いろはにほへと

いろはseries


- 8 -

「おい、雷音。てめぇ、今日、花梨と話してるとき上の空やったなぁ」
営業が終わり、黒服がホールを片付けているなか、雷音達ホストは奥の休憩室でミーティングをしていた。
営業後のミーティングと反省会は恒例で、その中央に王様の様に鎮座する蓮は、雷音達ホストを貶し叱咤することはあっても激励して褒め讃えることはしない。営業後のこれは、ほぼ蓮の小言を聞く会だ。
そして雷音の余所見を知っているということは、奥のオーナールームで所々に仕掛けられている店内カメラをチェックしていたのだろう。
抜かりの無さは人一倍。サボるなんてもってのほか。
「上の空っていうわけじゃないよ」
雷音が言うと、蓮は安曇が喜色満面の笑みを浮かべながらノートパソコンに打ち込む売り上げを眺めながらジロリと睨んでくる。
それに雷音は空笑いをしたが、蓮はそれを舌打ちした。
「ざけんな、ボケ。花梨だけでも月にどれほどのん落としていく思うてんねん。腐ってもナンバー1やったら、ナンバー1としての仕事きっちりせぇ!次、そないなことしくさったら罰金じゃ」
「マジで」
「安曇」
雷音の抗議は綺麗にスルーして、蓮はBAISERの金庫番の安曇を呼んだ。安曇はそれに返事をする事も無く、パソコンのキーを凄まじいスピードで打つ。
BAISERの中で飛び抜けて異質で異色な安曇はホストの間でも不人気だ。
美形…と言われればそう。イケメンと言われればそう。
長身でスタイリッシュ。長い黒髪を後ろ手で纏めて、ホストでも食べて行けそうな男は気さくに話しかけるとフル無視する。
気さくさがいけなかったのかと敬語で話しかけても、高圧的に話しかけてもフル無視してくる、コミュニケーション障害な男。というよりも怯えている印象。
その外見には不適当なその性格がトラブルを起こす事も多々あるが、その度に泣きそうな顔を見せるのだから救い様がない。
ただのヘタレか何なのか。そんな男は金を手にすると、今までの安曇はどこへ行ったとばかりに豹変する。
饒舌になり、客に対しても必要最低限のもてなしをして、会話まで出来る。
安曇 桐あずみ きりはBAISERの七不思議の一つだ。
「あー、出た出た。えーっと、今日の売り上げは雷音がトップ。2位は…砂羽。あーっと、ルートは今日は休みやな」
「蓮さん、奏大、どうしたの?」
「あ?有給」
雷音の問いかけに蓮はそう短く答えた。
BAISERには、というよりもこの業界に有給制度がある訳が無い。それを敢えて言うということは、それ以上聞くなということだ。
奏大はたまに、こうして休みを取る事がある。それがどうしてなのか、雷音も、そして他のホストも聞く事は無い。夜に生きる人間の暗黙のルールだ。
「じゃ、今日も1日お疲れさん」
蓮の唯一の労いの言葉に、全員で頭を下げ号令のような”お疲れ様でした!”を言った。
それが終わると、あとはもう自由時間だ。それぞれが適当に寛いだり帰り支度に勤しんだりと、疲れた身体を癒し始める。
休憩室のバーカウンターにあるドリンク類は基本、無償だ。適当に酒を引っかける者も入れば、コックが作って置いている鍋のスープを温めだしたりと、長居する者も多い。
雷音も奏大が居れば無理矢理にその場に居させられるが、奏大が居ない時はすぐに店を出る。
雷音が帰るのに気が付いたホスト達は一斉に頭を下げ、雷音はそれに手を挙げた。

裏口から外に出ると、今までの喧噪さが嘘の様に静かだ。だが、これも数時間だけ。
あっという間に日が昇り、燦々とした太陽の下での賑やかさが街を包む。そしてまた、夜が来る。
当たり前で、どこか退屈な日々。
