9. 風邪に注意

花series Single Shot


珍しいことだと思った。相馬の言葉が上の空になることが多く、自分でも首を傾げた。
寝不足がたたったなと思いつつ、このままではいけないと顔を洗って襟を正す。
夕方から、何があったっけ?いつもならば、一週間先のスケジュールも分刻みで頭に叩き込まれているのに、それもない。
何がどうなっているのか。脳内細胞の死滅かなと自嘲する。
くだらないことを考えてないで、気合いを入れようと崎山雅は手に持ったブラックコーヒーを一気に飲み干した。
「じゃあ、今日は総代も立ち会う会議なんで、と言っても、あの男は何もしないでしょうから放っておいて結構です」
相馬はそう淡々と言うと、書類の束を崎山に渡した。会議で使う莫大な資料とレジュメ。これは長丁場になるなと、その量から推測する。
「そろそろ来られますか?」
チラリ、腕時計で時間を確認する。会議室の準備は間に合っただろうか。出欠の確認はしたが、時間通り揃うか、頭の中で色々な事が錯綜しする。
考えが全く纏まらなくて、少し苛つく。何だ、どうしたんだ、一体。
「ええ…。それより、大丈夫か?」
「は?」
「具合が悪そうだ」
「いや、寝不足で。平気です。申し訳ありません。そろそろ来られますよね?向かえに出ます」
崎山は相馬に一礼すると、部屋を出た。その部屋のドアの脇には”Office of the President”と彫り込まれたプレートが埋まる。
そこは社長室だ。本来、社長室は最高経営責任者、CEOである心の部屋ではあるが、ここの主は相馬だ。
心はフロント企業に興味はない。心が相馬を極道へと口説いたときからそれは暗黙の了解となっていて、イースフロントに関しては経営にも何にも一切、口出しはしない。
言うまでもないが、鬼塚組は極道だ。組の資金調達の一環で行っているに過ぎないイースフロントは、それだけに留まらない程の大企業となっていた。
これも偏に、相馬の手腕と崎山の采配によってなし得たもの。
そして今日は決算報告だ。このご時世に黒字計上。何も問題ははいが、些か営業成績が悪いように思える。
会議にはCEOである心が同席することになるが、あの風貌であの若さ。崎山や相馬の若さも他の役員の誰よりも若い。
色々と支障が出るのは事実であって、心は別室のモニターでその会議の様子を傍聴するのみ。
音声だけは会議室に伝わるが、いかにも柄の悪い関西弁。あれに、腰を抜かす役員は多い。
声は、良いと思うんだけど。
そんなどうでもいい事を考えながら、エレベーターで一気に駐車場まで降りる。
このエレベーターは相馬達のみが利用出来る、特別なエレベーターだ。役員であっても、社長室、もしくは役員室や秘書室室長室に行くにもこことは別の入り口とエレベーターを使う。
その上、その入り口へ行くにも、指紋照合と専用のカードキーが必要なシステムとなっていた。この行き過ぎとも思えるシステムを作ったのは崎山だ。
ちょっとした実験みたいなものだった。崎山の作った防衛システムがどこまで通用するか、ハッカーである橘の力を借りながら作ったものの、出来は満点とはいかない。
やはり、一度外部の人間にシステムに入り込めるかハッキングさせてみようか。
そういえば、今日の決算報告には誰が出るんだ?
思考があちこちに飛ぶ。何だかおかしいなと思いつつ、頭を振る。
エレベーターが目的の階に着き、崎山はエレベーターを降りた。駐車場が一望出来るほどに大きなガラスの壁の向こうには、堅気とは思えない黒服姿の男が何人か姿勢良く立っていた。
一般車の出入り出来ないそこに、あの男はやって来る。崎山は一応防犯カメラを確認してから、自動ドアの前に立った。
無音で開く自動ドアを潜れば、湿気臭さが少し鼻についた。明日は雨が降るのかもなと、らしくない事を考えて黒服に指を回して指示を出した。
と、駐車場の入り口のシャッターが開く音が聞こえ、顔を上げた。
黒のBMW M5。組で唯一のBMWだ。あれは何だか好きじゃない様子だから、手放すのも早そうだ。
「あ…」
思わず声をあげた。運転手が見知った顔だ。というよりも、朝、ベッドで一緒だった男。
崎山の前にゆっくりと止まるBMW。黒服は、その後部座席のドアを開くと頭を下げた。
「お疲れ様です」
長い足がぬっと出て来る。黒のスーツはブルオーニ。心はそういうのに一切興味がないので、用意したのは相馬か。
まるで子供みたいに手がかかる男だなと、半ば呆れる。
そして、同じ様に運転席から降りて来る成田を、雰囲気だけで感じる。
そうか、これがあるからスーツを着ていったのか。朝からスーツがないと大騒ぎしていたな。
「だる」
珍しく、主が発した言葉は”だる”。本当にどうしようもないなぁと、眉を上げてみせた。
「今日は、そこまで長くないですよ」
4時間…あるかないか、という最後の言葉は飲み込み心達の前を進む。
専用通用口には屈強なボディーガード。心よりも一回りも大きい身体で、その上、筋骨隆々のくせに、心を前に少し震えているのがわかった。
何だ、これはライオンか?まぁ、猛獣には違いない。
崎山を先頭に自動ドアを潜り、ぞくぞくと入り込む心達を確認して、ドアを閉めようとした時グラッと視界が揺れた気がした。
何だ、やっぱり変だ。
「おい、崎山」
低い声が耳に届く、振り返った瞬間ガクンと膝が折れた。
倒れる!!!と思った瞬間、痛い程の力で引き上げられた。
「みやっ!崎山!」
「え…?」
成田の言葉が遠くに聞こえ、そこで意識がなくなった。

