いろはにほへと

いろはseries


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消毒薬を含む独特の匂い。そして腕に走る小さな痛み。万里は時折くる頭痛のような痛みに顔を歪め、ようやく目を開けた。
白い天井と静かな部屋。ぼんやりとする頭は、自分が今、どういう状況なのかを把握できてはいなかった。気怠さが身体中を襲うことでまた瞑りそうな目をどうにかこじ開け、そして左目が見えないことに気が付き飛び起きた。
「っ…ったぁ!!」
身体中を襲う激痛に思わず身体を丸めた。
「起きたか、アホんだらが」
見ると、広い部屋に置かれたソファに見慣れた顔の男が座っていた。というか、今はあまり逢いたくなかった。
「海里…」
「本当に、お前ってやつは…死ねばええのに」
「いや、目覚めたばっかり」
開口一番がそれかいと思いつつ、まぁ仕方ないかと身体を摩った。
「何度、その点滴に青酸カリを混ぜてやろうかと思ったか」
「おっかないこと言わんといて」
「お前が寝てる間、誰が冬子さんの相手した思うてんねん」
おお、それは…お気の毒にと万里は頭を下げた。
「なぁ、俺、目ぇ見えへんようになったん?」
何よりもそれだった。指先で触れてみると、眼帯に当たった。目を怪我した覚えはないが、見え難くなっていたのは覚えている。
「埃と裂傷、あとは不衛生なところにおったせいで菌が入っとるんや。失明するようなもんはあらへん。相変わらず打撃受けるんだけは得意なんか、骨は異常あらへんかったわ」
神原は立上り万里に近づくと、点滴スタンドを避けて万里の真横に立った。
「え?」
「勝手な真似してくれたな、アホが」
死角になっている左側から言われ、顔を向けようとすると口を手で塞がれ身体を倒され、一瞬で上に乗られた。神原にしては機敏な動きだ。
身体にのし掛かられて、激痛に暴れるが神原は躊躇うことなく抑え込む手に力を入れた。そして腹に隠したドスの柄を握ると、ゆっくりと引き抜いた。
鏡のように磨かれたそれは、万里を睨むように見た。
「お前は、自分の立場を何も分かったあらへん。お前がどれだけの人間を支えてるんか、お前が崩れたら、そいつらも全て失くすっていうことも何も分ってへん」
神原は冷淡な目で万里を見下ろしながら、その刃先を喉元に突き付けた。ちくりと小さな痛みが走った。
「過去にお前が無茶して、どんだけの人間に迷惑かけて、誰が貧乏くじ引いたんか忘れたんか」
万里はぐっと息を呑んだ。
自分が衝動的な行動に出たのは今回が初めてではない。以前にも大きな事件を起こして、そのせいで万里は左目に傷を負った。
そして、そのとき万里の尻拭いをするために、一人の男が組の上層部から外れた。
今回それとはまた形は違えど、こうして神原を憤怒させているのは確かで、万里は息を吐いて目を瞑った。覚悟を決めたそれに、神原が口を塞いだ手を外した。
「…殺りたいんやったらええで。俺は殺られるんやったら、多分、海里にやなって思うてるから」
どこの馬の骨なのか分らないような、それこそ名前も知らないような鉄砲玉に取られるくらいならば、神原に取られるのがいい。
万里は口にせずども常に心の底からそう思っていたし、そうあるべきだと思っていた。
「じゃあ、死ねって言いたいところやけどな。俺は冬子さんに殺されたあらへんからな」
神原はドスを仕舞うと、万里を上から見下ろして息を吐いた。
「また冬子さんにドヤされんぞ。左目の話、医者がしたとき真っ青なっとったからな」
「かーかは心配性やから」
万里が小さく笑うと、部屋をノックする音が聞こえた。そして返事をする間もなくドアが開き、長身の男が入っていた。
「あら、お取り込み中やったかいな。堪忍」
男はそう言って、サングラスをズラしたが万里は何か信じられないものを見るような顔で、男と神原を交互に見た。
「え??え??」
「何や、死人でも見たような顔して。あの甘ったるい顔、もう忘れたんか」
神原は万里の上から降りると、ソファに戻り腰を下ろした。万里は何とか身体を起こすと、入り口に立つ男に蛾眉を顰めた。
より…?」
「久しぶりやなぁ。万里。相変わらずアホなことばっかりやるさかい、海里が禿げる」
「禿げへん」
由は万里に近づくと、髪を撫で、そこに口づけを落とした。長身の由が屈んだことで、首元に下げていた金のクロスのネックレスが顔を出した。
「相変わらず、エロい顔しとんなぁ」
飛鷹 由ひよう より。由は明神組舎弟頭であり、元、若頭補佐だった男だ。
由は極道よりもホストがお似合いと言われるほどに、甘い顔立ちをしていた。
