いろはにほへと

いろはseries


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延々、小さい頃から何度聞いたであろう、天使のように可愛かったという万里の成長記録と冬子の心配の日々を語られ、もういい加減ネタも尽きた頃に舎弟が今更のお茶を持って現れた。
今かよ!と全員が思ったが、なんて事はない、入るタイミングが全く分からなかったのだ。
「はー、ほんま、あんたは怪我したらすぐに分かるんよ?なんせ、家に帰ってこんようになる」
単純すぎる馬鹿だなと、神原はお茶を啜りながら思った。心配かけまいとしているのだろうが、それこそ何かありましたと言っているも同じなのだ。
こんな面倒ごとがあるのに、なぜいつまでも実家に居座るのか。
いい年した男が自立もせずに、上げ膳据え膳で至れり尽くせりの環境は問題があるのかもしれない。だが、そんな暮らしを今までずっとしてきた万里に、今更一人暮らしをしろなんて死ねと言ってるのと同じ。
それに、されても迷惑だ。間違いなく神原の仕事が増える。
「海里は最近は怪我してへん?あんたは弱いからねぇ。ああでも、今はあの熊みたいな子がおるんやったねぇ」
「小山内です。おかげさまで、最近は怪我もなく」
「あんたも、いつでも極道なんか辞めたらええんよ。うちのんかて木崎かて今は助けてもらいたいやろうけど、時期がくれば自由にさせてくれるわ」
冬子は、こんな商売もう嫌やねとお茶に口を付けた。
広い居間には写真が飾られている。歴代の組長や若頭。その中でも飛び抜けて若い男が、冬子の実子だった明神 宗政である。
どういう理由でそこに飾られる事になったのかを万里も神原も知らないが、極道とはそういう世界で、明日の朝には居なくなってもおかしくないというのが現実にあるということだ。
「かーか、俺と神原は大丈夫やて」
にっこり万里が笑って言ったが、冬子はそれに大きく息を吐いた。
「あんたの大丈夫が一番あてにならん」
それは同感と、神原は少し温くなったお茶をまた啜った。

あの光景も見慣れたなと、BAISERの入り口から見える厳めしい車を眺めながら、雷音はぼんやりとそんなことを思った。
あれから相内会が何かを言ってくることはないし、柴葉が安曇に接触してくることもなかった。静かなものだ。
これも明神組という門番のおかげなんだろうなと、改めてその偉大さを思い知った。
「雷音さん、店に戻らなくていいんですか?」
美田園は、黒服の自分の隣に同じように立つ雷音に声を掛けた。
こんなところでサボっているのがバレたら、蓮に何を言われるか分かったものではない。その心配をしてということだろうが、雷音はにっこり笑った。
「俺も黒服に職替えしようかな」
「冗談を」
「ま、役に立たないわな。つうか、毎日毎日、彼らも大変だね」
雷音は、そこに視線だけ向けて息を吐いた。
周りの風景にも溶け込もうとしない、黒の高級外車。中に人影も見えるので、車だけではないのは確かだ。
だが街灯を避けて停車しているせいで、はっきりとどんな人間が乗っているのかが見える訳ではない。なんだかああしていると、刑事の張り込みみたいだなとも思う。
「あの、いかにもっていう風なのはわざと?」
「多分…敢えてモメずに済むといういうことも考えて…じゃないですか?」
警護という名目で居るにしても、ジロジロ見られるのは良い気がしないだろう。
そもそも、見られるのを嫌うような連中だ。雷音と美田園は顔は向けずに視線だけ車に向けて話た。
「そうだよな。居るって分かってたら、相内会もぽんぽん手は出さないか。なんせ、仁流会」
規模が違うもんなと笑った。するとバタンとドアの閉まる音に二人して顔を向けると、その車から男が二人降りてきたところだった。
さすがというべきなのか、長身で体格の良い二人は要人のボディーガードと見紛うような出で立ちだ。
明神組がそうなのか、今時の極道がそうなのか、タイトで上品な黒のスーツを身に纏っている。
ああいう男が出てた映画が流行ったなと思いながら、そろそろ戻らないと本気でヤバいと考えたその時、まるで横から何かを叩き付けられたような衝撃と、耳を劈くような音と熱風が雷音達を襲った。
