冬なら、まだ日の昇らないうちから本堂で座禅を組み、住職である父の経を聞く。そのあと境内を掃除して、鐘を撞く。
御園 斎門は、それを苦痛だと思った事はまだ短い人生の中で一度たりともなかった。格別の使命を感じていた訳でもない。ただ、賑やかな街にあっても寺や神社は独特の静けさがあり、斎門はそれが好きだった。
五月蝿すぎるのは苦手で、頭痛がする。完全に田舎ッ子だなんて思ったが、幼い頃から経が子守唄の様に流れ、気持ちを落ち着かせる香が家中に香っていた。
生まれてから育ったそんな環境っで田舎ッ子になってしまったとしても、何ら不思議ではなかった。
斎門の家には芸子や舞妓、時には大学生や高校生がやってくる。皆、宗家の祖母に琴や三味線を習うためだ。
その音色は情緒があり、寺で聞こえるから、また一層風情がある。斎門もそれは好きだったが、専ら聞く専門だ。
自分も奏でてみたいとは、不思議と一度たりとも思った事は無かった。センスがないことはそれに触れなくても分かるし、何かを自らする性格ではないからだ。
斎門は、そのやる気の無さや何処か惚けた様な雰囲気を持ちながら、端正な顔立ちをしていた。学校でも物腰の柔らかさから異性の受けは良く、付き合って欲しいだなんていう告白も再三受けたが、斎門は承諾しなかった。
ようは面倒くさかったのだ。寺の勤めは朝から晩まで尽きる事は無いし、斎門も学校から帰るとあれやこれやと雑用が多いのだ。
結局のところ、時間がないのだ。いや、作ろうと思えば作れたが、斎門はやはりそういうことに関しても自ら行動をすることはしない。
高校を卒業すれば、本格的な修行に入る。在家に入るので、自然と五戒を守るのが前提だ。
そうなる前に、やれる事はやっておきたいと思ってはいたが交際は話が別だ。そんな御園の考えを知ってか知らずか、琴を習いに来ていた短大生に誘われ初体験を済ました。
思っているよりも柔らかな女の身体に欲情はした。だが、終わってしまえば何てこともないものだと思った。
性向の後は、酷く間抜けだった。
「斎門って、言葉、むちゃ京女の言葉やな。もしかして年上の彼女とかおったりするんちゃう?」
下世話な同級生が斎門の言葉使いに興味を示したが、斎門自身に自覚はなかった。だが、言われてみればそうかもしれないなぁなんて、思った。
父親は家業の仕事については口煩く言う人間だったが、言葉使いに関しては何ら注意をしてくる様な事はしなかった。
なのでそれが御園の”言葉”であり、今更、直そうだなんて微塵も思わなかった。
中学から高校への受験の時、本来、家業を継ぐ斎門は仏教校等に進学するべきだろうが、何故か父親はそれを望まなかった。恐らく、自由に出来る今だけは家に囚われずにいてほしい。そんな親心からのようだった。
なので斎門は仏教とは何も関係がない高校へ進んだ。
いつからだろう?いつもいつも、妙な視線を感じていた。それは、下級生の憧れなどを含んだものではなく、刺す様な、そして困惑を含んだ視線だった。
その視線を送って来るのは、女ではなく男。長身で目立つ髪色。どこかプライドの高さを漂わす双眸は同じ年齢にしては異様に鋭く、厳めしい。
そしてそれに似合った、整った顔立ちの男だった。
誰だろう?同じクラスになったことは…ない。あんな目立つ男なら、いくら自分でも覚えているはずだと思った。
斎門はクラスメイトに自分から話しかけたりはしない。なので向こうから話しかけられなければ、そのまま名前も覚えずにクラスが離れる同級生も居た。
斎門はそれくらい、他人に興味がなかった。なので自分に視線を送る男が誰なのかなんて、検討もつかなかった。
「あ、木下。あれ、誰やろか。ほれ、あの背ぇ高い…」
斎門の前の席、中学からの付き合いの木下 連は斎門の視線を追った。次が体育なのか、運動場にはパラパラと生徒が居た。
体操服に着替えている生徒の中で、何人かブレザーのまま運動場に出ていた。
その中で、バスケットゴールに綺麗なフォームで3ポイントシュートを決めている男。斎門はその男を見ていた。
「なんや斎門、珍しい。誰かの名前聞くなんて。まさか話かけられたんか?」
斎門の性格を知っている連は口の端で笑うと、頬杖をついて、テーブルに広げられている斎門のノートに何か書き出した。
鬼頭 ますみ。
書かれた名前を見て、女みたいな名前だなぁと斎門は思った。
「口に出して、誰かに聞かれたら難儀やさかいな」
「何で?」
「家がこれやて」
連は名前の横に、”ヤクザ”と書いた。ああ、なるほど。だからあんなにも鋭い視線を持つのか。斎門は妙に納得して、”ますみ”と書かれた名前を指でつついた。
「まさか平仮名?」
「ちゃうよ、漢字やけど、”ま”が真の真やないやつ、何やけったいな字。で、澄み渡るの澄み。似おうとれへんわ。何にしても関わりは持たんことやな。難儀やで」
連はそう言って、書かれた名前を消した。その鬼頭 ますみに何かしただろうか?