人の目を惹く美しい琥珀色の瞳は、目尻が垂れ温和に見える。それに合わせて彫刻のように高く整った鼻と形の良い唇は、女受けが非常に良かった。
ルーズウェーブのかかったホワイトベージュカラーの髪は、前髪が長めのミディアムで上品にセットされている。
明朗快活な万里と、博学広才な神原、そして明快闊達な由。この三人が明神を束ねて行くのであれば、先は安泰だと万里の父である明神万葉は組長の座を木崎に譲ったのだ。
だが、その安泰である明神組の未来を打ち切ったのは、他の誰でもない、万里だった。
「何で…由が」
万里は動揺を隠せぬままベッドから降りようとしたが、身体が思うように動かず息を吐いた。それに由が眉を上げると、万里に近づくと身体を抱き上げた。
「相変わらず、もやしみたいに軽いなぁ。ちゃんと食わしとるか?」
軽い身体を揺らして神原に顔を向けると、神原は眼鏡を上げて鼻を鳴らした。
「食わしてるわ。肥料を」
「俺は家畜か」
由は万里をベッドに座らすと、スーツのポケットをごそごそ漁りチュッパチャップスを取り出した。それを見て、万里はどこか懐かしさに安堵した。
「相変わらずやん」
「アホ面に拍車がかかる」
「いや、海里、それは酷い」
「なぁ、俺、分かってへんねんけど。なんで由がおんの?」
そう、飛鷹 由は元若頭補佐ではあるが万里の起こした事件の後始末を付ける形で、若頭補佐から舎弟頭に降格されたのだ。
結果、本家や本部に顔を出す事もなく、万里や神原と行動を共にすることすらなくなり、明神組の事務所を回りながら若衆を纏め上げる役割に就いていた。
その男が、何故ここに居るのか。
「アホの始末をつけるために、会長が呼んだんや」
「とーと、親父が?」
「まぁ、俺もほとぼりが冷める迄の舎弟頭やったさかい、丁度ええ頃合いやったんやけどね」
由はにっこり笑うと、ほなとスマホを取り出した。
「これ、今回、万里を助け出してくれた、楢崎雷音くん?」
由はどこかで撮ってきた写真を万里に向けた。万里は、せやと声に出すと頷いた。
「そうや、雷音。あ、なぁ、柴葉はどう?」
「ほんまに、お前は人の話無視か。柴葉はお前同様、大したことあらへんと言いたいけど、そうもいかんな。相当なダメージくろうて、大手術やったわ。生きてたことが不思議やて、医者は言うとった」
お前同様、病室で隔離やと言う神原に万里はぎゅっと拳を握った。
「恨みや」
「は?」
「柴葉の生命線はオヤジの仇取るいう、ただそれだけのために繋がっとる。稲峰を殺るために、あいつは生きとんねん」
「その稲峰はんやけど、姿消しよってなぁ」
由は困ったオッサンやと笑った。
「そりゃ、ここまで派手にしてもうて、姿消すしかないやろ。香港マフィアに囲てもろうてるんやろう」
「その香港マフィアが今回の件から手ぇ引いた」
「は!?」
神原のそれに万里は飛び上がらんばかりに驚き、その衝撃に身体に激痛が走った。
「いたたたた…」
「落ち着け、このあほぅ。まぁ、引かんとあかん事態に陥ったいうんか何ちゅうんか。やから、稲峰には何の後ろ盾もあらへん」
「香港マフィアが、なんで急に手ぇ引いたん…」
「うちは会長が愚息のために動いとるんやけどな」
「…愚息言うな」
万里は唇を尖らせて、神原を見た。
「今回はお前のこと攫ってこんな目に遭わすだけやのうて、香港マフィア仕掛けて明神に噛み付いてきた…。言うなれば、仁流会に総攻撃しかける準備しとったちゅう判断や。せやから、会長が由を呼び戻した」
「なぁ…俺がアホなんは重々承知やけど、あんまりにも展開が早すぎて意味が分からん。何で香港マフィアが急に手ぇ引いて、とーとが動き出して…。何を慌ててねん」
「お前、覚えてへんのか?助け出された時のこと」
神原は目を見張って言うが、明神はうーんと唸るだけ。そして、薄ら靄のかかった記憶を辿りよせる。
「BAISERの雷音がおった…くらいしか。えらい爆発のあとに、雷音が現れて…スーパーマンか何か」
「今回、お前を救出したんは一新一家や。香港マフィアとパイプを持ち、その中でも大きい組織と言われてる龍義ロォンイー会と太い繋がりを持つ一新一家の由良組長が動いた。うちとしても若頭を仁流会以外の組に救い出されたちゅうんは、示しがつかん。結局、由はまたお前の尻拭いに走り回っとるちゅうことや」
ちくりと嫌味を言われるが、そんなことも気が付かないくらいに理解できない。万里は何度も首を振った。
「一新一家が何で…?とーと、ちゅうか一新一家と仁流会にパイプはあらへんはずやで?俺も面識あらへんし」
「面識大有りやってこと」
「…誰が?」
「俺もお前もや」