壁に叩き付けられた雷音が次に見たのは、木っ端みじんに吹き飛ばされた車だった。

赤色灯と報道陣、そして野次馬が何事かと規制線の向こう側から覗き込む。
いつもとは違う賑やかさを見せるそこを余所目に、まだキナ臭いなと鼻を啜った雷音は違和感の残る耳を叩いて、その現場に目を向けた。
黒い煤と散らばる車だった物の残骸。まるで映画の1シーンのようなそれは現実のそれで、雷音の目の前で起こった事だ。
だがどこか実感が沸かない。後々、恐怖で蘇ってくるのだろうかと考えていると、肩をポンッと叩かれた。
振り返ると、ホスト志望かと思うような整った顔立ちをした男が”こんばんは”と、悠長に挨拶をしてきた。
「えっと、この店のホスト?」
「あ、はい…」
「ちょっと話聞いてもかまへん?俺、捜査一課の篠田です」
いつからか開いて見せるタイプになったそれを、とりあえずという感じで見せる。そこに納められている写真は制服姿で、今よりもきちんと刑事に見えた。
こんな見た目がホストみたいな男なのに、刑事なのか?職業間違えているだろと顔に出そうになったのをぐっと抑えて、どうぞと言うと篠田は手帳を取り出してペンを持った。
ここは刑事のそれだなと、雷音は眉を上げた。
「BAISERのホストに逢えるとか、俺、ラッキーかも。えっと、名前いい?源氏名も一応」
「楢崎雷音です。源氏名は名前と同じで」
「らいと?」
「雷の、音…です」
「おおー、すげぇ。ええ名前やな。あんたに似合うて。で、楢崎さんは、ここに立っていたと。あそこに車が停まってたことは?」
「知ってました。最近、よく見るんで」
雷音は敢えて明神組のことは言わず、あくまでも無関係を装うためにそう言った。
正直、嘘は得意だ。警察を騙せる自信があるかと言われれば、ある。
ここで相内会や明神組のこと、それと関係を持っている店の事を知られるとマズい。雷音にとってもそれはありがたいことではないので、本気を出させてもらう。
「やっぱり最近、よぉ見るんや。周りの店で聞いても、よぉ見るって聞いてんけど…。で、ここんとこ何かトラブルは?」
「トラブルは付き物ですよ、水商売してるとね」
ふっと笑うと、スゴイ破壊力だなと篠田もつられて笑った。
「BAISERはそういうトラブルの少ない店やって聞くけど、あの車に乗ってた連中に心当たりは?」
「どうでしょう。あまり関わらないようにしているんで」
ですよねぇーという軽い返事に、思わず蛾眉を顰める。この男、本当に刑事だろうか。
ブルーのワイシャツに黒と白のストライプのネクタイ。それはきっちり締められることなく、どこかの素行の悪い学生のように適当に結ばれ垂れている。
他の私服警官であろう人間は、グレーの目立たない色合いのスーツをジャケットまできちんと着て、ネクタイもしっかりと結んでいる。だが、篠田はそのジャケットもない。
確かにジャケットを着るには少し気温が高いかもしれないが、公務員ってこんなんだっけ?と思いながら、そっと篠田のネクタイに手を掛けた。
「え…?」
「こういうのって、怒られないんですか?」
意外なことに、ネクタイはブランド品だった。それも、かなり良い値段の物だ。
彼女からのプレゼントか?と思いながら、では尚更、見れたものではないと指滑りの良いそれを解いた。
「あ、ネクタイ?あー、怒られる。でも、ネクタイって首締められてるみたいやん?」
「締め方が間違ってるんですよ」
昔、基本で習いましたみたいな、プレーンノットの結び方はまるで就活生だ。顔が顔だけに、それでも罷り通りそうで怖い。
篠田のネクタイを結び直していると、周りの刑事が何をしてるんだという怪訝な顔で見てきたが、雷音は特段、気にする事もなく馴れた手つきでそれを結んだ。
「はい、できた」
「えー?」
篠田はスマホを取り出すと、鏡代わりにそれにネクタイを映した。
「おおっ!なんか、シュッとしてる!苦しくない!」
「ハーフ・ウィンザー・ノットっていう結び方です。刑事さんは人に逢う事が多いでしょ?それもマスターしておけばいいですよ」