斎門が窓の外に目をやると、眞澄達はどこかへ行って居なくなっていた。体育なんか受けてられないというところか。
斎門はどこか自分に似ているなと思い、連に気がつかれない程度にほくそ笑んだ。
眞澄の名前を知ってから、どれくらいか経ってからの昼休み。廊下でクラスメイトが合コンへ行こうと、斎門を誘っていた。
斎門を連れて行くと受けが良いと言われたが、そんな当て馬みたいな真似する気にはならないし、実家のお勤めも忙しいのだ。
そんなものには付き合えないと話していると、あの視線を感じた。いつも間にか、心地よいものへと変わっていった強い視線。
斎門はさりげなく談笑してる風に装いながら、その視線の方へ目を向けた。
初めて目が合った。
いつもは斎門が視線に気が付き顔を向ける頃には、相手は背中を向けて歩き出している。なのでこうして眞澄の顔を真正面から見る事は初めてだった。
やはり、横顔だけでも分かっていたが、眞澄はなかなかの色男だった。眞澄の瞳は困惑しているようだった。
自分と視線がぶつかった事に困惑しているのか。斎門は悪戯心から、ゆるりと微笑んだ。
その悪戯が効いたのか、三条で琴の生徒の舞妓と逢っている時に半ば強制的に拉致られた。驚いたのは初めだけで、掴まれた手首の熱さに斎門はどこか嬉しくなった。
部屋で口淫を強要されても、拒絶感もなく眞澄の熱を感じられてる事に夢中でしゃぶりついた。味は最悪だったが、口づけは甘かった。
部屋で見つけたダイレクトメール。”眞澄”という字を書くのを知った。大塚を
見た目が見た目なだけに、見た目通りの優男ならば眞澄は一気に冷めるだろうと確信めいたものを感じた。それならば、きっちり期待に応えてみようと思った。
五条の大塚なんて名前だけで、顔も何も分からない。眞澄に聞けば早いだろうが、多分、教えてはくれないだろうし教えてもらってから行くのは楽しくない。
それに、眞澄が
あまり立ち入らない土地。何度か来た事はあるが、知り合いが居る訳ではない。斎門は目星のつけた学校に近くに行くと、そこにから出て来た女学生に声をかけた。
女学生は声を掛けた斎門を見ると、顔を赤らめた。
「大塚くんって、多分、あの大塚君やと思う。やて、あんまり関われへん方がええよ、何や親がヤクザとかって言うて、
後ろ盾の存在で威張り倒すなんて、結局は腑甲斐ない男なんだろう。斎門は背格好や特徴を聞いて、いつも通ると聞いた公園の滑り台に座って待った。
女は自分に関係ない、それこそ興味の無い男の情報でも、何でもよく知っている。他愛ないおしゃべりに出て来るんだろう。
その証拠に、公園にそれと思われる男が現れた。制服をだらしなく着こなし、その姿だというのに煙草を銜えている。
いかにもという外見に、斎門は笑いそうになった。そして余程、腕に自信があるのか一人だというのは都合が良かった。
「大塚君?」
声をかけると大塚は眉間に皺を寄せ、滑り台の上に座る斎門を睨みつけた。斎門はパーカーを着て、フードを被っていた。
顔が割れて寺に来られたら面倒だ。来月には空手の県大会が控えている。不良相手に喧嘩して出場停止になれば、面倒な事になる。
それでなくても眞澄に殴られた顔の傷を父親に指摘され、言い訳に困ったのだ。
「オマエ、誰やねん。フード取れ」
「そら出来ん。ああ、眞澄の遣いやて言うたら分かる?」
「眞澄…?」
「鬼頭 眞澄」
大塚はその名前を聞くと、これ見よがしに顔を顰めた。意味が分かったのか、大塚は火が点いたままの煙草を投げた。
「放火未遂」
「何?」
斎門はザザッと音を立てながら滑り台を滑り降りると、大塚の捨てた煙草を爪先で揉み消した。
子供が遊ぶ公園に煙草を捨てる。それも火の点いた煙草を捨てるのは、僧侶の道を志す斎門としては解せない。何の恨みはないが、
「火ぃついた煙草捨てたら、放火未遂で逮捕出来るんやで?知らん?」
「眞澄の用件はなんやねん」
「えっと、俺は大塚君に何の恨みもないし今日逢うん初めてなんやけど、
にっこり笑うと、大塚は大声で笑い出した。
「へぇ、オマエみたいなもやし寄こすって、オマエ、鬼頭に嫌われてるんやないんか?」
「うーん、そらぁ…あらへんかいな。どへんしはる?ここでする?」
斎門の問いに大塚は右の人差し指を動かし、かかってこいと表現した。斎門は腰を回すと、ほな。と一言かけてゆっくり大塚に近づいた。長身でリーチも長い。
手が届くか届かないかの場所にくると、斎門はフッと笑い右足を軸に上段蹴りを入れた。大塚がそれを腕でガードすると、弾き飛ぶ様に斎門から離れた。
「オマエ、何かやっとるな」
「いやいや、もやしッ子やで。俺は」