ふっと目が覚めたとき、視界には見た事もない天井が飛び込んで来た。薄暗い部屋。少しだけ視界の端に光がある。
「……」
ここはどこだ?というか、一体、何だ?何が起こった?
「…あ、目ぇ覚めた」
耳に聞き慣れた声に頭だけ傾ける。重厚なデスクに腰掛ける成田。先ほどはきっちりと身に纏っていたスーツは、ジャケットを脱いでタイも無い。
シャツのボタンを開けて、少しだけ不機嫌顔。視界に入った光は、そのデスクのライトだ。
「…ひ、さし?」
「あ、ここ、秘書室」
秘書室?毎日来ている場所なのに知らないのは…そうか、天井なんて見たことがなかったからか。
ということは、この自分が寝転がっているのは秘書室にある応接セットのソファ。さすが、高級ブランドFORMITALIA。寝心地最高。
どこから拝借したのか、毛布が掛けられている。医務室の物か。
「俺、倒れた?」
「風邪やて」
「風邪?」
「よっぽど体調悪かってんな。朝も、なんやぼんやりしてるなぁと思ってんけど、まさか昨日無茶しすぎた?」
「…え?今…あ!会議!!!」
バッと飛び起きた途端に、頭が砕け散りそうな頭痛に襲われる。そのまま頭を押さえて寝転がっていたソファに戻った。
「会議はぁ、延期ですー」
「延期…?」
「まぁ、今日はなんや他の役員も忙しかったらしいから、ちょうど良かったみたいやで」
「…なに、それ」
ドッと疲れが出る。結果オーライかもしれないが、今後の全ての予定が狂う。
しかも、今後の予定が全く頭に入っていない。風邪のせいなのかもしれないが、それがどうも落ち着かない。
「あーあ、でも、俺、組長、殴りそうなった」
「あ?何言ってんの?」
「だって、お姫様抱っこやで。お姫様抱っこ。何であの位置に組長!!」
「…おいおい」
マジかよ。気を失っていてよかった。そんな状況、生きた心地がしない。
そうか、最後のあの痛いくらいの力は、心に腕を掴まれたからか。
「ちゅうか!雅も倒れるなら俺の胸に飛んでこいや!」
「…ばっかじゃねぇの?」
本気で呆れる。崎山はその呆れた表情を隠しもせずに、成田に冷たい視線を送ると毛布を被って目を閉じた。
「あ、おい、ここの人間は?」
というか、フロント企業での自分の部下。一人も見当たらない。定時で帰れる部署ではないし、それにまだそんな時間でもない。
一体、何がどうなってる?と首を傾げた。
「ああ、若頭が追っ払ってくれた。雅、えーっと、あれ、秘書室室長やろ?」
「General Affairs Department Office of the President divisions」
「…は?」
「G.A.D OP division…総務総括長兼秘書室室長」
「…うん、そう。それそれ」
「分かってないだろ?」
「あ、水でも飲むか?」
はぐらかしやがって。思いつつ、雅は久志の腕を掴んだ。
「膝」
「は?」
首を傾げる成田の腕を引っ張り、ソファに座らせると、その膝に頭を置いた。
「堅いの」
可笑しくて、クスクス笑う。筋肉と、骨、少しの脂肪。ガチガチの膝だけども、崎山はそこから退かずにそのまま腕を伸ばして、やはり細さも柔らかさもない腰に腕を巻き付けた。
「ふふ、堅い」
「わるーございましたなぁ。太ったらええんか。ぼてっ腹になって、年がら年中額から汗流しとけってか」
「何それ、誰のこと?そんなの、太れる訳ないじゃない。体質でしょ」
「毎日毎日、ケーキでも食うてたら太るわ」
「ね、拗ねないでよ」
「うるさいわ、ほれ、動けそうなら帰るで。何やったらお姫様抱っこしたるわ」
「罰ゲームじゃん」
崎山は笑いながら顔を上げると、当たり前のように降って来る唇に応える。少しの間、触れる程度の口づけを交わして、やはり笑った。
「何?今日はよぉ笑うなぁ」
「ん?熱のせいじゃない?」
言って、堅い膝に頭を載せると、大きな手で頭を撫でられる。それが幸せで、やはり笑った。
「風邪に注意や。帰ったらおかゆさん作ったるわ」
成田はそう言うと、柔らかい髪に口づけを落とした。