いろはにほへと

いろはseries


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屋敷の一番奥、そこに万葉の部屋がある。南向きの和室で、常に心地よい風が流れるような快適さだ。
会長に就任してからは組に多く携わらず、木崎の器量を信じているのか口も出さない。あまりに表舞台に出ないものだから、つい最近では重病説まで仁流会で流れたほどだ。
だが実際のところは重病どころか、ここ最近は酒も止めて朝の早くからジョギングに出るようなことまでやり始めた。そのうち庭で家庭菜園でも始めそうな勢いである。
万里は万葉の部屋の前で静かに深呼吸をした。緊張するような相手ではないが、今回のことは人生で2番目にやり過ぎたかもしれない。
「入ります」
サングラスをスーツの胸ポケットに滑り込ませ、一声掛けて襖を開けると万葉が神棚に手を合わせているところだった。万里は部屋に入ると襖を閉めて、さてどうしたものかと突っ立って居た。
「どないした、座ったらええがな」
万葉は家に居る時は着物で過ごすことが多い。昔、日曜のお父さんのようなスウェット姿で居たのを見た万里が、おじいちゃんみたいだから嫌だと言ったせいだ。
万里は部屋の中央にあるソファセットに腰を下ろした。和室にソファは妙な感じだが、若い時分に抗争で負った足の傷のせいで床に腰を下ろして座るのが難しくなっているのだ。
万葉は万里の前に腰を下ろすと、首を回した。
「最近、肩ぁ凝ってなぁ」
その年を感じさせない首の太さと、しっかりと筋肉のついた肩。厳しい目つきは極道のそれで、出会った頃よりも白さの増した髪はしっかりとセットされている。
目尻の皺の深さは年齢を感じさせるが、木崎が言うには万里が来てから良く笑い良く喋るようになったらしい。
「筋肉つきすぎちゃうの。そないな首しとったら、そりゃ凝るわ」
「えー、ほんまかー?整体行こうかなぁ」
「大城さんに揉んでもらいーな。下手なとこ行ったら、揉み返し来んで」
「大城は痛いねん」
「そこが悪いから痛いねん」
「冬子はもっと痛い」
「かーかは、爪刺してきよるからな」
何、この会話と思いながらも、久々の親子の会話を万里は楽しんだ。
「で、一新一家はどないやった?」
本題やと万里は居住まいを正した。万葉は万里に声を荒らげて怒ることも、ましてや殴るようなことをしたことはなかった。
神原などに言わせると激甘に育てられているというやつだが、万里はそれに驕ることもなく万葉を尊敬し、一目置いているのだ。
「さすが仁流会と唯一喧嘩出来はる組やてゆーだけあって、規模んデカさは計り知れん。由が言うには鬼塚と似たインテリヤクザや。組長にも会うたけど、よおでけた男やった」
「由良か…。鬼塚と関わりがあるらしいけど、俺は6代目の鬼塚はそないに知らへんしなぁ」
「会わんほうがええよ」
万葉が会長に退いてから心が鬼塚組を継いだので、万葉は心とは直接的に面識がなかった。だが、さすがにあれはないだろうと思うだろう。
自分のことを棚に上げるわけではないが、あれはない。
「鬼塚は今の組長になってから急成長や。昔は風俗店やゲーセンやて、それなりに稼ぎは見せるものの大きいとは言えんかった。今の横文字になってもうた会社かて、元は鬼塚建設いう建設会社やったのをほんの数年で大企業に生まれ変わらせよった」
「そら、若頭ん相馬が仕切ってることで6代目は関係あらへん」
「その相馬いうんは挨拶に来よったわ。やけど木崎が言うには鬼塚は会合にも出よらんような出不精な男で、オヤジの顔を立てることもせん昔任侠の人間が聞けば、直ぐ様、破門になるような男やて」
「義理人情ってやつがあらへんねん。任侠道なんて鼻で笑いよるような男やし」
「やけど、自分の立場を分かっとる男や」
万葉の言葉に万里は押し黙った。