ニッコリ笑うと、さすがBAISERのホストと篠田は笑った。人懐っこい笑顔を見せながら、男前度あがったやろ?と雷音に言ってくる。
雷音がこうして、言わば他人に距離を縮めて話すことは珍しいことだ。何故か、この男には周りの人間と違う何か親しみやすさがあった。
多分、この男の人間性だろう。
「刑事さん、でかい口の彼女が居るんですね」
「…は?」
「首元に、大きな歯形がね」
雷音が言うと篠田はしばらく動かず、だが、次の瞬間には壊れたおもちゃのようにわたわたと慌てだした。
「いや!そう、あの…!」
ネクタイを締めるときに見えた歯型は、かなり強く噛まれたのか鬱血していた。人の性生活まで踏み込むつもりはないが、篠田の職業でそれは珍しいなと思ったのだ。
「あの!!」
「大丈夫、忘れましたから。俺、何も見てませんから」
ここ一番、いい笑顔でそう言うと、篠田は唇を尖らせた。
「意地悪いなぁ。まぁ…ありがたいけどな。で、あの車の人間には見覚えがないと」
「明神組」
篠田の後ろから囁くような声がして、二人してハッとした。
篠田が振り返ると、そこには万里が煙草を咥えて立っていた。その煙草には火は点けられてはおらず、ただ、ぷっくりとした唇で弄んでいるだけ。
「明神組?」
「お兄はん、4課の人なん?」
万里のそのサングラスに、赤色灯が映り込む。篠田はその万里の独特の雰囲気に息を呑んで、雷音をチラッと見た。
「なに、自分、関係者?つうか、ホスト?」
「顔にこんな傷こさえたホストがおるかいな。お兄はん、俺のこと知らへんの?」
万里は口の端を上げて笑うと、そっとサングラスをズラして篠田の顔を見た。それに篠田は、あっ!と声を出した。
「明神組若頭!?」
「ピンポーン、正解ー。えーっと、篠田…せい、せいち?」
いつの間に拝借したのか、篠田の警察手帳を見て首を傾げた。それに篠田が”ぎゃあ!”と叫んでそれを奪い返した。
「なりとも!ってか、お前、何!?」
「やからー、明神組若頭。俺のとこの車がなんぞなったって聞いたんやけど、派手やのう。なぁ、兄はん」
万里は雷音を見ると、にっこり笑ってみせた。それに雷音はやはりそういうことかと、そうですねと他人行儀の返事をした。
「そないホストのにーさんに何や聞くよりも、俺に聞いたほうが話早いで。やてなぁ、車が爆発しただけで人間は無傷やし、事故ってことでええんやない?」
「あほぬかせ、車の下から爆発物の残骸見つかってるんやし。お怪我なくて良かったですねーで済ませれるか。つうか…明神組かー」
篠田は顔を歪めて頭を掻いた。それに万里は首を傾げて、何?と雷音を見たが、雷音はただ首を振った。
「ああ、悪い。こっちの都合」
「こっちの都合?」
「俺ね、捜査第一課ってとこの刑事なの。でも明神組の車で、明神組の人間が乗ってたって事は…」
「ああ、マル暴に持ってかれるんか」
万里は指を鳴らすと、そうそうと篠田は息を吐いた。
「今はマル暴とは言わんけどね。せっかく、明神組の若頭と逢えたのに」
篠田はぶつぶつ言いながら財布を取り出すと、名刺を1枚抜き出して万里に渡した。
「何かあったら、協力してえな。これも何かの記念でしょ?」
合コンか!とツッコミたくなるそれだったが、そんなフランクなところを気に入ったのか、万里は嫣然と笑い名刺を摘まみ上げた。
その時、篠田の名前を呼ぶ声が聞こえ、篠田はそれに元気に返事をすると、ほな!とまるで友人の別れのように軽い挨拶で呼ばれた方へ走って行ってしまった。
「軽い、人ですね」
思わず言葉にすると、万里があははと笑った。
「俺はああゆータイプのんがええなぁ。うちに来はるんはみんな、今にも頭から齧り付いてきそうなくらいに青筋立った奴ばっかや。何であないな喧嘩上等なんやか。で、自分は怪我ない?ここの、いつもおるでっかい奴は?」
「俺は平気です。美田園っていうんですけどね、あのでっかい人。その人も元気ですよ」
雷音がそう言うと、万里は良かったと安心した顔で笑った。
久々に逢うなと思いながら、ぎゅっと拳を握って、引き寄せそうになる感情を抑えた。
「あの、やっぱ、相内会ですか?」
「え?さぁ、どやろう。うちはこうゆーん少ないわけやないからなぁ」
