『先日の23日が何の日だったかご存じでしたか？』
電話の向こうの柔らかな声を聞きながら、暁はふと手を止めた。
ワンルームの部屋は今は見るも無残な状態だ。間近に迫った論文提出のせいで、泥棒にでも遭ったのかと言われそうな散らかり具合だ。
そんな中で埋まるように座る暁はPCの画面の端に表示されたカレンダーを見て、首を傾げた。先日の23日というと、5月23日。
「何の日でしたっけ？」
週に1度、あるかないかの相馬との電話での会話。多忙な相馬との会話は貴重な時間ではあるが、論文提出は死活問題。
暁のゼミの教授は鬼と有名な男で、ゼミ生は自分の手足だと思っている。それかツールの一つ。それくらいに非情な男ということ。
そして勿論、その手足に情け容赦は一切ない。論文、間に合いませんでした。これでアウトだ。
事情がどうあれ、たとえ、教授自身の用事を熟したせいで時間が取れなかったというのが理由だとしても、そんなことは知ったことじゃない。
そんな論文を片付けながらの日々で、今日が何日か何曜日かも怪しいのに何の日だったかまでは全く分からない。分かる訳がない。
「えーっと」
『映画は観ますか？』
「え？観ますよ。あ、でも俺って結構B級って言われる映画ばっかり観るんです」
『ああ、今の研究に関わるような？』
「まぁ、それもだけど、マイナー映画館でしかしてないような」
あれ？で、これって23日と何の関係があるんだっけ？
暁は山のように積まれた蔵書に挟まれた紙切れを、そっと引っ張り出す。
走り書きの暗号に見えるそれを見ながら、PCの画面の文字をじっと見る。
「相馬さんは、映画とか見る時間なさそうですよね」
『そうですね、映画はご無沙汰ですね』
「あの、23日って何の日なんですか？」
話が逸れたが、結局、何の日なのだろう。大学でも23日がどうこうという話は聞かなかった。ということは、そんなにメジャーな日ではないということか。
そんなことを考えていると、チャイムが鳴った。
「あ、相馬さん、ちょっと待って。誰か来た」
『ええ、構いませんよ』
相馬の声を聴いて、暁は携帯を置いて玄関へ向かう。パーカーにショートパンツというなんとも言えぬ姿だが、女子じゃないんだからいいだろうと暁は玄関の施錠を解いてドアを開けた。
「…っ！？」
開けたそこに居た客人に声を失う。そこに居たのは…。
「お久しぶりですね」
「そ、相馬さん！？」
え！？え！？と相馬と室内を交互に見る。何が起こったのか分からない状況に、半ばパニックだ。
相馬の左手には携帯が握られていて、まだ通話は繋がったままのようだった。
「え？電話しながら向かってたんですか？え！？」
暁はそう言いながら次の瞬間にはハッとした。自分のその、くたびれた姿と自分の後ろにある部屋の惨状にだ。
「ま、ちょ、え！あの！！」
「まだ遅い時間ではないといっても、相手を確認せずに出てはいけませんよ？」
子供を叱るように柔らかく言うと、相馬は通話を切り右手に持っていた紙袋を暁に差し出した。
「あ。え？」
「差し入れ。その様子だと、食事もきちんと摂っていないようですからね」
「あ！！あ、はい」
いまだに状況が呑み込めない暁はそれを受け取ると、眼鏡を直したり髪の毛を撫でたり落ち着かなくなった。
「すいません、俺、すごい今ボロボロ」
睡眠不足で顔色も悪いだろうし、髪も起きた時のままボサボサだ。
なんだか居た堪れなくなってきた。今更ながら、足の先から髪の先まで必死に手入れをする、女の子の気持ちが分かる気がする。
「疲れてるところ、突然お邪魔してしまって申し訳ないですね」
相馬は暁の戸惑いを汲み取って、居心地の悪そうな暁の髪を撫でた。
「えっと、あの、お久しぶりです」
今更の挨拶に相馬はフッと笑った。そして、その今更な言葉を発した自分に暁は”なにそれ”と呆れた。
「電話ではお話してましたが、直接逢うのは久しぶりですね。何か、変わりはありませんか？」
「あ、ないです。元気です。でも、正直、今はパニくってます」
「ふふ、そのようですね」
狭い玄関ポーチに男二人、ドアが閉まれば暗いそこで暁は相馬を直視出来ずに足元ばかり見ていた。