その退屈を悪いとは思わない。雷音はこの退屈な日々をずっと切望していたのだ。
大通りに出てスッと手を挙げると、雷音の前にタクシーが停まった。すぐに捕まってラッキーだと思いながら自動で開けられたドアに促されるように後部座席から乗り込むと、白髪混じりの人の良さそうな運転手が”お疲れ様です”と言った。
お疲れ様はそっちだろと思いながら、雷音は”どうも”と言って行き先を告げた。
雷音はスーツのポケットから黒のスマホを取り出して、数多く来ているメールをチェックする。
店専用のそれはメールも全て客からのもので、雷音は一通り目を通すと電源を落とした。そしてそれをポケットに仕舞うと、胸ポケットから同じ機種のスマホを取り出し電源を入れた。
プライベート用のスマホはメールも着信もなかった。それもそのはず、プライベート用は蓮や奏大以外は知り得ないからだ。
そしてその数少ないメモリーの中、異色の人物ー万里。雷音は万里のメモリーを呼び出すと、ぼんやり眺め、そして画面を消した。
万里と最後に逢ってから3ヶ月。貰った名刺のメルアドに連絡先を入れてから3ヶ月。
ようは音沙汰なしになって3ヶ月だ。
極道のトラブルが簡単に片付くものだとは思ってはいないが、あまりに音沙汰がなく腹が立つ。心配より腹立たしさ。
トラブルと言われてから音沙汰がなくなれば、もしかしてと考え無意識に新聞をチェックしてしまい、そんな自分の行動が苛立つのだ。
関わりたくないのに、ズブズブと万里との関係は深くなっている。男女の関係じゃない、男同士という公言できない関係な上にホストと極道。
笑いの種にしかならないうえに、万里の立場を思えば強請のネタになる可能性もある。
明神組の若頭が女だなんて、かっこうのネタだ。ただでさえ、万里の容姿は目を引く。
それはあの涙の様な傷然り、真紅の瞳然り。
極めつけは妖艶さも醸し出す雰囲気。思わず飲まれそうな、色香漂う万里の相手がホスト。
マイナスにはなってもプラスにはならない。
「あんな容姿で武闘派とか」
出来るのか?思わず独り言を呟いたが、仕事柄慣れているのか運転手は気にする事もない。
「着きましたよ」
ほどなくしてタクシーの運転手に言われ、ああっと頷いた。疲れていると思ってか、雷音に無駄な世間話をすることなく放っておいてくれた運転手に多めの支払いをする。
「これで何か、美味しいもの食べて」
雷音が言うと、運転手は丁寧に頭を下げた。

マンションまで少しだけの距離を歩く。
雷音の足は専らタクシーだ。電車は乗らないし車は持っていない。自分の足で行ける距離なら、歩いて行動することも多々ある。
雷音の収入があれば最高級のランクの車が買えるだろうが、雷音は敢えてそれをしようとはしない。
大通りから入っていって、住宅街を行ったところに雷音の住むマンションはある。一戸建ちの家が多いこの近辺では、一番背の高い建物。
第一種低層住居専用地域という特種地帯に建つ低層マンションは、地下1階、地上3階建てで赤いレンガ造りの洒落たマンションだった。
エントランスまでそのマンションのシンボルツリーが立ち並び、雷音を迎える。
ふんわりとした柔らかい灯りの灯るポーチでロックのかかったドアを暗証番号を打ち込み、専用のキーを差し込んで開ける。
急いでいるときなどは面倒なシステムだが、高いセキュリティとワンフロアに三部屋という他人とあまり介せないということが気に入っている。
だがここも雷音の持ち物ではなく、蓮の持ち物だ。
雷音は正面のドアを開いた向こう側にまだあるロックの掛かった自動ドアをまた暗証番号を入力して開けるとエレベーターに乗り、目的の階を押した。
明日は珍しく休みだ。1日ゆっくりするか買い物に出るか、ぼんやり考えている間にエレベーターは雷音の部屋の階に辿り着いた。