万里はどこか嘲笑気味に笑って、暇人が多くて困ると呟いた。相変わらず煙草を唇で弄び、木っ端微塵に吹き飛んだ車の残骸の方へ視線を向けている。
こんなことが少なくない訳がない日常が、万里の世界。それに雷音は少なからず胸が痛み、唇をきゅっと結んだ。
「おい、お前、明神万里だろ」
急に不躾な言葉が浴びせられ、雷音と万里はそちらへ顔を向けた。
雷音ほど高くはないが長身で鍛えられた身体だというのは、篠田とはまた違う着崩し方で着る開いたシャツの隙間から見える胸元で分かった。
刑事だろうなというのは、腕に付けた腕章で分かった。篠田も同じ物を付けていたし現場に入っている刑事は皆、同じようにそれを付けているからだ。
男はナチュラルな黒髪で、刑事にしては珍しく襟足が長かった。そして、やはり少し長めの前髪のその隙間から覗く鋭利な刃物のような眼光は、万里に隠す事のない殺意のある視線を向けている。
さすがにここまでの殺意を向けられる理由が分からないのか、万里は少し困惑したような顔で笑った。
「えーっと、初めてよねぇ?」
「お前みたいなクソに、何度も逢ってられねぇ」
いくらなんでも無礼な奴だなと雷音は思ったが、万里は馴れているのか、そうやねぇと眉を上げた。
「てめぇみたいなクソが居るから、こんな事件が起こるんだ。さっさと死んじまえ」
「あらら、酷いこと言うなぁ」
万里が小さく笑うと、それが男の気に障ったのか、万里の首を掴むとBAISERの店の壁にその身体を乱暴に押し付けた。
「おい!!」
雷音は男の腕を掴んで、その間に身体を捩じ込ませようとするが、男の力は容赦のないもので万里の苦しそうな声が耳に入った。
「おい!やめろ!!」
雷音が拳を握ると、その拳をやんわりと誰かに握られた。ハッとして見ると、神原だった。
「離さないと、訴えますよ?」
男の耳元で神原が言うと、男は舌打ちをしてようやく万里の首から手を離した。
本気で絞め上げていたのか、万里は噎せ返りながらその場にしゃがみ込んだ。それを雷音が慌てて背中を擦った。
「こんなこと、刑事だからって許されるのか!」
雷音が怒鳴りつけると男は雷音を鼻で笑うだけで、まるでいい気味だと言わんばかりの蔑んだ目で万里を見下ろした。
「困りますねぇ、仁見ひとみ刑事。こういうことをされると、うちも出るとこ出る事になりますよ?極道っていっても人権はあるんですよ?」
神原はやれやれという感じで肩を落として、男と対峙した。仁見と呼ばれた男は、それでも悪怯れる風もなく外方を向いて笑った。
「お前らに人権なんてあると思ってんのか?ある訳ねぇだろ、お前らはゴミ以下の価値しかねぇよ」
「まぁ、どう思われても結構ですけどね。俺も、てめぇみたいなクソは死ねばええって思ってるからな」
珍しく口調の荒い神原に雷音はギョッとしたが、仁見もそれに苛立ったのか神原に一歩、歩み寄った。だが神原の背後の影に気が付き、ふんと鼻を鳴らしてそれ以上近づく事はなかった。
何かと振り向けば小山内だ。さすがにあの男とはやり合えないかと思っていると、向こうから仁見の名前を叫びながら走ってくる男の姿が見えた。篠田だ。
「仁見ぃぃい!!!てめぇ、また何かしてんなぁぁあ!!!」
篠田は仁見の肩を掴み、そこに踞る万里と雷音を見て、ぎゃあ!と声を上げた。
「お前!!マジでそういうの止めろって!」
「るっせぇ、俺が何をどうしようが勝手だろうが!」
仁見は篠田の手を振りほどくと、こちらへ見向きもせずに立ち去ってしまった。
何だ、あれ。暴君にしても酷すぎるぞと思っていると、万里が小さく小刻みに震えているのが分かった。
まさか泣いているのか?と顔を覗き込むと、それが笑いを堪えているというのが分かり呆気にとられた。
「何あれ、短気にもほどがあるわ。あれ、誰?」
万里は雷音に礼を言うと立ち上がり、ネクタイを外してシャツのボタンを数個開けた。その細い首には赤黒い指の跡が付き、痛々しく見えた。
「仁見 瑠璃王るりお警部補です。組織犯罪対策本部に所属していますが、ちょっと攻撃的で困りますね」
神原は篠田にそう言って笑顔を向けると、篠田はきまり悪そうに頭を下げた。