饗宴

いろはseries 番篇


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乾いた音が響く。汗臭さと砂埃。雨が降っているわけでもないのに、湿気臭さも感じる。神原海里は不快さを隠すことなく顔に出し、中を見渡した。
明神組の経営するジム。表向きは総合格闘塾という名で未来の格闘家を養う健全なジムだが、実際は…。
神原はあちこちに屍のように転がる屈強な男達を横目で見て、ジム内で唯一のベンチに腰掛ける男の隣に腰を下ろした。
男は神原の記憶が正しければ今年で齢70を過ぎた頃。だが、その年を微塵も感じさせないほどに双眸は鋭く、しっかりと前を見据える。そして、曲がりのない背はピンと伸び、剃り上げられた頭は触り心地がよさそうだった。
「神原ぁ、あれ、くれや」
神原の方を見ずに、不躾に言い放つ男に神原はただ笑った。あれ、それは男が見据える先で自分よりもひと回りもふた回りも大きな男を次々となぎ倒す、あれのことだろう。
明神万里。明神組若頭である。その容姿からは想像がつかないほどに万里の格闘能力は高い。柔術だとかジークンドーの類いの格闘技で頂点を極めた男達を、我流と思しきそれで倒す。
万里にはまず絞め技は通用しない。まるで蛇の様にすり抜けて、あっという間に正転逆転の状態に持ち込まれ、気付いた時には落ちているので絞め技は反対に危険なのだ。
では打撃はといえば、これまた持って生まれた身体能力の高さで綺麗に交わすのだ。もし、当たったとしてもその華奢とも見れる身体は、打撃をスポンジのように吸収してしまう。
これもまた万里が自然に身につけたもので、打撃を受けた時にそれを吸収する体勢を心得ているのだ。
「南條さん、塾生の力を試すためにあれを呼び出すの、やめてもらえますか?」
「ええ力試しになるやろう?万里もよぉ」
「力試しってねぇ。選手に怪我さしても知りませんよ。何せ、あれはアホやから加減とか知らんもんで」
見た目同様、放埒で軽薄な万里は、一流選手だからとか先輩だとか目上の人だとかの遠慮も常識も一切合切欠けている。やれと言われたので全力でやりました。まさに本能のまま行動するのだ。
それを長年付き合いのある南條が知らない訳も無い。一流選手相手に何を考えているのか、神原は南條の底意地の悪さを鼻で笑った。
一見、女の様な容姿。細身で華奢な身体は出逢った頃から変わらず、食べても太らない体質のまま。筋肉が尽き易い身体というわけでもないし、骨が太い訳でもない。格闘には不向きにも思える。
そんな万里を相手に為す術も無くマットに沈まされるなんて、格闘を生業としている塾生からすれば屈辱この上ないことだろう。
「格闘技もなぁ、TVのゴールデンでやるには盛り上がりにかけるちゅうてなぁ。ほれ今は何や、格闘家もアイドルみたいにキャーキャー言われなあかんやろ。万里やったらもってこいや」
「キャーキャーって違う意味でキャーキャー言われますよ。目の赤い人間なんて、滅多に居ないし気味悪がられて5chとSNSで曝し上げられる」
「格闘技は5チャンネルちゃうぞ。最近はボクシングの類いしか放送もしてくれん」
ああ、この辺は年寄りか。そりゃそうかと、神原は目の前で生き生きと跳ね回る万里を眺めた。
「あ、ああいうのが良いなら一人居ますよ。京都にね。うんうん。容姿も似とる」
「万里くらいに強なかったらあかんぞ」
「強いですよ。多分、あれより」
「はぁ?」
「御園っていう男なんですけどね」
神原がくつくつ笑うと、南條が毛のない顎を擦った。
「御園…御園斎門か」
「なんや、知ってるんですか」
