花となれ

花series second1


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心のいる事務所兼住宅に帰って来て、静はやはり言い知れぬ闇に覆われる気がした。
地下の駐車場にカイエンを停めて、相馬の後ろについて建物の中に入る。一歩づつ心の元に近づいてると思うと、鼓動が早くなった。
これじゃあまるで脅えているみたいだと、それを紛らわす様に拳を握り締め、ぐっと前を見据えた。
エレベーターを降り部屋に入ると、自分の鼓動がうるさくて周りの音が聞こえない。それに加え、相馬の広い背中で室内が見えなかった。
「よぉ、遅かったな」
声だけが静の耳に響いた。ただ、それだけの事なのに肌が粟立った。
「ええ、静さんがだいぶと召し上がりまして。驚く食欲ですよ。とても気持ちがいいですよ」
「へぇ…それは以外。脂っこいもんとか食ったら、腹痛いって言いそうやのに」
「何だと!!そんなヘボい奴に見えるのかよ!」
聞き捨てならない心の言葉に静は思わず相馬を押し退けて、いつもの特等席に座る心の前にズカズカと歩み寄り、大理石のテーブルをドカッと蹴った。
「ったく、足癖だけは相変わらずやなぁ」
フッと心が笑い、煙草の煙を静に吹きかけた。
「く…クサッ!!てめぇ!!」
「なぁ、相馬、お前なに、その格好」
半ば呆れた様な顔で、心は相馬の姿を見た。
心でさえ相馬のスーツ以外の姿を見るのは久々で、しかも、年相応の格好であろうその服も相馬が着ると、どこか滑稽な感じがした。
「ああ、これですか?静さんのお友達もご一緒だったので、若返りを」
まるで執事が君主に挨拶をするようにお辞儀をする相馬を、心は鼻であしらった。
「阿呆か…」
「さぁ、それでは私はこの辺で失礼してよろしいですか?何か御用があれば…」
「え!!帰っちゃうの!?」
部屋へ着くなり帰ると言われ、静が慌てて立ち上がり相馬の腕を掴んだ。
それに驚いたのは相馬だ。心の目の前でなんて行動をとるのかと、さすがの相馬も心を見返す事も出来ず、やんわりと静の手を解いた。
「仕事が終われば誰でも家に帰るでしょう?私もそうですよ。残念ながらここは鬼塚の家で、私は住居がありますからね」
必要以上に心を刺激するのは止めてほしいと、相馬は人知れず思った。
静は”そう…”とそれは残念そうに言い、それを見た心は、まるで肉食獣の如き瞳で静を射抜いた。
”私が帰っても平和であります様に…”
相馬は一人、心の中で祈りながら縋る様な瞳を向ける静と、その喉笛をかっ切ろうと牙を剥ける心に深々と頭を下げて部屋を出た。

