カタカタと軽快な音が部屋に響く。心はその音を傍らに聞きながらウイスキーを舐めた。
独特な甘みとキャラメルのような甘みを感じながら、無機質な音が耳障りにも思えた。その無機質な音を醸し出しているのは静だ。
かれこれ何時間そうしているのか。キングサイズのベッドの上は蔵書で埋もれ、最早、心の寝床等どこにもない。
ちょっとした静の巣のようなそこで、心が仕事から帰って来ても”おかえり”と声は掛かったが目線も向けずにすっかり愛用になっているMac Bookに一心不乱に何かを打ち込んでいる。
時折、埋もれている蔵書を取り出し独りブツブツ言ってはいるが、心に対して何か声を掛けようとする雰囲気は微塵もない。
おいおい、何だそれ。そう思って風呂上がりに心が静に近寄れば、般若の様な顔で睨みつけられた。
どうやら相当、切羽詰まっているらしい。
面白くないと思いつつも、ここで何かをして臍を曲げるどころか逆鱗に触れ、書斎にでも篭城されれば目も当てられない。
なのでこうして目の届く範囲にいるだけマシかと、心は定位置のソファで大人しく晩酌をしていた。と、そこに部屋のチャイムが鳴り響く。
テーブルの上のモニターをチラリと見ると、心は小さく舌打ちした。
来客は、いつものように微笑を浮かべて部屋にやって来た。言うまでもなく相馬だ。
「何の用やねん、オマエ。今日はもう何もないから俺に帰れ言うたやんけ」
「ええ、用はないんですけどね。私も貴方の顔をそう一日に何度も見たくないんですよ。ですけど、急ぎの仕事が出来てしまったんですから仕方ないじゃないですか」
「急ぎ急ぎって、ほんまに急ぎか」
「貴方がここで優雅にウイスキーをお飲みの間、私や部下達は汗水たらして働いているんですよ。名前だけとはいえ、きちんと役割をこなしてくださいね」
これでもかというくらい凄艶に見える微笑みを浮かべて、相馬はテーブルに書類を滑らした。
確かに心の方が年齢は下ではあるが、心は仁流会の組長でありフロント企業では相馬の言葉で言えば”名前だけの社長”でもある。
それがどうだろう、言葉使いこそ丁寧ではあるが尊敬など微塵も感じられない発言。だが今に始まった事ではないし、それに対して何かを言うつもりもない。
変に突っ掛かれば、何百倍にもなって言葉の刃が降り注ぐのは長い付き合いから知り得ている。言うだけ時間の無駄だ。
「何やねん…ああ？高井のんか」
「坂下さんの回収の案件なんですけどね、どうもうちに回ってきそうで」
「何で」
「高井が大川一家に泣きついたらしいんです。坂下さんだけの力じゃ、回収出来そうにないようで」
「あのオッサン、ええ根性しとるやんけ」
相馬は裏稼業の話だからか、少し声のトーンを抑えて話した。だが隣の静はそんな話は全く耳にも入っていない。
そもそも、相馬が来た事さえ分かっていないようだった。
「ふ～ん、坂下も年いったんやないんか。こないな仕事も出来んで」
「そうですね、毎回こうだと考えて頂かなくてはいけませんね」
相馬は至極冷静に、そして冷たく言い放つ。無能者は切り捨て。相馬の専売特許だ。
「オマエ、刺されんで」
「私が？刺される前に貴方を刺せと言いますよ。こう見えても誘導は得意なので」
「口が達者なだけやんけ」
「日本語が上手いだけですよ。ところで、静さんは先程から何をしているのですか？」
相馬が、ベッドの上で締め切り前の作家の如くパソコンのキーを打ち込む静に目を向けた。
ここまで心と相馬が言い合いをしても、静は一向に相馬に気がつく気配はない。それに、どこか殺気さえも感じられる。
「よう分からん。何か最終論文やと。それが取れな単位がヤバいらしいわ」
心に何かと面倒を見てはもらってはいたが、やはり出席日数はレッドライン。いくら心でもそこまではどうにも出来ないし、静もどうにかしてもらうつもりなどないのだろう。
