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01. A past story of Shin

つまらないと思ったのはいつからか。それは多分、初めから。この世界に生まれたときから。
あ〜、人間に生まれたつまらねぇ。そんな、感じ。

母親は、いつもどこか自分に脅えていた風に見えた。
成長する自分に誰を重ねているのか、父親を知らない心には分からない。とはいえ、心は父親がどんな人間かさえ興味がなかった。
生きていればいつかどこかで会えるかもしれないが、会いたいとは不思議と、一度たりと思ったことがなかった。
心達は、京都の山奥に住んでいた。田舎なそこは、夏は死ぬほど暑く冬は凍えるほど寒い。そして何もなかった。
文明社会から置いていかれたそこは、コンビニもスーパーも自販機さえもなかったのだ。
買い物はバスを乗り継いで山を下りるか、自分の畑で耕した作物を食べるか。この時代にしては、そこだけ時間が止まった様な場所だった。

心の母親は及川乃愛という名だった。
名前に相応しく、色の白い華奢で大人しい女だった。
田舎に居るにはあまりに垢抜けして、美人で子持ちの独身。年は三十路のころで、狭く閉ざされた田舎では乃愛のことを噂する者が絶えなかった。
どこか夜の匂いを感じさせる乃愛は心と二人の生活なのに、働く事もせずに心を育てていた。
近所の者は、そんな乃愛をどこかの情婦じゃないか妾ではないかと、安っぽい陰口を叩いた。
だが、乃愛はそんな事を気にも留めずに近所の人間に会えば、惚ける様な笑顔で挨拶をしてみせた。
そんな乃愛に愛情いっぱいに育てられた心ではあるが、無愛想で子供とは思えぬ冷静さと眼光の鋭いところ持つ全く可愛げのない子だった。

心の通う小学校は、過疎化の進んだ村で唯一の小学校。
全校生徒合わせてようやく街の小学校の一クラスになるかならないか、いつ廃校になるか分からない学校だった。
山の上にある学校に行くには、片道1時間近くかけて歩く。低学年の子供には厳しい道のりではあった上に、山道をひたすら歩くので時に山の中で狸や猪に遭遇したりした。
心は、その山道が結構好きだった。
野生の動物に対して、恐怖心はない。騒がなければ襲って来ることはないのだ。
自分もここの動物だと相手側に思わせて、その動物のテリトリーにさえ入らなければ大丈夫だと確信していた。
野生動物ものびのびと暮らし、夜になれば蛍が飛び交い、空を見上げれば満点の星が輝き存在を誇示している。
そんな長閑な田舎は自然豊かで水も美味しかったが、文明の進んだ現代社会の中、取り残された住み難い村は廃村となるのを待つだけだった。


人数の少ない小学校では、何をするにしても村全体で執り行う。授業こそは学年ごとだが、心の学年でも6人しか居ない。
運動会は村の人間が参加する競技の方が多いし、遠足は全校生徒で行く団体行動を余儀なくされた。
その少ない子供の中、年功序列にものを言わし下級生の心をいびる子供が現れた。
年齢よりも発育が良く、背が高く恰幅も良い。腕にも自信があるのだろう。
同じ学年の自分よりも弱い者を従えた少年は、どこか浮いた存在の心に目をつけた。
春日 昌樹という少年は、親無し、お前の親父は人殺しって父ちゃん言ってたぞ。と心をこついた。
昌樹の言葉に何の信憑性もなかったし、心はそれに対して何のリアクションも示さなかった。心からしてみれば、そんな事どうでも良かったのだ。
周りの大人達がどんな陰口を叩いているのかは知ってはいるが、別に誰にどう思われようが心は気にならなかった。
だが、昌樹はそれに激昂した。泣くわけでもない、喚くわけでもない、まして昌樹をチラリとも見ない。
そんな心の態度に、昌樹は馬鹿にされている様な気になったのだ。
5歳も離れた子供は、昌樹の不躾な言動に飄々としている。それに頭にきた昌樹は、心の頬を殴りつけた。
拳で殴られた事の無い心の口の端が切れ、血が出た。ポタポタと土の地面を汚す心の血。
刹那、心の中で何かが切れ、気がつけば昌樹は心の前で口から血を出し倒れていた。まるで、心の中に眠っていた野獣が一瞬目覚めたような、そんな感じがした瞬間だった。
加減の分からない心が振るった暴力は、昌樹の前歯を折った。心の拳からも傷つき、殴り方を誤るとダメージが大きいと初めて知った。
だがそんな心とは対照的に、乃愛はひたすら畳に額を擦り付け昌樹の両親に謝罪した。
小さな村では些細なきっかけで、忌み嫌われるようになる。もともと異色だった乃愛と心は益々、孤立するようになった。
そして心は、村で異質な少年と噂されるようになった。
笑わない、泣かない、喋らない。子供のくせに、鷹のように鋭さのある目は普通じゃないとか。
心からすれば、どれも馬鹿馬鹿しい噂だった。
何故、面白くもないのに笑わないといけないのか。
何故、悲しくもないのに泣かなければならないのか。
何故、話したくもないのに話さなければならないのか。
同級生の話はどれもつまらなく幼稚で、話をする気にもならなかった。
そんな心の専らの話し相手は、山の動物だった。心が子供だからか、野生の動物は心に警戒する事もなく近づき、時には隣で眠った。
そんな動物に心は今日は寒いなとか、明日は雨だなとか本当に他愛ない話をした。
動物は心にとって、一番の理解者だった。

