- 1 -
桜庭 暁は目の前で優雅にコーヒーを飲む男を、恐る恐る見た。
切れ長だが、色素の薄い目の色のせいか柔らかい印象だ。高い鼻梁もさることながら、唇の形一つどれをとっても完璧と絶賛出来る容貌の持ち主は、先程、大学の前に無遠慮にCL600を停車させ、幼馴染みの吉良静をどこかへ連れ去ってしまったのだ。
そして、その男が暁のバイト先に現れたのは、つい先刻のこと。
大手チェーン店のコーヒーショップは立地条件も良く、夕刻になると帰宅前のOLや学生で賑わうのだが、その店内が”わッ”と歓喜に沸いた。
何事かと視線を移せば、大学の前で静と一緒に何所かへ消えた男が立っていた。
見るからに上等な生地のスリーピーススーツをまるで見本のように着こなし、それに見合うきっちりと整えられた髪。
人を吸い込む様な力強い双眸は茶色く、それが神経質そうな顔立ちをカバーしているようだった。
まるでモデルとも見紛う男は、一瞬にして店内の女性の心を捕らえた様に見えた。いや、確実に捕らえたのだ。
そして同性でも思わず惚けてしまう男はカウンターに居る暁を見ると、穏やかな笑みを浮かべた。
「暁、さんでしたよね?」
低すぎず高すぎず、心地よい声が鼓膜を刺激する。声を掛けられた暁はハッとなり、壊れた玩具の様に首を縦に振った。
それに答えるように微笑むと、男はメニューを一瞥すると顔を上げた。
「すいません。お仕事中。カプチーノを一つ」
「あ、ああ、はい。カプチーノ…あの…?」
カプチーノを飲みに来て、たまたま自分を見つけましたとでも言うのかと暁は首を傾げた。
だがそんな暁を見て男はニッコリ微笑み、”何時に終わりますか?お時間頂ければ、静さんの事で、お話をしたいのですが?”と告げた。
そうして仕事の終わった暁は、男と向かい合ってコーヒーを飲む羽目になった。
こんなに目立つ男と、しかもバイト先で優雅にコーヒーを飲むのは遠慮したかったが、静の事でとなれば話は別だ。
静は余計な心配を掛けまいと、暁に今の自分の置かれている現状を詳しく話そうとしない。だから、静がトラブルに巻き込まれているかもしれないというのも推測の域を出ずに、もしかしてと考えるだけで終わってしまうのだ。
なので、こうして情報を持っている人間に接触して、少しでも静の身の回りで起こっている事を知って、自分が出来る事があれば何かしてやりたいと思う。
そのキーマンとなる男が目の前にいる。上品な男ではあるが、素性が分からない。それに、あのCL600もさることながら、フルスモークというのが引っかかる。
あれではどこぞのヤクザの車と言っても、通用してしまう。もしかすると、トラブルの相手…?
「あの…それで吉良の事で話しというのは?」
一向に話をせずに優雅にカプチーノを啜る相馬に、暁は思い切って話を切り出した。
じんわりと掌に汗をかいている。男の目的が分からないので、探るように相手を見た。
「ああ、申し訳ない。こういう所にはあまり縁がなくて、楽しんでしまいました。申し遅れました。私、こういう者です」
男は丁寧に頭を下げて、革のカードケースから名刺を取り出し暁に差し出した。
学生の暁は初めてもらう名刺をどう受け取っていいのか分からずに、卒業証書でも受け取る如く、小さな名刺を両手で受け取って頭を下げた。
「…えっと、俺…いや、僕、桜庭 暁と言います」
良い年をして、自己紹介一つまともに出来ないとは。就職しなくて正解だったかもしれないと、暁は一人、自己嫌悪に陥った。
「フフッ…堅苦しい挨拶は面倒でしょう。いつもの様に話して下さい。私もそちらの方が気が楽ですから」
気遣いまでも完璧なのか、暁のたどたどしい挨拶にすかさずフォローを入れてくれる。それに暁は眼鏡を直しながら、スイマセンと頭を下げた。
そして上質な紙に印字された文字を見て、思わず目を細めた。
「えっと…相馬北斗さん?え?これ、あの、弁護士さんですか?」