静寂が部屋を覆う。
相馬が帰ってしまうとソファにふんぞり返る心と何を話せばいいのか分からずに、静は動物園の熊の様に部屋をウロウロしだした。
「何をウロウロしてんねん、鬱陶しい」
その様子に、心は煙草を灰皿に押し付けチッと舌打ちした。
本当にこの男は自分より年下なのか、もしかしたら相馬と心に騙されているのではないかと、少しばかり疑ってしまう。
「うるさい、ってかオマエ仕事とかもうないわけ?」
「何時まで働かせんねん、もう終わりじゃ」
どこか苛ついた様な口ぶりに、静はムッとしてしまう。
せっかく見つけた話題を、そうも一蹴されてしまうと、これからどうしたらいいのか分からなくなる。
「あ、飯は?」
「食うた」
「……」
なんて間の持たない男だ。
静は諦めて、心の座る席の前に腰掛けた。革張りの擦れる音が、耳に入る。
「飯、旨かったんか」
「へ?ああ、すげー旨かった。中華なんだけど、あんな高級な中華初めて食ったし!暁も喜んでたし、良かった」
料理の数々を思い出し、少し興奮した様子で心に話し始めた。
エビチリのエビが伊勢エビだっただのキャビアを初めて食べただの、餃子の中にフカヒレが入ってただの、よっぽど美味しかったのか、初めて見るはしゃぎ様に心は自分の顔が綻ぶのが分かった。
「そうか、じゃあ、機嫌は直ったな」
機嫌?何の事か分からずに、静はきょとんとしてしまった。
そして病院で心の胸倉を掴み、挙げ句の果てに心の書斎に篭城した事をまざまざと思い出して、思わず背筋を正した。
「あ…その…ごめん、夕方」
先程までのテンションはどこへやら、静は俯き、心に謝罪した。
「別にええ。極道を恨む人間なんて五万とおるし、恨みつらみも聞き飽きとる位に聞いとる」
そう言うと、心が煙草を銜えてゆっくり火を点けた。ジッポの弾かれる高い音と、独特の香りが鼻を霞める。
恨みつらみ、それをずっと言われてきたのだろうか?
確かに極道は嫌いだが、静達を追いつめたのは鬼塚組ではなく大多喜組という極道で、心とは全く関係ないと言って等しい。
ただ、同じ”極道”というだけ。まして、その極悪非道な大多喜組から助け出してくれたのは、他の誰でもない、極道の心だ。
「ごめん」
恩を仇で返すとはこのことかと、静は思わず頭を下げた。
「謝ってばっかりやな」
「悪い事は悪いって認めないと、本当に悪い事した時に謝る事が出来なくなる」
「……」
「オヤジがいつも言ってたんだ」
「そうか…」
悪い事をした時は素直に”ごめん”と言える人間になれ。それが静の父の教えだった。
兄弟喧嘩でも、どちらが悪いのか必ずお互いに聞き、自分の行為が間違えてなかったのか互いに反省を求め、互いに謝罪をさせる。
片方だけが悪い事なんてないと、いつも笑って言っていた。
「暁か?そいつ連れて来たら良かってん」
急な話に、静が目を瞠る。
「ここに?オマエ…こんな所に暁を連れて来れる訳が無いだろ!」
どこをどういけば暁をここに来さす話になるのか、一体、どんな思考回路をしているのか、静はあまりの話の飛躍に怒鳴るしか無かった。
「…?オマエ、今どこに住んでるんか言ってないんか」
言える訳が無い。何と言うのだ。
借金から逃れられて、今は鬼塚組に居ると言えばいいのか?そんな事を言えば、誰でも普通ではないと思う。
もし自分が反対の立場ならば、何をどうしてそうなったのか真相を話すまで相手を離しはしないだろう。
「言ってない、ってか、今までも住んでる所を言った事はない」
「今までも?どこで寝ててん」
「いや、うーん、家に居ても熟睡出来なくてさ。嫌がらせとかあるから。夜中から、次の日の学校の時間まで街歩いたりして時間潰したり。雨の日は流石に帰ったけど、あちこち転々としてたから余計に落ち着かなかったのかも。暁もそれ知ってるから、どこに住んでるのかとか聞いて来なかったから」
淡々と話す静に、心は煙草を銜えたまま何も言わなかった。
言葉をかけられても返答に困るから、こうして何も言われない方が楽かもしれない。
こういう所は、敏い男だと思う。
「俺がおらんかったらええんちゃうんか」
「は?」
「明日から大阪に行くから俺はおらん。俺がおらん間、相馬も忙しいからオマエの相手も出来ん。お前、明日は学校も休みやろ。一人でおっても暇やろ」
「ええ!そんな急な!ここで一人なんて!そうだ!俺、暁んところに泊まる!」
テーブルから身を乗り出して訴える静の顎を、心がグッと掴む。
漆黒の双眸が、真っ直ぐ静を見据えた。その瞳に捕われ、静は思わずゴクリと息を呑んだ。
「何で俺の留守中に、他の男んとこにオマエやらなあかんねん」
「な…!」
心の言葉に、静は心の手を払い除けた。
「俺と暁は!ってか、暁はオマエみたいに変態じゃない!」
「変態とは失礼やな。とにかく、オマエはここにおれ、オマエの連れをここに呼ぶんは構わんけど、泊めるな」
打たれた手を気にする訳でもなく、心はソファに深く座り込んだ。
何?その命令口調?というよりも、命令だよな。それも、かなり上からの。
静は沸々と沸き上がる怒りに、額に青筋が浮き上がってはないだろうかと思った。
「ここは良くて、暁の所はダメってなんだよ」
努めて冷静に、静かに一言一言噛み締める様に言葉を発する。
この男の言葉に翻弄されてはいけない。それでいつもイライラして喚く自分が居る。
あくまでも、この男は年下なのだ。ここで年上の威厳と余裕を見せなければ、舐められる。
相手が誰であろうとそのヒエラルキーは絶対死守しなければ、後々、痛い目を見る様な気がする。
「ここやったら、俺の匂いするから、オマエにそんな気おこらんやろ」
「おま!!バカ…だ、ろ」
努めて冷静に、この男は年下。
そんな考えさえも吹き飛ぶ様な予想もしなかった言葉に、もう呆れて、静は文句を言おうと開いた口を閉じた。
こんな訳の分からない人間は初めてだ。
目眩すら覚える心の言動に、静はただ深く嘆息した。