乃愛も心にとっては自分に怯えている、どこか息苦しい相手だった。昌樹への暴力事件以降、それは顕著になり息苦しさが増した。
ある日、学校から帰ると家の前に車が三台停まっていた。
いつもなら畑仕事をしている村の人間も、農具を放ったらかしてどこかに消えていた。珍しいなと思いながら、家の前の車を見た。
車は黒い、本当に窓も車体も黒一色の車で村には不似合いだった。子供ながらに、趣味の悪い車だと心は思った。
心が家の格子戸を開けると、やはり黒いスーツを身に纏った男達が居た。男はしゃがみ込み、心と目線を合わせるとどこか不憫そうな瞳を心に向け、頭を撫でた。
「おかえり」
男の声に、心は頷いた。
「心!」
部屋の中から顔を腫らし、泣き顔の乃愛が飛び出し心を抱き締めた。
ガタガタ震える乃愛に抱き締められながら、心が乃愛の後ろに見たのは屈強な肉体に上品なスーツを身に纏い、自分とよく似た目を持つ男だった。
「この子はあなたの子じゃない!お願い!連れて行かないで」
泣きながら喚く乃愛の髪を引っ張り、男は乃愛をぶった。
乃愛の身体は、畳を転げる様に転がりそれでも乃愛は男の足にしがみつき、連れて行かないでと叫んだ。
心はそれを冷静に見ながら迷った。
助けるべきか否か、駆け寄るべきか否か。
男は心のそんな気持ちを察したのか、それとも何か気に入らなかったのか心の頬をぶった。
男の平手は、昌樹の拳とは比べ物にならない重さがあった。乃愛の顔が腫れ上がるのも分かる。
心は三和土に転がり、そこで行儀良く立つ男の足に身体をぶつけた。
ツーッと鼻血が出た。鼻血は熱く、心の唇を伝い三和土の地面を汚した。
部屋の中では、乃愛の悲鳴と懇願する声がする。その悲鳴にも似た声に、うんざりした。
一体こいつらは誰なのか、さっぱり分からない。いきなり殴られ、心は頭にきていた。
三和土に居た男が心の腕を掴んで立たせたが、心はそれを振りほどき鼻血を拭って唾を吐いた。
「乃愛、俺から逃げてガキ産むとは対した度胸だ。戸籍や住民票を福岡なんかにしやがるから、探すのに手間取ったじゃねーか」
男は乃愛の髪を掴みあげ、フンと鼻を鳴らした。
「ごめんなさい!ごめんなさい!!でも、心は違うの!心を連れて行かないで!」
泣いて懇願する乃愛をまた殴り、男は三和土に居る心に目をやった。
「ほう、良い目してるじゃねーか。心って名は気に入らねぇが、度胸はありそうだ。どうする?コイツを助けるか?」
男は乃愛の髪を鷲掴みにして、心の方へ顔を向けさせた。
確か、顔は悪くなかったと思うのに、その顔は腫れ上がり涙と血でぐちゃぐちゃだった。
心はチッと舌打ちした。
「誰だ、おっさん」
「心!!!!」
「うるせぇ、乃愛」
男は乃愛を部屋の奥に蹴飛ばした。
「名前は?」
「及川心」
「ケッ、腐った歌手みてぇな名だなぁ。俺が何だかわかるか?」
「外道」
心の言葉に男はゲラゲラ笑った。だが、目は笑ってないなと思った。
「俺は極道だ。分かるか?こんな田舎で暮らしてちゃぁ分からねぇか、ヤクザって聞いた事あるか?」
何だそれは?心はただ首を振った。
「ガキの癖に、ガキの目してやがらねぇ、ここは退屈だろうが?オマエみたいな男には」
「…ここは山がある」
「ああ?」
「もうすぐ、猪に子供が産まれる」
男はフンと鼻を鳴らすと、心の顎を掴んだ。
