花の嵐

花series second2


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「なぁ、写真、もう来てへんの?」
「来てねぇな。ああ、最後に来たか、お前がやられてから」
「どんな?」
心が聞くと、及川は少し考えるような仕草を見せた。そして嘆息すると、吐き出すように話し始めた。
「刑事が何人かが写った写真に”inetto"って、金のペンで書いてただけ」
意味が分かんねぇだろと及川は両肩を上げた。
「それ、あんたも?」
「俺?いや、大阪府警の人間」
「大阪府警?知り合いか?」
また想像もしていないところからきたなと思った。いや、風間組は関西を拠点としているので、その繋がりでか?
いや、それならば何故、及川の元へ写真が来るんだ?
「意味なんてねぇよ、ただの写真だ」
心の考えを打ち消すように及川は独り言のようにそう言うと、フォークを置いた。心は及川の綺麗に平らげられた皿を見て、性格や嗜好はともかくとして育ちの良さがこういうところで出るなと思った。
「ただの写真やったけど、ただの写真やなくなったやろ、前のんは」
「まぁ、確かにな。写真には…そうだな、知ってる顔も居たな。なんでその連中なのかは知らねぇけどな」
「役立たず…」
心が呟くように言うと、及川が眉を上げた。
「あ?なんだ、イタリア語も分かんのか」
「分かるってほどでもあらへん。喋られへんし、言ってることも全部理解出来るわけじゃねぇもん」
"inetto"とはイタリア語で役立たずという意味だ。写真に書かれていたカウントダウンはヘブライ語。
統一性が全くないのは気分でそうしているのか、それとも何か意味があるのか…。
「で、明神に聞くのか?」
及川に聞かれ、心の頭の中で宝石のような赤い目が光った。心はそれをすぐに頭を振って追い払うようにすると、肩を竦めた。
「聞けば言うやろうけどな。眞澄もやけど、あいつとは根本的に合わん」
見た目同様に自由で無茶苦茶な中身。眞澄とは血縁者ということもあり、まだ話が出来るところもある。だが、明神は無理だ。
明神の横に付いた、お目付役の男。明神に話を聞くということは、あの男とも対峙しなければならない。
無茶苦茶な明神と相馬に似た神原。正直、無理。面倒過ぎる。
「そもそも話云々、何もかもデタラメすぎて、あいつを見てるだけで腹立つ」
「そりゃ、お互い様じゃねぇの?」
「あ?」
心の顳顬がピクッと痙攣したのを見て、及川は宥めるような笑顔を見せた。
「いや、残念だなぁって思ってな。ルビーに会いに行くなら、俺も同伴したかったのになぁ」
「ルビー?ああ、目のことか。変なネーミング」
明神のルビーだとか赤い宝石だとか、おかしな呼称で呼ばれていたような気がする。だが、本人は気に入ってはいないようで、面白くないような顔をしていた。
確かにダサいネーミングだと心も思う。
「明神に聞きに行かねぇなら、どうするんだ?」
「さぁ、どないしょうかな」
心はパスタを平らげるとグラスに残った酒を一気に煽った。そして長い腕を伸ばすと及川の襟元を掴んで引っ張り、その口に口付けた。
及川もそれに抵抗することなく口を開けると、ジューシーなマーマレード風味がラズベリーのような香りとともに口の中に拡がった。ごくっと喉に流すと甘いスモークが鼻腔に抜ける。するとにゅるっと舌で押し込まれたので、及川もその舌に舌を絡めた。
ちゅっちゅと音を鳴らしてディープキスを楽しんだ後、ゆっくりと唇を離す。長い口付けの後だというのに心の表情はいつもと同じ、余裕に満ち溢れた傲岸不遜な顔だ。
「もっと可愛らしい顔してみせろよ」
「アホか。酒の礼」
そう言って立ち上がると玄関に向かって歩き出す。及川はそれを見送ることなく、ほぼ空になったハイランドパーク40年の瓶を持ち上げた。
ダークレッドの濃厚な色合いの酒は、この酒の価値も分からない心に飲み尽くされてしまった。
「親父、持ってねぇかなぁ…」
及川は独り言を呟くと、誰も居なくなった席にあるグラスに瓶を軽く当てた。

「ちょっと、どこ行ってたの?心配するじゃん」
帰って早々の第一声がそれ。千虎の仕事が終わるよりも先に帰ろうと思っていたが、やはり間に合わなかったか。
まだ何か言いたげな千虎に心は野暮用なんて適当なことを言って、千虎の胸元に拳を押し当てた。