さすが格闘技界のドン。その権力と威厳は格闘技と分類されるものであれば、全てに有効と言ってもいいほどに強い。
それは長年、格闘技界を支えてきた業績があってこそだが、まさか御園を知っているとは驚きだ。
「御園って…そんな大きな大会出てましたか?」
「ああ、全国空手道選手権大会」
「ああ…」
「中学生の部」
「ああ…」
その頃ならば表舞台に居てもおかしくはないか。確か、御園と眞澄が出逢ったのは高校の頃と聞いた事がある。
まさに御園の歯車が狂い始めた事…。いや、正確には本来居るべき場所に戻った頃と言うべきか。
「あないに綺麗に技極める男は初めてや。しかも中学生。全部後ろ回し蹴り、秒殺の一本勝ち。それで来るって分かってんのに誰も対処出来ずや」
「へぇ、派手やねぇ」
見た目に違って派手な勝ち方だと意外性に驚く。万里ならば分かるが、御園はそういうタイプではないと思ったからだ。
「あのまんまか」
「強さですか?中身ですか?」
「中身」
「まんまです」
「ほなあかん」
「あー、やっぱり」
神原は眉を上げて笑った。
「あん男はなぁ、恐ろしゅう強い男やった。せやけど、ほんまにやる気ちゅうんか気力ちゅうんか、気が全身から欠落してる欠陥品や」
「うわー、ひどい言い様」
「やて、そうじゃろうが。あないに気の欠落してる格闘家、初めて見たで。負けた選手が気の毒になるくらいや」
まぁ、確かにそうだと同感する。鬼頭組の若頭補佐の御園斎門。鬼頭組の若頭である鬼頭眞澄の右腕で、仁流会では五本の指に入るほどにその能力は高い。
優男のような外見。ゆったりとしている物腰のせいか、いつまで経っても見た目は大学生のようにも見える。癖のある京弁は御園に似合っていて、他の言葉を喋る御園を想像出来ないほどだ。
一応は若頭である眞澄の右腕で、弾除けの役割も担っているはずだが御園が外に出てくる事はあまりない。勿論、言うまでもなく、”誰か”のせいだ。
だが格闘能力の高さは幼い頃から培われてきたもので、数々の実績を残していたので業界で御園の腕を知らない者は居ない。
しかし、その輝かしい実績も水の泡になるほどに、御園斎門という男には”気”が欠落しているのだ。
それはやる気、気力、生気。全てにおいての”気”だ。その欠落も手伝って軟体動物みたいにふにゃふにゃしているような、そんな印象が御園にはある。
「顔は良くても、あれやったらあかんなぁ」
「ああ、なら、もう一人居ますよ。長身だし、顔もいい。無愛想だけど、何より、あれが負ける」
「万里がか?」
南條は少しだけ驚いた顔で神原を見た。その衰えの感じさせない双眸からは、少しばかり輝きさえ伺える。
「少女のような目で見ないで下さいよ。本当ですよ、何せ、あの万里が膝をついた。たった一発で」
「何!?」
「10日くらい、腹の痣が消えなくてあれの機嫌が悪くて困りましたけどね。そうそう、居る居る」
「年はいくつや?」
「若いですよ、あれより…5歳くらい下だったような気がする」
「名前は?」
「心です」
「心?心…まさか、鬼塚心か」
「ご存知で」
南條はハーッと息を吐いて、万里の方へ視線を戻した。
「鬼塚組の鬼塚心やろうが。ワシも逢うた事あれへんけどなぁ、ちょっと伝手であそこの佐野ちゅう男と近い人間と顔見知りになってなぁ。あれはあかん。お前ら、ほんまに同じ会派で良かったのぉ」
「これはまた、南條さんらしくない台詞だ」
神原が笑っていると目の前に影が出来た。ハッと前を見ると汗まみれの万里が居て、神原は慌てて逃げようとしたが間に合わずにその膝の上に対面で万里が腰を下ろした。
「きっ…!!!汚ねぇ!!!」