「俺はなぁ、ずっと種無しだと思ってたんだ。コイツは俺の女だ。何不自由無く暮らさせてやったのに、いきなり金持って逃げやがった。金くれぇどうでもいい。ただ、気になったんだ。何故逃げた?ホステスで男に媚びる仕事に嫌気の差していたのを拾ってやって、欲しい物は何でも手に入った。てめぇなら逃げるか?籠の鳥って訳じゃねぇ。好きな時に好きな場所に運転手付きで行けたぐれぇだ。他に好きな男が出来たかと思ったがな、乃愛は変わった女でな。こんな美貌があるくせに男嫌いで、面倒くさがり屋だ。そんな女がわざわざリスクを背負って男を作る訳がねぇ。それでな、探してみたんだ。じゃぁガキを産んでやがった。それがオマエだ」
「じゃあ、俺があんたの子なん?あんた誰?」
「俺は鬼塚だ。オマエにゃあ分かんねぇだろうがな、俺はそこそこの組の組長だ。そう、リーダーって奴だ。それに俺は神経質だ。他人の突っ込んだ穴に後から突っ込むのは嫌いでな、俺以外にコイツの穴に突っ込む事が出来る奴がいねぇんだ。乃愛の男嫌いを考えても、俺以外を相手していたとは考えられねぇ。まぁ、帰ってDNA判定すれば全部分かる」
男の言ってる意味は幼い心にはよく理解出来なかったが、男は心の父親である確率が高いと言いたげだった。
そんなに子供が欲しいのかと、心は変な奴だと思った。
掴まれた顎は、鬼塚の力で簡単に砕かれそうだった。ギシギシと骨の音が聞こえた。
折る気なのかと思ったが、まぁそれも仕方ないかと思った。
ヤクザとか極道とかよく分からないが、あまり利口な人間ではない様だ。
女の乃愛をああして平気で殴るあたり、外道だなと思った。なら、子供でも平気で暴行してしまうだろう。
全く、何て面倒な事をしでかしたんだと、部屋で泣き啜る乃愛をチラリと盗み見た。
ふっと、昌樹が父親に聞いたという噂を思い出した。あれも強ち嘘でなかったのかと思った。
それなら、何か反応してやれば良かったと心は思った。
「痛い、離して」
いい加減、顎が外れそうだ。言って分かる相手ではないだろうが、心は呟いた。
鬼塚はニヤリと笑うと、心の顎から手を離し心の頬を打った。
反動で部屋に転がった心に、乃愛が這う様に寄ってきて心を胸に掻き抱いた。
「心!心!!違う!この子は違う!!連れていかないでぇ…!!」
何が違うのか、男の子供でないと言いたいのだろうが心は思った。
あの男は自分の父親だと。あの外道の血は、確実に自分に流れていると細胞が共鳴していたのだ。
「お別れだ、乃愛」
鬼塚が言うと、三和土に居た男達が土足で部屋に上がり込み、乃愛の身体を心から引き離した。
乃愛は狂った様に泣き喚いた。
鬼塚は、心の首を掴み身体を持ち上げた。首が痛くて心は眉を寄せた。
こうして身体を持ち上げても痛がらないのは、猫科の動物だけだ。暴れるだけ体重がかかり痛みが増すので、心は大人しくした。
そして、心はそのまま連れ出された。後ろでは乃愛の悲鳴にも似た叫びが、いつまでも響いていた。
ああ、自分はこの男に連れて行かれるのかと心は漠然と思った。そして、男の醸し出す黒い闇を感じてニヤリと笑った。
嗅ぎ馴れた土地の匂いが鼻腔を擽る。この香りも嫌いでなかったなと、心は思った。
心は家の前に停められた、黒い車に放り込まれた。中は皮の独特な匂いがした。
運転席に乗り込んで来た男は振り返ると、そっと心の頭を撫でた。
鬼塚のせいで変わった心の人生を不憫に思っているのか、心は何も言わなかった。
そしてすぐに心の隣に鬼塚が乗り込んできた。
「出せ、山瀬」
鬼塚が低い声で言うと、車は走り出した。
乃愛の悲鳴が聞こえた気がしたが、心は気がつかない振りをして車窓から見える山を見た。
猪の子が見れなかったのは残念だと、ただその事だけが悔いに残った。