一番奥の部屋へ向かい、シリンダーキーを差し込みドアを開けたときに雷音は違和感を覚えた。
キーを玄関ポーチにある棚に置いて靴を脱ぐと、ゆっくり部屋に入り込む。
長い廊下を進んでリビングのドアを少しだけ開けてみる。ドアに嵌め込んである磨りガラスにも映り込んでいるが、勿論、中は暗闇。真っ暗だ。
ドアを軽く指で押して隙間を開け、猫が忍び込むようにリビングに滑り込み、あたりを警戒すると背後に気配を感じ咄嗟にそれを掴むと床に叩きつけた。
「…いたっ!」
「誰だ、貴様」
首と思しきとこに指を食い込ませながら、反対の手でスーツのポケットからジッポを取り出し火を点け、愕然とした。
「お、お前!?」
「お帰りぃ」
ヘラッと笑われ、開いた口が塞がらない。
「あちっ」
思わず近くに近づけすぎたせいか、万里が顔を顰め雷音が慌ててジッポの火を消して部屋の電気を点けた。
「な、何してんだ!」
床に転がったままの万里に声を荒らげ、だが、その状態に気が付き蛾眉を顰めた。
「…な、どうしたんだ」
万里は、いつも着ているスーツではなくTシャツにジーパンという姿。その姿がベビーフェイスに更に拍車をかけていて、見た目はまるで高校生だ。
だが雷音が驚いたのはそこではない。万里の顔だ。綺麗な顔はアザだらけで、Tシャツから覗く腕は包帯や傷だらけという見るも無惨な状態。
「久々やなぁ」
「久々って!何だよ、それ!」
「んー。あんたの一発が効いた。抱っこ」
「はぁ?」
息巻く雷音とは正反対に万里は気怠げに腕を伸ばす。雷音はその姿にすっかり意気消沈して、息を吐く。
そして万里を抱き上げると、部屋の奥の長ソファーに寝かせた。
広いリビングに置かれたソファセット。万里が寝転がるソファはソファベッドにもなるほどで、ゆったりと座れる。その向かいの、やはりゆったりとした大きさの一人用のソファには見覚えのないボストンバッグが置かれていた。
「こん部屋広いなぁ。めっちゃええ感じ」
キッチンとバーカウンターとリビング。広さは20帖で、デザイナーズ・リビングのせいかゆったりとした空間が多い。
ソファーセットから垂直に行ったところには敷居を高くした和室ががあり、和室を出た奥横にはロールカーテンで仕切られた空間があり、キングサイズのベッドが置かれている。
壁もドアもない部屋は突き抜けた広さがあり、更には壁側が全面窓ということもあって、解放感のある部屋だった。
「部屋はいい、何があったんですか?」
自分の持ち物でもない部屋をどうこう言われても、何とも思わない。それよりも明神組の若頭ともあろう人間が何という有様だ。
雷音はスーツのジャケットを脱いで、万里の足元付近に腰を下ろした。
「…しくじってん」
「は?誰が?」
「下っぱ。ジャンキー相手かと思ったら、余所者でなぁ。ヤられよってん。余所者はわや苦茶しやがる」
「余所者って…外国人ってこと?」
「あんた…格闘技してんのか?えらい綺麗に俺捩じ伏せて急所押さえて、落ちるか思った。あへんに綺麗に転がされたん初めてやわ」
「咄嗟だよ…。ん?ってか、お前どうやって入った!?」
マンションの正面玄関はディンプルシリンダーキーでの解錠が必要で、その正面玄関のキーと部屋のキーは別物だ。部屋の鍵に至ってはマルティロックという世界最強の鍵と謳われる代物で部屋を守っている。
その厳重とも呼べるセキュリティを、この男はどうやって破ったのか。雷音は思わず部屋の窓を見渡した。
「窓は…破ってないな。どうやって入ったんですか?」
「…俺、極道やもん」
「は!?何言ってんだよ!大体、あんた、それって抗争中ってやつじゃないの?なら、組にでも居ればいいでしょう?護衛も居るんだし!何でここに!?」