若頭という立場にありながら護衛も付けずに動き回り、結果、拉致される羽目になった。そのせいで一新一家には返しきれないほどの借りを作り、恐らく、鬼塚組には当分、頭が上がらない状態だ。
もちろん心がそのことを恩着せがましく言ってくるような男ではないことは万里はよく分かっているが、そうではないのだ。全て、組と組の話なのだ。
心が別にどうでもいいといっても、鬼塚組には借りがあることには変わりはない。自分のせいで明神組は鬼塚組と同じ土俵に立てなくしてしまった。
「ごめんなさい…」
ポツリと万里が零すと、万葉は朗らかに笑った。
明神組から縁を切ってだなんて大きなことを言っていたが、自分の力をどこかで過信していたから今回のことが起こった。
組に何も返せてない、万葉にも何も返せていないことだけに焦って、目の前で起きていることを冷静に見れずにいた。万里は自分の浅慮さに項垂れた。
「万里…話が変わるんやがな」
「ん?」
「日暮さんが、入院したて」
「ほうか…」
日暮とは万里の亡くなった実父の父、すなわち万里の祖父で万里を明神に託した男だった。
「お見舞い、行ってきたらどないや?」
「いや、ええわ」
「万里…」
「俺なぁ、あん時から明神の人間やて思うとる」
「当たり前や、お前は俺の息子や」
「ほんならそれでええやん。そもそも…何年ぶりよ。あれから逢うてへんやん。俺がお見舞いになんか行ってみぃな、心臓発作起こして死によるわ」
「お前がええならそれでええけどな」
肩を落とした万葉を見て、万里は身を乗り出した。
「かーかと話した?」
万里の焦り具合に万葉は眉尻を下げて笑った。
「残念やけどなぁ、今回は由も勝手なことしよったから、怒りモードはマックスやで」
「…ほんまか。よし、ほな由と怒られてこよう」
「由はどうせ車酔いしたんやろ」
「ああ、うん、かーかに車に酔った言うてた」
「ほな、今や!」
万里もハッとして、万葉にとりあえず言って来るわ!と部屋を飛び出した。
由は万里同様、万葉と冬子に息子のように可愛がられてきた男だ。そもそも由は宗近が拾って来たのだが子供が子供を育てれるわけがなく、冬子が育てたのだ。
その由が車に弱いことも知っているし、そうなった時はやはり付きっ切りで看病するのだ。

屋敷の西側にある部屋に向かうと、襖が乱暴に開いて冬子が飛び出して来た。万里がギョッとすると、冬子は万里を見つけるやいなやバケツ!と叫んだ。
ああ、これは派手にやってるやつかと万里は風呂場に急ぎ、バケツを取って部屋に戻った。
案の定、由はバケツを手にするや否や、派手に嘔吐した。
「新幹線で戻ってこられへんかったん?あんたも一緒やったんに」
「由がへっちゃらやて言うたから」
「ほら、由、水飲みなさい」
冬子は由の背中を撫りながら、水の入ったコップを口元に運んだ。由はそれを何とか口に含んだが、また嘔吐した。
「海里は?」
「先生迎えに行く言うてたわ。この子、診てもらわんと」
「かーか、由の着替えとか用意してぇな。俺、替わるさかい」
「ああ、ほんまやね。あ、万里、横向かせといてよ。仰向けにしたら詰まってしまうから」
はいはいと返事をしながら、由を布団に転がしシャツを器用に脱がし始めた。
「万里…」
「はいはい、ここにおるで。堪忍な。長い距離、頑張ったんやね」
「寝とったらいけると思ったんやけど…」
「ええから、もうちょっとしたらセンセ来るさかい、もうちょっとの辛抱やで」
スラックスも脱がしたところで冬子がスウェットを持って現れた。その顔は極道の妻なのではなく、息子を案じる母の顔だ。
「どない?」
「うーん、あんまよぉないなぁ」
冬子からスウェットを受け取り、決して小柄ではない由に器用に着せていく。昔は苦労したが、こうしたことが度々あると、コツを掴んでくるものだ。
「姐さん、藤浪先生来はりました」