だが、さすがに足りないと言った方が早い状態で、このまままた留年する訳にもいかずに静は教授に泣きついた。
お茶の水博士を連想させる様な容姿の教授は静の噂を耳にしていたようで特別に課題を出し、その論文が受かれば単位をくれると言ってくれたのだ。
「ああ、論文。良かったですね、何かとここにあるものが役に立って」
「せやな」
ぶっきらぼうに言い放ったが、心の表情はどこか柔らかかった。
「ああ、お前、ワインいらんか」
心が思い出したように言うと、相馬が蛾眉を顰めた。
「貴方から物は頂きたくないですね。特に口に入れる物は。私が明日、棺桶に入っている可能性が高いじゃないですか」
「そないな無粋な真似するか。やるときは微塵切りにしたる。ワインや、ワイン。成田が間違うて仕入れやがって」
言いながら、心は立ち上がると奥のカウンターキッチンへ行くべく、静の居るベッドの横を通ろうとした。だが、ブツッと鈍い音と進めた足首にずしっという重み。
ズズッ！っと何か引き摺る音がしたと思ったら、ガンッ！！！！と大きく、そして鈍い音が部屋に響いた。
そこに居た、誰もが時が止まったようだった。心が足元に視線を落とすと、横を見ると床に散らばった蔵書と足元で真っ黒な画面を映し出すmac book。
ベッドの上でフリーズしている静と、足首に引っかかったコードに舌打ちする心。そして、傍らで危険を察知している相馬。
「…こ、こ、この…どあほうがぁぁぁぁぁああああ！！！！！！」
部屋といわず、ビル全体と言っても過言ではないくらいの静の罵声が響き渡った。
「３日も俺にどこにおれ言うねん…ってか、俺の部屋やんけ」
「仕方ないでしょう、3日で済んで良かったじゃないですか」
「よう言うわ。絶縁やいうて騒いでたし。大体、何で崎山やねん」
「論文が崎山の得意分野だったからでしょう」
「大体、あんな所にコンセント繋げてる静が悪いんやで」
「じゃあ、そう言えばいいじゃないですか」
「取りつく島もなかったやないか」
「ええ、もうそうれは見事でしたね。貴方が怯んでる顔、初めて見ました」
真っ黒になったMac bookを見た静は心に恫喝するやいなや、ベッドから飛び降りそれこそヤクザ顔負けの勢いで、心を捲し立てた。
その言葉といえば、罵詈雑言。流れるように冷嘲熱罵の声を浴びせる様は、日頃からの鬱憤を一気に吐き出しているようだった。
そして唖然としている心の腕を掴むと、部屋から放り出したのだ。その時の捨て台詞、今思い出しても相馬は吹き出しそうになる。
『このうすらトンカチ！！！！！！！』
「うすらトンカチですって、そんなことを言う人、初めて見ましたよ」
結局、存在をすっかり無視されたまま部屋に残った相馬が、絶縁だとか一ヶ月は顔を見たくないとか言う静を何とか説得して部屋の主である心の立ち入りを禁止する期間を、3日にしてもらったのだ。
組長形無し。
「でも、3日でも言いつけを守るだなんて、本当に静さんに骨抜きにされてますね」
からかう様に言う相馬に、心は何も言わずにエレベーターを降りた。
「オマエ、ホテル取れよ」
駐車場に流れ込み、目的のH２に近づくと整備をしていた成田が顔を出した。
「え！？組長！？お出かけですか！？」
「そう、静さんに部屋を追い出されたんだよ、宿無しだよ」
「おい」
「…は？」
やいやい言い合いをしながら車に乗り込み、走り去る二人を訳も分からずに成田はただ見送った。
悲惨だったのは崎山だ。
論文の手伝いという生贄で部屋に放り込まれたが、自分の仕事だって山のように溜まっている。
それに加えて、プライベートルームで静と二人きりというのもどうかと思う。
恐らく、後日、心からの言われなき八つ当たりを想像して、崎山は独り”ハズレくじだ”と嘆いた。