それに何かが握られているのが分かった千虎が手を出すと、心は拳の中に入れていたキーを落とした。
「…え?…え?は?ええ!?どこで手に入れたの!?」
千虎の手にあるのは金のエンブレムが埋め込まれたキーレスキー。そのエンブレムは高級車の最高峰に君臨するポルシェのエンブレムだ。
心は千虎の質問に答えることなくソファに座ると、深呼吸をするように息を吐いた。流石に傷の痛みが酷い。
そこで初めて肩で息をしていることに気が付き、思わず笑った。
「それ、運転するか?」
「え!?させてくれるの!?」
「明日、仕事休みか?夕方から走るか」
「明日…」
千虎は慌ててというような感じでスマホを手にすると、カレンダーを引っ張り出した。
「土曜か、あ、今週は休み!えー!マジで!?モデル何!?まさかケイマンとか?!」
「あー、あれ何や、そうそう911turboS」
「は?」
「え?」
何か変なことを言ったか?いや、あれは911turboSだ。間違ってはいない。
「え、ちょ…911turboS?本気で言ってるの?」
「何がやねん。ちゅうか鷹千穗は何を観てねん」
二人して、部屋の真ん中に座って微動だにしない鷹千穗を見た。
心が帰ってきても食い入るようにテレビに見入って、一向に目を離さない。何を観ているのかと覗けば、アニメが観えた。
「何これ」
「え?ジブリ」
「え?何それ」
「え?マジで言ってる?いや、だって暇そうだし。あんたも何か見るかなって色々と借りてきたんだよね。アクションからアニメから、まさかの恋愛もの。さすがにAVは借りてこなかったけど。じゃあ、鷹千穗がこれ見るって。いや、言葉にしてないし言ってないけど、あれ、言ってるも同じでしょ?」
確かに鷹千穗が何かにここまで真剣になっているのを見るのは、初めてかもしれない。意外に人間臭いところがあるんだなと、少しだけ驚いた。
「なぁ、鬼塚さん、顔色悪いよ?」
「絶好調とは言われへんからな」
心はゆっくりとソファに座ると、そのままゴロンと横になった。ちょっと動きすぎたかもしれない。酒を飲んだもの効いている。これは及川の呪いか。
だがその酒のおかげで痛みがだいぶとマシだ。ふとTVを見ると猫のおばけが見えた。
「子供が食われとるやんけ、ホラーか…」
「いやいや、これは…」
千虎が説明をしようと振り返ると、心が堕ちるように眠っていた。千虎は鷹千穗の肩を叩くと、心を指差して自分の唇に人差し指を立てた。
そして、リモコンでTVのボリュームを落とした。鷹千穗はそれに不服そうな顔も見せずに、またTVに視線を戻した。
「ジブリって何って言うくらいだし、鷹千穗もこの様子だと観たことなさそうだし…。極道は任侠映画しか観ちゃいけないルールでもあるの?」
心が眠ってしまった今は会話の相手は鷹千穗だけにはなるが、言葉のキャッチボールが出来ないので独り言と同じだ。そもそもTVに夢中でこっちを観ようとしないので、本当に独り言だ。
千虎はロフトからラグを引っ張って持ってくると、心の額に手の甲を当ててみた。熱はなさそうだが、顔色は悪い。
傷も大きい分、医者に診せるのが得策だとは思うが…。
「言ったところで、そうだなって言うわけないもんな」
やはり返答のない独り言を呟いて、心にそっとラグを被せた。

ガンガンに鳴り響くテクノミュージックと歓声、その中に入った瞬間に耳を破壊されそうで千虎は思わず両耳を塞いだ。
まさか都心のど真ん中の地下に、こんなところがあるなんて思ってもいなかった。ここは千虎が仕事でもプライベートでも通ったことのある場所だ。
911turboSのハンドルを握った時は、まだ長いとは言えないような人生だが、生きてきた中で気分が一番向上した。500馬力級と呼ばれる車だが、アクセルを踏み込んだ時にそれ以上だと感じた。
そもそもポルシェを、しかも911turboSをノーマルで乗るオーナーは少ない。そう、カスタマイズされているのだ。
車体価格にカスタマイズ料金。どこで調達してきたのかは知らないが、とんでもない化け物だというのは分かる。
ポルシェの魅力は後ろに積まれたエンジンだろう。アクセルを踏んだ時に後ろからグンっと押される感じは病み付きになる。
適当に街を流していると、心が急に道をナビしだした。あそこを曲がれ、ここを曲がれ。千虎は仕事上、この辺り一帯の地図が頭の中に自然に叩き込まれている。
