心はパソコンのスイッチを落とすと、いつものソファに移動し、長い身体を横たえた。
煙草を銜えて、目を閉じる。らしくないなと思いながら、ほくそ笑んだ。
「誰ですか?これ」
心に渡された紙切れに書かれた名前を見て、相馬は首を傾げた。
代表を勤める本社に、滅多に寄り付かない心が乗り込んできたのは先刻の事。
黒のスーツのジャケットの前ボタンを開け、同じ黒のシャツのボタンを胸元が見えるほど開けサングラス姿で正面玄関から入ってきたときは、ロビーが静まり返ったほどだ。
運良く崎山がロビーに居たので直ぐ様対応できたものの、今にも警備員が不審者扱いで声を掛ける勢いだった。
顔を見る限り、いつもと変わらぬ厳めしさだが、相馬はだいぶと機嫌が悪いなと感じた。
警備員が声なんて掛ければ、大乱闘になってただろう。
心はどの世界でも架空の人物扱いだ。己の会社然り、極道の世界然り。
出不精さが祟っての事だが、命を狙われる立場というのを考えれば架空の人物扱いの方が好都合だ。
しかし、自身が代表を務める会社で不審者扱いされるのは、いかがなものかとも思う。
だが、やはりそれも仕方がない事。心は会社の経営にはノータッチ。
名ばかり経営者とはまさに心の事で、会社の代表は相馬だと勘違いしてる従業員は数多い。
「それ、誰か調べろ」
相馬の考えを他所に心が不躾に言い放ち、ソファにゴロンと横になる。
どこであろうがゴロンと横になるのは幼い時にそれを咎める人間が居なかったからか、もしくはそういう人間に育てられたのか。
心の育ての親を知っている相馬は、後者だろうなと落胆した。
「何者ですか?どこかの組の人間ですか?」
相馬は心の前に腰かけた。
心が自ら会社に赴くのは、よっぽどのこと。何か、トラブルかと相馬は畏怖した。
「知らん」
「は?」
「パソコンの検索履歴」
「検索履歴ですか?」
「何度も検索されとる」
「……」
相馬は敢えて、誰の?とは聞かずにソファに腰を深く掛け直した。
ようは、静のパソコンの検索履歴を調べ、何度も検索されているこの名前が心の機嫌の悪さの理由だ。
というよりも、旦那の浮気に勘づいた嫁か何かのようで、相馬は口元を隠しながら笑った。
あの非道無情な鬼塚心が、何万もの極悪非道の極道を束ねる男が浮気に焦ってる。これを笑わずにいれるものか。
「ま、二日は待ってください」
笑いを噛み殺して、あくまでも平静を装って相馬は言った。
「明日」
知りたくて知りたくて仕方ないのか。なかなか可愛いじゃないかと、相馬はフフッと笑った。
「では明日、夜に」
「藤堂麻人。大多喜組の組員ですね」
「はぁ?」
約束の時刻に、心は再び会社を訪れていた。
静の事に関しては、パンクチュアルな人間になるのだなと相馬はほくそ笑む。そこで言われた報告に、心の機嫌は更に急転直下。悪くなった。
「苦労したんですよ、大多喜組の組員はみんな崎山が始末してしまっていて、なかなか知ってる人間がいなくて。でも、たまたまあの日にインフルエンザになって組に居なかったラッキーな男が居たんですよ。その男が、藤堂と昔馴染みで色々教えてくれました」
「…」
「藤堂もその男も元々は大多喜組に入るつもりはなく、そこが仁流会系の組だと言われて来たらしいんです。でも入ってみればまったく違って、とはいえ入ってしまえば抜けれぬのが極道。ずるずるとね」
「そんな男の昔話なんか、どうでもええねん」
心は苛ついた様に言い放ち、煙草を銜える。苛立ちはジッポにまで伝染して、カチカチと石の削る音だけが鳴り一向に火が点かない。
チッと舌打ちをする心の前に、相馬がデュポンのライターを差し出した。
「フフッ…。藤堂は回収業の下っ端で、高金利の貸し付けで焦げ付きかけた客の監視役でした。その客の一人が静さんです。藤堂は予てより大多喜のやり方が気に入らなくて、よく反発して目を付けられていたらしいんです。静さんのことはより気を配っていたようで、静さんも藤堂には気を許していたそうです」
「どこにおんねん」
「おや、逢うんですか?」
「静と何か関係があるんか」
「そういうような関係は一切なかったらしいですよ。藤堂は静さんに、何かしらの感情を持っていたようですが」
「静が検索するなら、何かあるんやろ」
「逢いますか?逢って、静さんは渡さないと言いますか?」
「…なんや」
意地悪が過ぎたか、心の苛々は絶好調。半分以上も残った煙草を、切り子硝子の灰皿に押し付けた。
これ以上に虐めると、あとが面倒だなと相馬は一息ついて笑った。
「逢いたいのなら、あの世へどうぞ」
相馬は一言そう言って、心の前に書類を滑らせた。
心はその書類に目をやって、何のことだと言わんばかりの顔を見せた。
「藤堂はあなたが静さんに逢う前に、渋見会会長を襲撃して反対にやられてます」
「……」
「大多喜の差し金らしいですよ。渋見会の会長を殺せば、静さんを買い上げさせてやると」
「……」
「因みに、今ごろの時期です」
「墓はあるんか」
「ああ、何だか遠縁が引き取ったとかで、S市の方に」