「安全牌やろ?今、島んなか大変でなぁ。余所者はん、かなり殺ったさかい俺を血眼になって探しとる」
「は…?」
「イケイケやさかいね、明神は。で、わや苦茶してくれたさかいに落とし前つけにな、俺が一人で乗り込んで暴れたった。あいつら、こっちのルールフル無視してやりたい放題や。女運んできて日本の男と結婚して戸籍もろうたら、次は人の島で荒稼ぎや」
「いくらイケイケでも…余所者相手なら、仁流会総出でかかればいいじゃないですか」
部屋にどうやって入ったのか分からず、尚且つ、抗争真っただ中で逃げ込まれてきて雷音は頭を抱えた。
ルール無用はあんただろうと言いたいところだ。
「仁流会総出なんかして、オヤジの顔潰す訳いかん。ここは明神の島や。明神が片すん当たり前やろ」
いつもはヘラヘラして掴み所のない万里の目がぐっと厳しくなった。
明神組若頭の明神万里の真の顔を見たような気がして、雷音は息を飲んだ。だが、すぐにいつもの万里の顔に戻り、平らな腹を擦った。
「なぁ、雷音、お腹空いたわ」
「は?」
「さすがに五日もろくに食べへんやったら、お腹空くわ」
「冷蔵庫、開ければ良かったでしょう。何かありますよ」
「そんなん、人様の家の冷蔵庫を?」
「勝手に家に入っといてか」
冷蔵庫と家、主の許可なく入り込んでもまだ良心が許せるのはどっちだ。
雷音はネクタイを解いてジャケットの上に滑らせると、キッチンに向かった。
「アレルギーはあるんですか?」
「あー、葱があかん。やて好き嫌いはあらへん」
「え?意外」
「親父が厳しい人間でなぁ。好き嫌いは堪忍してもらえんやった」
「そんな躾しながら極道に育ててちゃ、本末転倒ですよ」
「出た、雷音のヤクザ嫌い」
万里は笑いながらソファーに置いてあるクッションを胸元に抱いた。
起き上がってこないとこをみると、かなり傷が痛むのだろう。笑いながらも顔が時折引きつっている。
「パスタでいいですか?スープパスタ」
「お、パスタ。ええねぇ」
「ま、出来るまでゆっくりしててください」
BAISERの一流ホストであるためには、健康管理ならびに美容管理も怠ることなかれ。
エステにヨガに美容院にネイルサロン。人それぞれあるだろうが、雷音は食事管理でそれを補う。
外食はほとんどせずに、自炊。カロリーや栄養バランスを計算して、どんな無茶苦茶な接待をした後でもそれを残さない。
外見だけ磨いても出せないそれだと、雷音は自負している。

「え?スープパスタってこないなんやった?」
ソファの前の木製のセンターテーブルにドンと置かれたスープパスタに、万里は首を傾げた。どうやら想像と違っていた様だ。
「芽キャベツと玉ねぎにじゃがいも、ブロッコリーとレンズ豆が入ってます」
どこかのコックの様に説明をしながら、グラスにミネラルウォーターを注ぐ。万里は大きな目を丸くしながら、雷音のお手製スープパスタを見つめた。
「レンズ豆?豆?」
「栄養ある豆ですよ」
「はぁ、そない?ほな、もらうで。いただきます」
きちんと手を合わせて頭を下げる。そして恐る恐る一口食べて、眉をあげた。
「うまっ!」
「ああ、良かった。人に食べさせたことないんで」
「そない?めちゃくちゃ美味しいで?」
「ええ、食べさせる機会がなかったんでね。だって、他人を家にあげたこともありませんから」
チクリ、嫌味を言うと万里はフフッと笑った。
「まあまあ、そへんなこと言わんと。せやなぁ…。極道もんや思わんと、連れや思うてくれへん?」
「俺の許可なく家に入り込む連れなんて居ませんから」
「かなん子やなぁ」
万里はそう言うと、また笑って料理を黙々と食べ出した。