思いもよらない職業に、暁は打たれた様に顔を上げた。
「はい。そうです。暁さんは静さんの件、ご存知ですか?」
「…え、あの…」
店に入って来た時から、店内の人間の神経は相馬に集中している。今に至っては暁達が何の話をしているのか、まさに耳がダンボの人間ばかりだ。
暁はそれを肌で感じ、目線を周りに向けると俯いた。
この店では、何度か静がヘルプでバイトに入っている。静の件というのは、きっと借金の事。それをここで話すのは気が引けて、暁は押し黙った。
「ここのカプチーノはとても美味しいですね」
「は?」
「エスプレッソがとても良い豆なんでしょうね。ミルクもそこまで多くなくて。暁さん、お腹空きませんか?食事に行きましょう」
「え?え?」
相馬は暁の返事を聞く前に腕を取ると、慌てる暁を気にも留めず店を出た。どこか楽しそうに暁の腕を引く相馬は、店に一番近いコインパーキングに入るとキーレスキーをポケットから取り出して様々な車が並ぶ列に向けた。
すると、ファンッとクラクションの鳴る音と共に、ハザードが光った。
「え、マジで?嘘だろ…CL65AMG」
暁は思わず息を飲んだ。大学へのお出迎えはCL600。今に至っては数多くあるメルセデスのモデルの中で、最高峰の地位に居るAMGが目の前にある。
しかもCLクラスではトップパフォーマンスと名高いうえに、受注生産という選ばれた者だけがそのハンドルを握ることを許されるような車。そんな最高級車と言っても過言ではない車に1日で二台にも出逢い、暁は思わず感嘆した。
「車に詳しいですね、好きなんですか?」
「はい!でもまさか、CL65に出会えるなんて。ツインターボチャージャー付6.0リットルV12エンジンですよ!?そのパワーに耐えれるように強化されたトランスミッションやブレーキシステム!あ、足は履き替えてるんですね?見たことないホイールだなぁ。いや、でもこれはかなり良い感じに仕上がってますね。20インチのままか?」
暁は興奮気味に車の周りをウロウロしながら、独り言のように語り出す。滅多にお目にかかれない車だ。しかも現物。興奮を抑えれるわけがない。
「そこまで感激してもらえたなら、乗ってきて正解でしたね。良ければ運転しますか?」
「は!?じょ!冗談でしょ!いいです!無理です!」
暁はバカみたいに首を振った。
「そうですか?遠慮しなくてもいいのに」
「本当に無理です!会えるだけで満足です!この車のハンドルを握るなんて、そんな失礼なこと!あ、車に失礼ってことです」
一気に捲し立てる暁に相馬はクスクス笑い、助手席のドアを開けた。
「どうぞ」
まるで、女性をエスコートする様なその振る舞い。日本人には似合わないとされるその姿も、相馬がすればとても様になる。
相馬の穏やかな微笑みで見返されれば、きっとどんな女性でも今日はどこへでも好きな所へ連れて行ってくださいと言うだろう。
暁は緊張しながらも、初めて乗るAMGに興奮する気持ちを抑えれぬまま車に乗り込んだ。
シートの下から、身体に響く様なマフラー音がする。リアに回った時にマフラーが純正ではなかった。どうやら少し改造しているようだ。
チラッと覗き見ればメーターには立派なAMGの文字。ああ、あれだあれ。王の証。
革張りシートに身体を沈めながらも、暁の瞳はコクピットに釘付けだ。さすがAMG。細部に至るまでのこだわりがらしいと言えばらしくて、どこからその価値がたたき出されるのか分からない車体価格も納得出来てしまう。
「何だか、運転をチェックされてる気分ですね」
相馬の愉快そうな声に暁は現実に引き戻され、弾かれる様に頭を上げた。
「あ!!スイマセン!!!!」
車は確実に動いているのに、すっかり相馬の存在を忘れていた。何か好きなことに没頭すると、周りが見えなくなるのは暁の悪い癖だ。
「いえ、いいんですよ。ただ、本当に好きなんだなぁと思いまして」
「すいません…。俺の、悪い癖で…」