「はー、おっちゃん。あれ、誰やっけ?グリズリーみたいな男」
神原がじたばた暴れるが、万里も南條もお構い無しに会話を続ける。そして神原が暴れるものだから、万里は膝から落ちまいと神原の首に腕を回してきた。その瞬間、うぎゃっ!と声を上げる。ぬるっとした感触に肌が粟立つ。
「グリズリー?ああ、アベニューか」
「そうそう、あの外人君。折角、ええ身体してええ筋肉持っとんのに、左ガードの時に右下ガラガラになる。腹の打撃に弱過ぎて、一発で血反吐出す勢いや。あらどないにかしいひんと宝ん持ち腐れや。ほんで、あの鉄人、えーっと名前忘れた。アイツは筋肉ばっか立派で柔軟性がない。絞められたときに力で逃げようともがいてばっかや。もがけばもがくほど絞め易くなるってこと分かってへん」
「ほう、なるほどなぁ。よしよし」
南條は顎を撫でながら目を細くした。
きっと、脳内で明日からの地獄の特訓メニューでも組み立てているのだろう。組み手をした万里からの的確な指示に、南條はこれまでになく生き生きとした表情を見せた。
「で?神原、今日はどないしたん?俺、オフやったやんな?」
対面に座り、膝の上で首を傾げた万里の後頭部を思いっきり叩く。軽い音がして、やっぱり中身は空っぽかと確信する。
「痛い!!!」
「てめぇにオフなんかある訳ないやろうが。今日は出向や」
「キャバはもうええわ。あ、おっちゃん行かへん?」
「阿呆、ワシに女相手出来る気力なんか残っとりゃせんわ。射精と同時にあの世逝きじゃ」
「嘘、それって腹上死やん!男あこがれの!」
叩かれても尚、相変わらず神原の上に乗り、首に腕を回してゆらゆら揺れる万里の頭をもう一発叩く。万里は痛い!と神原を睨むが、それでも退こうとしなかった。
「神原、お前も格闘技せぇや」
「ご冗談を。コイツみたいにアホになりたくないんで」
「うわ!ひっど!俺、一応あんたん上司やんに、そんけーするって言葉知らんのか」
「敬ってもらえる人間か、お前が。大体、俺は本当の事を言ったまでや。おい、早う降りろ。シャワー浴びて用意せぇ」
「どこ行くん?」
「BAISERっていう店や。そこのオーナーの蓮って男が一度来て下さいってよ」
神原の話を聞きながら、万里は膝の上から降りて腰を回す。ポキポキと骨の鳴る音が響いた。あれだけ動いたのに力半分というところか。
「あそのこ黒服、ええのんおるんやぞ」
「南條さん…」
格闘馬鹿にさすがに呆れる。ところ構わず、誰彼構わず声を掛けてやしないかと畏怖するほどだ。
「しゃーないなぁ、行ったるわ。やて、そん前にそーじな、そーじ」
万里は来ていたTシャツを脱いで神原に投げると、シャワー室に走って行った。どうやらまだまだ元気が有り余っているようだ。というより、組み手のせいでアドレナリンが放出されたのか。
「やっぱり、アホですねぇ」
「あ?アホか?でも、あの強さがなかったら、うちのシャワー室ですぐに掘られてまいよんで」
「掘られて大人しくなるなら外で見張ってますよ。やけどあれ、ほんまにアホですから、気持ちええならエエかなぁとか言いかねん」
欲望の赴くまま、それこそ後先考えずに突っ走る暴走車のような万里。その子守りの気苦労は計り知れない。
そのうち精神的にヤラれてハゲるかもしれないと、綺麗に禿げ上がった南條の頭を見る。
「お前も大変やのぉ。そういえば神原、掃除ってなんや?明神組はクリーン運動でもしとるんか」
「まぁ、そうですね。クリーン運動ですねぇ。人間の」
「ああ、そういうことか」
南條はヒヒヒッと笑った。
そして、これから2時間後、万里は楢崎雷音と出逢う事になるのだ。