相馬は書類を出し、場所を確認する。それを見ながら、心はやはりソファにゴロリと横になった。
「連れてったれ」
「…は?」
「墓参りがしたいんやろ、アイツは」
「墓参りですか?」
「そいつの名前と一緒に、あちこちの墓地も検索しとった。ようはそういうことやろ」
「そうですか。では、次の休みにでも」
やはり、静の事になると仁流会会長補佐も形無しだな。
何でも叶えてやりたいと思うのか、喩えそれが自分の意に反した事でも。
「俺が死んだら、海に撒いてくれ」
急に投げ掛けられた言葉に、相馬は動きを止めた。
「ハッ…骨を?鬼塚は立派な墓がありますよ?」
「俺は…このままいったら、及川で生まれて佐野で育って鬼塚で死ぬ。結局、どれが一番自分の人生で良かったんか、分からん。そうなったんも鬼塚があったからや。鬼塚に死んだあとも縛られたない」
「どうしたんですか」
珍しく弱気な感じに、さすがに戸惑った。世迷い言一つ言わない男が、どうしたのか。
「別にぃ」
心はそう言って、目を閉じた。
天気は快晴で墓参り日和。相馬は静を引っ張って、S市に来ていた。気分転換のドライブ名目。
静はカイエンの助手席から外を眺め、時折、ウトウト。
「相馬さん、どこまで行くの?」
長いドライブに、静がハンドルを握る相馬に訊ねた。
「もう着きますよ」
フフッと笑って言うと、静はどこか不思議そうな顔をして窓の外に視線を移した。
それから数分走り、車は前方にひっそりと軒を構える寺に滑り込み、駐車場に停まった。こじんまりした寺を見ながら、静は車を降りた。
「御参り?」
「ええ、行きましょうか」
いつの間に用意していたのか、トランクから花と線香を取り出し静を促す。
こうして用意されている線香と花を見る限り、墓参りが当初からの予定だったのかと静は思った。でも、誰の?静は首を傾げて、相馬の後に続いた。
墓石が並び、線香の香りが鼻を擽る。不思議と、こういう場所に来ると粛々とした気持ちになる。
様々な墓石の並ぶなか、空を見上げると飛行機雲が見えた。明日は雨かなと思いながら、それ、誰に聞いた話だったかな?と足元に目を落とす。
首の龍のタトゥー。チンピラのくせに、やたらと箸の持ち方は綺麗で…。そうだ、あいつだ。
「静さん」
呼ばれ、ハッとする。
顔を上げれば、相馬がある一画に建てられた墓石の前で立っていた。
「あ、そこ?」
誰のか分からない墓石に近付き、正面を向く。
墓石に彫り込まれた文字を見て、静はバッと隣の相馬を見上げた。
「藤堂麻人。探していたんでしょ?残念ながら、この下で眠ってますが」
「知ってる」
「やはり、ご存知でしたか」
静は相馬の手に握られた花を受け取り備えると、墓石に付いた汚れを払った。
「知ってるかもしれないけど、なんか俺を買うとか言ってさ。そのために誰かを殺るって。俺はやめろって言ったんだけど。あいつ、あの組には似合わない…そうそう、成田さんみたいなタイプ。結局、死んで新聞の小さな記事に載っちゃった」
「なるほど」
静が心を開いていた理由が、何となく分かった。
成田のような性格の人間ならば、誰でも気を許してしまうだろう。成田の欠点でもあり長所でもある、あの優しすぎる性格に似た男…。
調べたところ、深い仲ではなかったが…。
「よく俺が藤堂を探してるって、分かったね」
「鬼塚ですよ」
「え!?」
意外だったのか、心の名前に静が驚いた。
「鬼塚は、藤堂さんが死んでいたのまでは知らなかったようですが。静さんは、命日が近くて調べてたんでしょ?墓参りにでもと?」
「そう。今頃の時期で、ほら、生活落ち着くと色々と考えちゃうだろ?それで、お墓とかないのかなって。でも、どう調べたらいいのか分からなくて」
「そうですね。一個人の墓を探すのはね」
「実は、俺、鬼塚組を調べたことがあるんだ」
「え?」
「藤堂に、鬼塚組に行けって何度も言われたんだ。生きてるときにだけど…」
「それで調べたんですか?」
「学生の調べれる範囲だけどね。でも、規模デカ過ぎて」
ハハッと静は笑った。
「違法金利で取り立てられてますって駆け込めって。駆け込むとこ間違えてるだろって、死んだ藤堂にツッコんだよ」
「そうなんですか…」
きっと、あの雨の日に心と静が出逢ったのは、偶然なんかじゃなかった。
藤堂が心と静を引き逢わしたんだとらしくないことを思いながら、静と二人、手を合わした。
「鬼塚は、死んだら骨は海に撒いて欲しいそうですよ」
「…はあ?」
帰りの車の中、相馬の言葉に静は呆れた声を上げた。
「鬼塚も色々と複雑な環境で育っていて、思うところがあるんでしょう。何だか弱気ならしくない事を言うんで、驚きましたが」
「…アイツが死んだら、犬を飼う」
「え?」
唐突になんだ、心の話から犬の話。
話の脈略がないところが、心に似てきたなと相馬は静を見た。
「犬を飼って、その犬にアイツの骨をやる。それが嫌なら、俺より少しでも長生きすればいいんだ」
そう、ぶっきらぼうに言う静に、相馬はそうですねと笑った。