「そうですか?私は悪いとは思わないですよ」
押し黙った暁に、相馬が前を向いたまま語りかける。その口調は穏やかで、とても居心地が良い。
この人は間違いなくカッコいいが、女のコから見ると違うのだろうか?いや、間違いなくカッコいいだろう。
全くと言っていいほど、難癖をつける所が見当たらない。こういう完璧な人間は、フィクションの世界だけと思っていたがリアルに存在するとは。
「あの…それで、吉良、何かトラブルですか?」
段々、思考回路がおかしな方向へ行きかけていたので、暁はそれを軌道修正する如く、相馬に聞いた。
なぜ、弁護士が静と知り合いなのか、それが分からない。弁護士に頼らなれけばいけないような事態に陥っているのか、それとも他に何か…。
「ああ、そうですね。暁さんは静さんの件はご存知ですか?」
「その、大多喜組の事でしょ?知ってます。俺、吉良とはあの連中が関わる前から仲良いから」
「そうですか。実は、その大多喜組の借金を、整理させていただいたんですよ」
「…へ?」
思いも掛けない言葉が返ってきて、暁は間の抜けた声を出した。
「え、今、なんて…?整理?」
「そうです。整理というよりも摘発に近いですね。あんな違法金利で学生に集る様な連中、野放しにしておく事もないでしょう」
「え!?本当に吉良の借金、片付いたの?もう逃げ回らなくても平気?もう吉良が殴られたりしない?でもさ、ああいう連中って、色々と嫌がらせして来るだろう?払い終わっても、何してもさ」
質問攻めに捲し立てる暁に、相馬は目を細めた。ハンドルを握る相馬に身を乗り出して口早に話す。
相馬に質問しては、ああでもないこうでもないと自問しているのを見ていると、本当に静の事を思っているのを痛切に感じた。
「安心して下さい。元々は闇金。営業免許も何も持たない輩です。叩けば埃は出るんですよ。すでに静さんには、危害を加えたりすることは出来ないようになっています」
ちょうど赤になった信号に車を停止させ、相馬はニッコリ微笑み暁を見た。それを聞いた暁は、花が咲いたような笑顔を見せた。だが次の瞬間には、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。
「暁さん!?」
「あ、ははは、すいません。なんか、凄い安心した」
そう言って眼鏡を外して潤んだ瞳を拭く暁に、相馬はビクリと身体を震わした。
静は見た目からして、とても綺麗で中性的な顔をしている。それとはまた全然類いの違う、間違えても欲情してしまう様な女性的な顔ではないのに、何故か目元を仄かに赤くして涙を拭う暁にグラリと来たのだ。
そして気が付くと、暁を引き寄せ、その唇に軽いキスをしていた。
「…は」
驚いたのはキスをした相馬も、そしてされた暁もだった。静かな車内に、互いの息づかいだけが聞こえる。
言葉を失って涙さえ引っ込んでしまった暁の顔が相馬の双眸に映る。すると相馬は何事も無かった様に小さく笑い、暁の唇を軽く拭った。
相馬はこの時ほど自分のポーカーフェイスを高く評価した事は無い。ここで自分が動揺すれば、暁はもっと動揺してしまうだろう。
それを証拠に、あまりに冷静な相馬に暁は狐につままれたような顔をしている。
「何か食べたいもの、ありますか?」
「…へ?」
「食事、私はまだなんですが、暁さんはもう食べられましたか?」
「あ、いえ、あ、はい」
「何にしましょう?」
「あ、えっと…」
まさに何が何だかという感じなのに、まさか食事の話をされるとは思わず辺りを見渡す。すると焼き肉屋が目に入って来た。
「や、焼き肉!」
見たままを言うと、相馬は”了解しました”と微笑んだ。だが、暁の内情はパニックだった。
気のせいだと一度は片付けてしまおうと思ったものの、気のせいな訳がない。確実に、相馬の唇は自分の唇に重なっていた。
なのに相馬は何事も無かった様に接してくる。これはこの事について、何も触れるなという事か?