神原は舌打ちして、あのクソガキと悪態をついた。どういうことだと由を見ると、由は柔らかく笑い先ほど万里に見せたスマホをテーブルに置いた。
「BAISERのNO.1ホストの雷音こと楢崎雷音は、一新一家の人間や」
「…は?はぁー?ないわ、ないない。あるわけあらへんやん。雷音は大の極道嫌いやで?極道に恨み持ってたんに、それがまさかそこの人間なわけあらへん」
万里は大笑いをして由の言葉を一蹴した。雷音は言葉の端々に極道への恨みを含ますような男だった。
相当、極道が嫌いなんだろうなとは思ったが、普通の人間のそれだろうと思っていた。その雷音が極道なわけがない。
「一新一家の由良組長には息子が2人おって、現若頭であるのが由良雨音。これの弟がずいぶん前に行方不明になってるっていうのは、俺も小耳に挟んで知っとった。関東統一連合会にあいつに似た奴を見たような気がしてカマかけてみたけど…。まぁ、その行方不明になっとる人間、その弟の名前が由良雷音」
「由良…、雷音」
万里は思わず息を呑んだ。同じ名前だろうと言うには珍しい名前で、でも、まさかと万里は信じられないと笑った。
「一新一家の…例えばチンピラとかでもなく、若頭の弟って…?あいつが?」
「一新一家は巨大な組織なわりには動きは静かや。傘下組も少ない。やけど、その傘下組どれもが規模がデカい。そのせいで一新一家は仁流会の次に力のある組織や。その組織を纏めてるんが、若頭の由良雨音。その弟が、あのホストや」
「そ、んな…。それ、確かなんか?」
「確かや。誰の情報や思うてんねん。お前の尻拭いしとる、由の情報やぞ」
万里が由を見ると、由は相変わらず笑みを浮かべるだけだった。
由は明神組頭脳と言われる神原の情報源である。その情報は多岐に渡り、調べられないことはないような男。その由の情報なのであれば、確かだと万里は爪を噛んだ。
「雷音は何のためにホストに…?うちの内情、調べるとか?」
「いや、雷音くん、一新一家から逃げ回ってたみたいやで」
「え?逃げ回ってた?」
「苗字も変えて、でも容姿が目立つから夜の商売で金稼いではあちこち転々としてたみたいやねぇ。極力、極道と繋がりのない店を厳選してたみたいで、そのなかでBAISERは良かったんか、長いことおったみたいやけど」
「…今、雷音は?」
「仁流会と一新一家との交流はあらへんってお前も知ってるやろ。その交流のない一新一家が、わざわざ香港マフィアに手ぇ引かせて、お前のこと救いに動いたんや。どれだけ骨折っとる思うてんねん。それなりの代償を払うんが筋やろ」
「代償?」
「由良雷音が楢崎雷音となって、関西に流れてきたんは一新一家から逃れるためや。跡目でモメて、バックれたっていうんが由の報告や」
「跡目て、弟やろう、雷音は」
「弟やけど、今の本妻の子や。兄貴である雨音の母親が抗争に巻き込まれて死んで、妾やった母親が小さい雷音を連れて後妻の籍に就いたと。やから由良雷音と由良雨音、この兄弟、異母兄弟や。それも、あまり良好な関係と言い難い異母兄弟な」
それが原因かもなと、神原は鼻を鳴らした。
「え?代償って」
「楢崎雷音はもうおらんってことや、今おるんは由良雷音。組の幹部として戻るんが、この騒動の幕引きやいうことや」
「そ、そんなんあかん!!」
万里がベッドから出ようとしたその身体を、由が押さえつけた。
「そんな、代償!俺は許さん!」
「せやから、お前は甘い言うたんじゃ!」
神原の怒声が病室に響き、万里が由の腕を掴んだ。
「お前が後先考えずに動いたせいで、会長も、組長も骨折った!由は二度目の尻拭いや!そのうえ、明神組としては一新一家に恥曝す羽目にはった!全部、己がしでかしたことじゃ!」
神原のそれに万里は何も言えず、ただ唇を噛み締めた。由はそれを見て、ぎゅっと万里を抱きしめた。
「俺はこうして万里と海里の元に戻ってこれた、ええきっかけやったから平気」
「甘やかすな、あほ由」
神原は怒りが収まらないとばかりに、舌打ちをしたが万里の頭の中は神原の言葉がぐるぐると回っていた。
いつでもそうだ、何も考えず、その時の感情に流されて行動して結果、全て台無しにしてしまう。
正しいと思った道が間違っていても、そう気が付いた時には戻れないところまできていて、どうにもならない状態になっている。
「万里?」
万里は顔を覗き込んでくる由からズルズルと離れると、ベッドに潜り込んでしまった。
「ほらー、海里が虐めるから」
「黙れ。とりあえず、お前は大人しく寝とけ。由、オヤジに報告に行くぞ」
「へーい、へい。じゃあ、イイコでね」
由は少し見える万里の頭に口づけを落とし、神原と病室を後にした。