斎門が言うと、大塚は斎門に猪の様に向かって来て右ストレートを向けて来た。それをダンスをする様に交わすと、そのまま大塚の腹に膝蹴りをかます。
一瞬、身を沈みかけた大塚は斎門の胸ぐらを掴むと、下からアッパーを突き上げて来た。それを腕で受けると、意外に重みがあった。
お互いに反発し合う様に離れて、ふっと息を吐いた。
「おのれ…」
「うん、重たいな。案外。でも、もうええわ」
斎門はそう言うと大塚が構える前にその懐に飛び込み、肘を腹にぶちこんだ。鳩尾にがっちり嵌った肘は大塚の内蔵を抉る様にめり込み、大塚は身体を丸めた。
そのまま垂れて来た大塚の顎を掌で叩き上げると、間髪置かずに回し蹴りを喰らわす。大塚の身体はそのまま回転しながら、地面を転げた。
斎門は腹を押さえながら嘔吐する大塚を蹴り上げると、仰向けにする。嘔吐している物に、血液が見える。内臓をやってしまったらしい。手加減するつもりが、顎も割った様だ。
「あらぁー。素人さんとは初めてやさかい、加減分からんさかい堪忍な。吐いてもうた?」
大塚はそういって見下ろして来る斎門を、酷く辛そうな顔で見上げていた。顔は逆光で見えない。微かに見える口元だけが弧を描いているのが見えた。
「さて、どこまでしたらええんかいな」
まだするのか?大塚の瞳に怯えが走った。斎門は少し考えると、大塚の耳に嵌ったピアスに手をかけた。
「ああ、これ貰うな」
小さなピアスを外すと、それをズボンのポケットに入れ、そのまま大塚の膝の上にジャンプした。夕暮れの空に、大塚の悲鳴が轟いた。
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斎門は駅のコインロッカーからブレザーを取ると、脱いだパーカーをまたコインロッカーに入れ施錠した。そして、その鍵を屑籠に投げ入れると、何事もなかったように電車に乗り込んだ。
報告がてら眞澄のマンションに行って、そのまま眞澄に抱かれた。体内を犯す熱い杭に、酷く興奮したのを覚えている。
だが翌日は熱が出て、座禅も組めなかった。後悔はなかった。痛みもあったが、それを上回る快感は性欲の薄い斎門でさえも、またしたいと思う行為だった。
だがそれ以上に、逢って間もない自分に常軌を逸した独占欲を見せる眞澄が可愛くて仕方なかった。
学校では眞澄は斎門に話かけることはなかったが、今まで以上の視線を感じた。視線は外される事はなく、斎門を遠慮なく突き刺した。
まるで監視される様な、裏切りを許さないと言わんばかりの視線。
「木下、俺の事、御園って呼んでくれへん?」
昼休み、斎門の言葉に連は怪訝そうに眉を寄せた。変わり者の斎門が何をしようとしているのか連には分かったのか、手にしていたメロンパンに無言で齧り付いた。
斎門は自分の芯をしっかり持った男で、その頑固さは折り紙付きだ。見た目は惚けている様だが、武道の達人で文武両道だ。
そういう意味でも将来設計はしっかりしていると思っていたのに…。
「俺、別にオマエのやることに口出すつもりはないけど、賢い道とは思わんわ」
連はパンを齧りながら言った。
「せやねぇ。やて、身体中から欲しいって言うてるん分かったら、応えたくなるやろ?俺も、相手を欲しいって思うたらそれが普通やろ、あれや、運命」
極端な事を言う。軽い運命だなと連は、呆れの含んだ溜め息を零した。こうなってしまえば、斎門は誰の言う事も聞かない。
「ほな、御園って呼ぶわ。まぁ、オマエを名前で呼ぶんは、俺だけやさかいな」
連はメロンパンを食べ終わると、屑を丸めて袋に入れた。
「堪忍ね」
こうして自分が誰かに縛られる事があるなんて、今まで考えた事もなかったが案外、心地がいい。
それが眞澄だからだろうか。それとも、自分はこうして誰かに縛られたかったのか。
生半可ではない独占欲は、どこまで続くのだろう?愛情が殺意に変わる事があるのだろうか?
それでも眞澄に殺されるなら、受け入れてみるかなんて斎門は思った。
だが、それから何年経っても眞澄の独占欲は変わる事無く、そして、それは時にコントロール出来なくなるのか斎門を乱暴に抱く事もあった。
だが斎門はそれを悦んで受け入れた。マゾなのかもしれないなんて思ったが、結局、どちらも蜘蛛でどちらも蝶なんだろうなと思った。
眞澄は攫う様に斎門を寺から連れ出し、極道と関わる事になる斎門は破門、勘当。だが、斎門にしてみれば何て事ないことだった。
眞澄が極道の道に入ると決めたとき、眞澄を守るのは自分の仕事だと思ったからだ。そして、眞澄を殺すのも自分だと。
歪んだ愛は、そのまま今も続いている。
蜘蛛の巣にかかった蝶は、もがく事もなく悦んで蜘蛛に飼われた。