どうせなら、きちんとした格好の時に逢いたかったし、こうして相馬と逢うのは”あの日”以来だ。
恥ずかしいのか、何なのか、どうしていいのか分からずに途方に暮れる。
「そう、23日。何の日か分かりましたか？」
「…あ、23日」
そうだ、23日。それから電話が始まったんだ。暁は顔を上げて相馬を見たが、相馬はにっこり笑うだけで答えはくれないようだ。
「まさか、相馬さんの誕生日とか」
「いえ、残念ながら私の誕生日ではありませんね。まぁ、この日が何の日だったのか、私も部下に聞いて知ったんですけどね」
「え？それくらいマイナーなの？」
「マイナーかどうかは知りませんが、とりあえず、私は知りませんでした」
博識な相馬も知らなかった23日って何だと、暁は唸り声でもあげそうな感じで考え出す。
だが、どう考えても何時間考えてもその答えは出てきそうにない。暁は降参とばかりに息を吐いた。
「だめです。分からないや」
「それは残念」
相馬はどこか楽しそうにそう言うと、突然に暁の腕を引っ張り引き寄せると言葉を紡ごうとした唇を塞いだ。
突然のことでバランスを崩して、その場に崩れそうになった暁の身体を相馬の力強い腕が支えた。
そしてもう片方の手で暁の頭を支えると、ゆっくりと唇を開かせて暁の咥内に侵入してくる。
「ん…っ」
鼻から抜けるような甘い声に気を良くした相馬は、暁の舌に舌を絡ませて深い口づけを交わす。
唾液が絡むような卑猥な音だけがそこに響いて、暁はギュッと相馬のスーツを握った。
歯列を舐められ、上顎を猫のように舐められる。腰のあたりがジンジンして暁の目尻に涙が溜まった。
「…悪戯がすぎた？」
少しだけ唇が離されて、顔を覗き込むようにしてくれる相馬を潤んだ目で見返す。
この人は本当にキスが上手い。経験が数えるほどしかない暁でも、相馬の巧みなキスがどれほどの経験があって磨かれたのか想像がつくほどだ。
百戦錬磨とまではいかないとしても、大人の男のキスだ。
「なんか、ズルいです」
頭の中のもやもやをそのままぶつけると、相馬は少し困ったような顔をして暁を抱きしめた。
「ズルいのは君ですよ。そんな顔で誘うから」
「さ、誘ってなんか」
距離が縮まったところで、相馬の香水の香りが鼻を擽る。あまり嗅ぎなれない香りは大衆のそれではないようで、相馬だけの香りという感じだ。
特別に調合でもしているのかなと思いながら、暁はそれを堪能するように相馬の胸元に顔を埋めた。
「そんな可愛いことされると、君をこのまま攫いたくなる」
「え、それは困ります。論文の期日目前です」
「ははは…。リアリストですね。でも、それが君のいいところだ」
相馬は笑って、暁をぎゅっと今まで以上の力で抱きしめると、その手を離した。
「名残惜しいけど、仕事の途中でね」
相馬は暁の頬にキスをして、次は軽く唇にもキスを落とした。
「これからは、チャイムが鳴ったら相手を確認して開けてくださいね」
「…はい」
「じゃあ、また連絡します」
「あ、気を付けて。いってらっしゃい」
暁がそう声を掛けると相馬は少し驚いた顔をしたが、次には万人を狂わすような蕩ける様な微笑みを浮かべた。
「いってきます」
その言葉と同時に閉まったドアを見ながら、ハッとする。
「え、結局23日って何の日なの」
答えはないのか！と足元に置いてきぼりになっていた差し入れを持ち、部屋に戻る。
23日は仏滅ですとか、そういう類の話？まさかなと暁は足の踏み場もない部屋の、そこだけぽっかりと空いた空間に腰を下ろした。
机の上を占領する資料を申し訳程度に除けて、差し入れを覗き込めば有名店のパスタが入っていた。
自然野菜のみを扱うスタイルで、いつでも行列が出来る店だ。そこにわざわざ並んでくれたのだろうかと思いつつ、その香りを嗅いだ途端に腹の虫が鳴る。
そういえば最後に食べたのいつだっけと思いながら、久々の豪華な食事に喉が鳴った。
パスタの容器の蓋を開けながら、行儀悪いと思いつつおもむろにPCに5月23日の日付を打ち込む。
教えてくれないのなら調べればいいやと、便利な世の中の便利ツールを使う。
「…え」
そして画面に映し出されたその答えに、暁の顔が絵具で色づけたように真っ赤に染まったのは言うまでもない。