと脱がせ、挙げ句、相馬に後ろを向いていろと言い、蒸かしたタオルで全身を綺麗にし、拾った男と背格好の似た部下に同じサイズのジャージを買いに行かせ、組に出入りしている医者に回診にまで来させた。
夜中に叩き起こされた医師の塩谷は、心に何かあったのかと車を飛ばしてきたのに、診させられたのは猫でも拾う様に拾った正体不明の男だった。
立腹した塩谷の機嫌を取るのは、些か大変だった。
「…あなたねぇ」
相馬は呆れてしまい、黒の革張りのソファに腰を降ろした。
心はといえば、スヤスヤ眠る男の横で男の髪に指を絡ませ、遊んでいた。
「やっぱり男やったわ」
「女性だと思われたのですか？」
「いや、男やとは思った」
「手篭めにでも、なさるつもりですか？」
「お前下品。欲しなった、それだけや。起きたら見た目同様“僕”とか言うと思うか？」
「そうですね…ヤサ男に見えますね」
相馬はもうどうでもいいと、投げやるような返事を返した。
こんな訳の分からない心は初めてだ。まして、他人に興味を持つとは。
どんな極上の女性を連れてきても、眉一つ動かさなかった。
まして、ここへ連れてくるなんて皆無。前代未聞だ。
「…見た目同様、ヤサ男ならどうなさるんですか」
「さぁ…？」
そう言いながらもどこか楽しそうな心に、相馬はそれ以上何も言わなかった。
そして次の日、目覚めた男は、それはそれは見た目を裏切る男らしい男で、テーブルは蹴る、暴言は吐く、挙げ句、礼の一つも言わずに部屋を飛び出した。
「彼の事は色々と調べましたが、これからどうするつもりですか？」
A4の封筒を大理石のテーブルに滑らせ、ソファに寝転がる心の前に相馬が腰掛ける。
心は気怠そうに起き上がると、封筒を手に取り、中の書類を取り出した。
「欲しなったって言うたやろ」
「あのね、彼はお分かりだと思いますが人間ですよ。猫や犬ではないんですよ。それに、色々とややこしい事に巻き込まれてますし」
「何やオマエ、静が嫌いか」
書類に目を通しながら、心は相馬を見ずに問いかける。
「嫌いではありませんよ。ああいう勝ち気な人間は。でもね…」
「これ、始末せぇ。金用意しろ」
「人の話、聞いてますか？」
「あと、静、連れて来い」
心はそう言うと、静の調査書の書類をテーブルに投げ、再びソファに寝転がった。
こうなれば、誰にも、相馬にさえも止められない。しかも、”誰か”の事でここまでなった心は初めてで、尚更手がつけられない。
「まだ、あなたが鬼塚の組長というのを気に入らない人間は山ほど居ます。敵対する組でも、鬼塚は成人式を終えたばかりのガキだと専らの噂。それを今度は男を手篭めにしたとなれば、傘下の組からも何を言われるか」
「龍大も組継いだら、あいつのが若い」
「龍大さんはまだ高校生ですし、風間総代はお元気でご健在です」
「相馬、俺はなぁ、別に組がどうなろうがあんまり興味あらへん。ただ、普通に生きてもつまらんからここにおるだけで…。でも、やっぱりつまらんねん」
もはや子供の戯れ言。もう何を言っても無駄だと、相馬は長嘆した。
「いいですか、あなたの手篭めになれば、静さんにも危険が及ぶんですよ」
「今でも十分やないか、大喜多組やぞ。あいつらの組かて大分好き放題してるやないか。どうせなら潰してもうた方がええ」
「戦争になります」
「うちに戦争しかけて来る阿呆はおらん」
ああ言えばこういう。相馬は心が投げた書類を手に取った。
大喜多組の違法金利の罠にかかり、父親は自殺。母親は入院。妹は親戚に預けて、自分だけが返済に走っている。
一層の事、朝から晩まで働けばいいものを、大学には奨学金で通っている。成績は勉強もままならないのだろう、中の下。出席日数が足りず、一年留年。恋人はなし。
外道の極道の次は、極道の天下にいる極道か。
相馬は、静の行く末を不憫に感じた。
「静さん、住所を転々としていて、捕まらないんですよね」
「大学まで行けばええやないか、何やったら俺が行ってもええ」
「いえ、結構」
大学では、静の事が大分と噂になっているらしい。
それもそうだろう。退屈な学生がネタにするには面白いネタだ。それに加えて、心の様な男が大学に乗り込めば、翌日から静は格好の餌食となるだろう。
「静連れて来たら、俺も良く働くかもな」
「そうですか」
相馬は呆れた様に肩を落とし、立ち上がった。
「馬車馬の様に働いて頂かないといけませんね。私もあなたの様に、ソファにゴロンとなって寛ぎたいですし」
相馬は心に嫌味を吐き捨て、部屋を出た。
そして徐に携帯を取り出し、目的の者を見つけ通話ボタンを押した。
静に興味があるのは、相馬とて同じだった。あの、心の素性を聞いても怯む事無く噛み付く闘争心。あれは面白い。
あの他人に興味を持たない心に捕われれば、もはや蜘蛛の巣にかかった蝶。諦めてもらうほかはない。
「ああ、私だ。さっきの大喜多組の話。あのまま進めてくれる？…いや、そういう事ではない。そうだな、手打ち…かな。鬼塚の逆鱗に触れそうだから。そう、行ってくれる？鬼塚も承知の話だから…ああ、頼む」
相馬は早々に通話を終了させると、CL600に颯爽と乗り込み、自分の周りで大きく裏世界が動いていることを知らない静の元へアクセルを踏み込んだ。