襖の向こうから舎弟の声がして、冬子はホッとした顔を見せ急いで襖を開けた。すると白衣の初老の男が立っていて、お邪魔やでなんて軽く言うと部屋に入って来た。
「おーおー、派手にやっとんなぁ。由、どないやー?」
白髪の男が手を出すと、後ろに一緒に着いて入って来たナースウェアの女がカバンから聴診器を取り出した。藤浪はそれを受け取ると、布団を剥がした由の顔を覗き込んでからスウェットの中に聴診器を差し込んだ。
「詰まってるとかはなさそうやなぁ。万里も由を車乗せるんはやめぇ」
「すんまへん」
昔から組に出入りしている専属医の藤浪にとって、万里も由も海里でさえも孫同然。なので藤浪に頭が上がらない万里は、とりあえずの謝罪を口にした。
「点滴しよか。脱水症状起こしとるわ。どうせ水も飲まれへんのやろ。どっから帰って来てん」
「あー、関東から」
「はぁ、お前なぁ。由を殺す気か」
「せやかて、由が寝てたらいけるて」
「あほう、そんなわけあるかい」
藤浪はぶつくさ文句を垂れながら看護師が用意した注射針を由の腕に差し込んだ。看護師は折りたたみ式の点滴スタンドを手際よく組み立てて、点滴のパックをセットしていく。
いつも藤浪と共に来るが、美人だがにこりともしない人形のような女だ。
「これであとは寝て治すしかあらへんな。起きて腹減った言うたら、消化のええもん食わせたり」
「先生、おおきに」
冬子と二人して頭を下げた。
片付けをしていると、舎弟が藤浪を迎えに来た。酒の席を用意しているのだ。
藤浪はいつもそこで万葉との話を肴に酒を飲むが、看護師の女は藤浪の荷物を持って先に帰っていくのだ。
「あ、かーか、ちょっとええやろうか」
冬子もそれに付いて行こうとしたので万里が呼び止めると、冬子は万里を手招きした。

「子供は女でも男でも、明神の家に生まれたら不幸やなぁって思うたわ。なんせ極道や、普通の暮らしは難しいうえに陰口は当たり前や。もしかしたら虐められとったかもしらん。宗政は一度でもそんなん言うたことあらへんけどな。あんたも、由も」
部屋に入った瞬間にそう言われ、万里は思わず固まった。冬子のそれをどう受け取っていいのか分からなかったのだ。
冬子が座布団に腰を下ろしたので、万里はその向かいに腰を下ろした。
「小さい頃は泣き虫やった宗政も大きぃなったらそれらしくなって、うちのんも組を継がせるんに躍起になっとた。海里の父親も現役で、イケイケの組が極道引っ張ってる時期やったさかいねぇ。ほんでようやく仁流会の幹部として入り込むことも出来たときに宗政が由をどっからか拾うてきたんや。子供が子供育てるんかて言うたんやけど、誰に似たんか一回言うたら聞きやせん。由は素性が知れんまんまやし、今はあんな大きいけど年の割に小さい子でビクビクしよったん覚えてるわぁ。それがまぁ、よぉ育って育って。育っても小さい頃にされたことのせいで、未だに人が運転する車にも乗られへんであの有様。何歳なっても子供は子供やのに、肝心の子供は親の心配なんかそっちのけや」
「み、耳が痛い話です」
冬子にギロッと睨まれ、万里は頭を掻いた。
「宗政が死んでもうて、うちには由しか残ってへんのに由は極道の道に進もうとしてもうてる。どないしたらええんやと思うてたら、あんたが来てくれた。うちのんも由も海里も万里も危ない目に遭わすんは言うてたんに、ある日あんたの目ぇが赤なった!!」
「は、はい」
「ほんで結局、全員が組員や…。揃いも揃って全員が!!うちが育ててんのは極道ばっかりや!4人とも!!」
積もり積もった鬱憤が次から次へと出てきているようだと、万里は背を正した。
それから止まらなくなった冬子は、由と海里に対してまで文句を言い出した。年齢的に長男は海里だ。三男である万里が全員への文句を聞くのは腑に落ちないこともないが、それを言えるわけもなく万里はただただ冬子の気が済むまで付き合うことにした。