いろはseries 番篇


- 1 -

神原は男の振り下ろす拳を見ていた。あれは、まさしく凶器だと思う。鉛のように重く硬い凶器。上から叩き落とされれば血反吐を吐いて悶絶する。
弱い箇所を見抜いて、一発で骨を砕く。
「さすがやね」
神原はぽつり、呟いた。周りはくんずほぐれつの大乱闘が繰り広げられているのに、神原の周りだけが静寂だ。
ふと、凭れかかった車を見た。バンパーが大きく凹んでいる。ぶつけられた衝撃でフェンダーも飛んでいた。
「廃車か」
気に入ってたのになと煙草を咥えて火を点けた。明日は雨なのか、夜空はどんよりとしていて月は雲隠れしているようだ。
「まぁ、出て来たくない日もあるわな」
神原は煙草を吸い込むと空へ向かって吐き出した。すると我鳴り声と人影に気がつき、サッと身体を翻した。
その神原の元居た場所に振り下ろされた鉄パイプはアスファルトを殴りつけ、高い音を響かせた。
「ちょ…!」
そんなんで殴ったら死ぬじゃねえか!と抗議も含めて男に煙草を投げつけた。
「あち!」
偶然にも顔に当たり、男は血走った目で神原を睨みつけた。
「おいおい、俺は専門外やし」
神原は青くなった。恐らく三下のチンピラ。捨て駒に使われたとも分からずに、お前なら出来るとか何とか良い様に言われて人生を捨てに来た馬鹿な男。
だが捨て駒とて、神原の首を持って行けば昇進間違いないだろう。
神原は若頭補佐だ。大幹部の銀バッチ。そして、明神組の頭脳。殺せば組にとっては大打撃になるのは間違いない。
「殺す、殺す、コロス…」
まるで呪詛の様に呟く男に平常心なんて微塵もない。今あるのは、目の前の神原を殺す。ただそれだけだ。神原は息を呑んだ。
もう、こんな商売やめたいと毎日、連日連夜思うし、この状況になった時はその思いが強くなる。いつも、自分がやり返せる場面よりも血塗れで屍となる姿しか想像できない。
「死ねぇぇぇえ!!」
男の断末魔にも似た寂声が轟く。そして、それに合わせるかの様に、今の今まで雲隠れしていた月がチラッと顔を出した。
その月明かりで男の追い詰められた顔が見えた。切羽詰まる、後に引けない顔だ。悲鳴を上げなかっただけマシだ。もうダメだと覚悟を決めたからか、声は出なかった。
だが、その闇夜の隙間から、ブワッと長い足が見えたと思うと男の後頭部に踏みつけるような蹴りが入り、男は頭から車の後部座席のガラスに突っ込んだ。
キラキラと、宝石のような輝きを放ちながらガラスが舞った。
「怪我はありませんか?」
小山内はスーツを正すと、神原の身体をぐるっと確認するように一巡した。
「ないない、あらへん」
「危険な目に遭わせてしまい、申し訳ありません」
「いや、平気」
神原は今頃きた震えを、手を解すことで紛らわせた。
「襲撃は嫌やね」
極道に付き物とはいえ、腕に覚えなしの神原からすれば毎度毎度命の灯火が消えかけ、フッとなくなりそうで堪らない。
格闘がからっきしダメなのに、地位だけは一人前。自殺行為もいいところだ。
「お前も、貧乏クジやな」
神原はようやく止まった震えに自嘲した。小山内は名目上は万里の護衛だが、実際は神原の護衛だ。
この男にいくつ命を救われたか、今はもう、数える事を止めた。それだけ危険な目に遭っていると思うと、口から胃が出そうになるからだ。
こんなヘタレでチキンな若頭補佐は他に居ないだろうなと、自嘲する。
「ケガせんかったかいなぁ?」
闇の向こうから万里が現れた。スーツの埃を払い、煙草を咥える。顔も何もかも綺麗なものだ。こいつこそ一度、自分の様に真の恐怖を味わえば良いのにと神原は強く思った。
「どこの連中や」
「鴻島らが吐かすんやない?って、ガラス割れとるやん!帰られへんやん…」
万里はちょっとーと、車に突っ込んで呻く男を引っ張った。
「他に車あるやろ。大体、こいつ、俺のこと鉄パイプで殴り殺そうとしたアホや。自業自得やし。こいつも鴻島に山に埋めとけてって言うて」
神原はふーっと息を吐いて空を見上げた。
一瞬だけ見えていた月は、また雲に隠れてしまっている。ああやって何かの後ろに隠れているのは自分の姿とリンクして見えて、神原はもう一度、大きく息を吐いた。