いや、さっきのは何だったのですか?なんて聞いても、それを聞いてどうするんだという疑問さえ浮かぶ。
助手席で悶々としている中、相馬の携帯が鳴った。相馬は路肩に車を寄せると、ハザードを出して車を停車させた。
そしてスーツのポケットから携帯を取り出すと、ディスプレイに表示された名前を見て眉根を寄せて大きく息を吐いた。
「ちょっと失礼しますね…。はい、どうされましたか」
相馬が話をしている最中も、暁の疑問は頭をグルグル回っていた。
暁は憧れのAMGに乗って居るのにも関わらず、そんな事すら忘れて軽く頭を抱えていた。その暁を横目で見て、相馬はどこか決意したように一呼吸入れた。
「すいません、少しお待ちいただけますか?」
相手に一言告げると相馬は暁の伏せた顎に手をかけ、グッと自分の方へ顔を向けさせた。
「え…」
急な事に暁は目を見開いたが、それに写り込んだのは穏やかで微笑みを浮かべているのとは違い、ぐっと男らしい顔をした相馬だった。
「相馬さ…」
名前を呼ぶ時間すら許さない様に、相馬は暁の唇を塞いだ。深い口づけに暁が相馬の高級なスーツを掴むと、相馬の大きな手が暁の腰に回り、足りないとばかりに引き寄せられる。
皮シートの擦れる独特の音が車内に響いた。息継ぎの為に開けられた唇を相馬に大きくこじ開けられ、侵入してきた舌に縦横無尽に咥内を舐め回された。
歯列を確かめる様に蠢く舌は、行き場をなくした暁の舌を見つけると容赦なく引き摺り出し、音がするほど絡めとられる。
目の眩む様な口づけに暁が力をなくし相馬のスーツから手を離すと、その手を相馬の手が掴み指を絡められる。まるで恋人同士が繋ぐ様に絡められた指から、相馬の熱が伝わった。
その熱が身体中に周り、意識までも朦朧とする。
「…ふ、ん」
子猫のような声を出すとようやく唇が離された。すっかりとろけた表情の暁の頬に口付けを落とすと、腰に腕を回されたまま抱き締められる様に引き寄せられ、暁は相馬の肩に顔を埋めた。
「もしもし、いえ、失礼。そうですね、それは私が行くしかありませんね。貴方はもう、お休みになられて結構ですよ。明日にでもまた、報告させていただきますね。あちらには鬼塚の名前を出して、ご挨拶しておきますから」
やはり何事もなかったように会話をする相馬の声を耳元で聞きながら、暁は乱れる呼吸を必死に整えていた。
潤む視界に、絡められた指を慈しむ様に自分の指の腹で暁の手の甲を撫でている相馬の手が視界に入る。暁はそれを、ただ見ていた。
「では、失礼します」
そう言って相馬は携帯を切ると、呆然とする相馬の頬に手を当てた。その感触に、暁がビクリと震える。
「このまま一緒に居たいのですが,残念ながら仕事が入ってしまいました」
「あ、はい…」
「ごめんね?」
「いえ、あの、鬼塚…って?」
「ああ、上司ですよ。とても我がままで、自分勝手で困ります」
どこか楽しげに話す相馬に、暁はコクリと頷いた。
「あの、どうして…」
ここまでされれば、どうしてこんなキスをしたのか聞いても構わないだろう。軽い口付けとは呼べない、暁が経験したことのないディープキスだ。
意味がないことはないはずだ。
「どうしてでしょうね。まだ出会って数時間しか経ってないのに。ああ、気持ち悪いですか?同性にこんな事されて」
「ちが!」
暁は思わず相馬の手をぎゅっと握った。
気持ち悪い訳が無い。相馬は同性から見ても、惚けてしまう外見だ。かといってそれを鼻にかける訳でなく、暁の様な学生にまで敬意を払った態度で接してくれる。中身も外見も完璧なんだろう。
そんな相馬を気持ちが悪いだなんて…。
「急にこんな事されても混乱されますよね」
「あの…」
正直に言えば、確かに混乱している。いや、混乱しないわけがないのだ。数時間前に出会った男とキスをして、混乱しないわけがない。普通ならば、だ。
だが、絡められた指が離れそうになって、離れない様に力を入れているのは暁だ。
離さないで欲しい。そう願ってしまっているのだ。
「俺、嫌じゃ…なかったです」
俯いて、暗闇でも分かるほど真っ赤になって暁は一言ポツリと言った。
相馬はそれに口角を上げて笑みを作ると、俯いた暁の髪にキスをした。
「貴方は、本当に可愛い方ですね」
「ええ!?」
暁は驚いて顔を上げた。
いきなり何を言うのか。静の様な、誰が見ても綺麗な顔をしているわけでもない。どこからどう見ても男の自分を可愛いだなんて、何を血迷っているのか。
「また、今度、食事に行きましょう」
困惑する暁をよそに、ニコリと微笑まれる。暁は困ったように笑うと、小さく頷いた。