結局その夜は、心に抱き人形宜しく抱き締められて、眠りにつく羽目になった。
静から求めるまで何もしないと言っていたくせに、一緒に眠るのはそれには入らないという、俺様な理論に反論はしたものの恐らく相当、心は語彙が乏しい男だ。
何を言っても静の思う斜め上どころではない返答が返ってきて、幾度となく呆気に取られた。
結局、それで静が疲れてしまい、心に言われるがままされるがまま、眠りについたのだ。

携帯の着信音がけたたましく鳴り響き、静は重い瞼をゆっくり開けた。瞳を開ければ、鬱陶しいそうに静を抱えたまま携帯を取る心が見えた。
いつの間にか心に自ら抱きつく様に眠っていた事を知り、静が離れようと身体を捩るが、力強い心の腕がそれを許そうとしない。
不思議な事に、この男の側は居心地が悪くない様で、あれだけ眠れなかったのが嘘の様にぐっすり眠れる。
痩身ではあるが筋肉がしっかりと付いているので、どちらかというと硬い身体。抱きついていても硬いし痛いし…ではあるが悪くはない。
ぎゅっと抱きしめられているのが、安心してしまうのだろうか。
覚醒しない頭でもぞもぞと動くと、心が静の背中をゆっくりと撫でた。それに息を吐いて、やはり目を瞑った。
まるで落とされる様に、すぐに深い眠りにつきそうになる。
「何や…」
眠りにつきかけた静の耳に、心の声が心地よい。やはり、この男の声は嫌いではない。
「昼くらいに行く言うたやろ…は?今から?何でや…」
携帯の相手に苛つきを覚えながらも、また眠りに落ちかけている静の額に、そっと唇を寄せる。
まるで子供の様に温かい身体を抱きしめ、その髪に鼻を埋めた。
静は深く眠る事に馴れていないのか、深い眠りにつくと覚醒するまでが長い。眠っている時は悪夢を見るのか、よく魘されている。
グッと抱き締めてやれば安心した様にスヤスヤ眠り、それがまるで自分に縋っている様に思えた。
心は基本的に他人とは距離を置く。それがどれだけ情事を共にした相手でも、決して一緒に眠りに付くことはなかった。
もともと眠りが浅く、自分は他人が居ると眠れない質だと思っていたが、静が心と居て眠れる様に心も静と居ると驚くほどよく眠れるのだ。
「…わかった、行く」
心は通話を終えると、携帯をナイトテーブルに放り投げた。
「静、起きろ」
スヤスヤ眠る静を揺さぶり、夢の世界から覚醒させる。
「…なんだ」
寝惚け眼の静が、まだ眠いとラグに潜り込む。それを剥ぎ取り、頬に軽く口づける。
「栄養補給」
「は…」
言い終わるか否か、それは心の唇でふさぎ込まれた。
覚醒しきっていない脳が一気に覚醒して、静は心の背中をバンバン叩いた。これでは話しが違うと言いたいのだ。
それでも心の惚ける様な口づけは徐々に、静の力を奪い取る。
深い口づけに堪らなくなった静は呼吸すべく、グッと締めていた口を開くと、それを待っていたかの様に心の舌が入り込む。
「ふッ!ん…」
じんわり、目尻に涙が溜まる。縦横無尽に歯列を舐め上げられ、無理矢理、舌を絡ませられる。
クチュッという卑猥な音色が夜も明けきらない部屋に響き、静の鼓動がこれでもかと速くなる。
延々に続く様な錯覚さえ起こす口づけがようやく離された時、目尻が仄かに赤くなり劣情的な表情の静に心が息を呑む。
これ以上進んでしまうと、静の意志に関係なく身体の隅々まで貪ってしまいそうで、心はゆっくり静の白い首に自分の刻印を残しながら、僅かな理性を総動員して冷静さを取り戻していた。
「痛い…」
静が顔を歪める。思った以上に吸い付いてしまった様で、真っ赤に鬱血した箇所を労る様に舌を這わした。
その感覚にさえ、静はブルッと震えた。
「浮気すんなよ」
一体誰と?と聞きたくても、残念ながら今の静はそこまで饒舌ではない。
中途半端に与えられた熱が、ゆっくりと睡魔に変わっていく。
「バカか…もう行くのか」
「まだ眠っとけ」
大きい掌が、静の大きな瞳を覆う。それに合わせる様に、静はゆっくり瞳を瞑った。