言われてる道の先を思い浮かべても店も何もないんだけどなと思いながら、でも運転出来るなら何でもいいやと思っていたのだ。
だが、急に止まれと言われ止まったのがオフィルビルが立ち並ぶ一角で、ただ時間帯と曜日のせいか人が居なかった。ここで何をするの?と思っていると、ビルの前に男が座っていたのだ。
特に何をすることもなくスマホを弄って、ビルの前の花壇に腰掛けている。心は徐に助手席のウィンドウを開けて、指を鳴らした。
すると男は視線だけこちらに向けると、ゆっくりと立ち上がった。それを見て、心が車を降りた。
「5963214」
突然、謎の数字を言った心に千虎は眉を顰めた。何の暗号だと思いきや、相手の男はそれを聞いてスマホを操作しだした。
「あー。Shinさんね」
「おい、降りろ」
車を覗き込んで心が言ってきたが、千虎は首を傾げた。
「エンジンは切るな。キーも置いていけ」
「え?え…」
千虎が戸惑っていると、心はそんな千虎を気にすることもなくドアを閉めて歩きだしてしまったのだ。
千虎は大いに慌てた。心の言葉の少なさ、突拍子もない行動に慣れていないのもあるが、必要最低限というのはあって然るべきではないかと思う。
コミュ障かというよりも、説明とかそういうのはする必要がないと思っている節がある。というか、面倒だと思ってそう。まさかとは思うが…。
車を降りて心の跡を追うと、エンジン音が聞こえた。振り返れば乗ってきたポルシェのハンドルを見覚えのない男が握り、そのまま発進させてしまったのだ。
「え!?」
千虎は驚いて声を上げたが、心は振り返ることなくビルの入り口へ向かっていた。もう、何が何やら。
「中のルールはわかってるよね?ま、大丈夫か」
男は心の後ろの千虎を品定めするように上から下まで無遠慮に見ると、意味ありげに笑った。
「あんた、まさかエントリーするの?」
「もうええやろ」
心が遮ったが、いや、エントリーってなに?と千虎は目を泳がせた。まさか、ここはニュースとかでよく見る、地下賭博的なとこか?
極道だもんな、ギャンブルくらいするか。いや、でもエントリーって何?
混乱する千虎を放って、心は営業してないと思われるビルの中へ入っていく。そしてやはり照明の消えたビルの中をどんどんと奥へ進み、非常口と電光掲示板の光るドアのノブに手を掛けた。
ドアを開くと下へと階段が続いていて、そこをまた降りていく。その階段の先にまたドアが出てきて、心はそれをまた開けた。
防音だったのだろう。開けたわずかな隙間から、突き刺さるような大音量の音楽が千虎の鼓膜を襲った。
中は先ほどのビルの中の静けさが嘘のように、人で溢れかえっている。クラブかと思ったが、煌々と光る照明はクラブのそれではない。
音楽こそはクラブのノリかもしれないが、音楽に合わせて踊るような者は誰一人としていないのだ。その中で、前を歩く心は千虎に構うことなく人を器用に避けて歩く。
千虎はその心とはぐれないように必死に後を追った。中に居る人の熱気は中央に向かって降り注いでいる。
一体、何に集中しているんだと見ればフェンスで囲まれたリングが見えた。その中で男が殴り合っているのだ。
こんなところで異種格闘技戦!?と立ち止まりかけたが、周りの人相の悪い男たちを見て慌てて心の後を追った。心は試合に目もくれずにひたすら奥を目指して歩いていた。
「ちょ、待って…!!エントリーってまさか!?」
まるで人が次にどう動くのかをすべて読んでいるのか、心は人にぶつかることなく流れるようにその隙を歩く。だが中央のリングに夢中の男や女は、いきなり飛んだり回ったり千虎から言わせてもらえば挙動不審な動きなのだ。
そんな挙動不審の人間の動きを読めるわけもなく、千虎は人に押され、ぶつかり、揉みくちゃの状態で心を追う。どうにか追いついた時にはその地下の一番奥と思われるとこへ来ていた。
奥にはこの地下の中で一番屈強な、まさに身体が凶器なほどの筋肉隆々の黒人が二人立っていた。身体にフィットするTシャツにミリタリーパンツとブーツ。
千虎の太腿ほどありそうな二の腕には、がっつりタトゥーが彫り込まれている。そして見事に剃り込まれたスキンヘッド。
その後ろには明らかに装いの違うドアがある。守るような誰かが居るということか。
「ちょっと…まさか…」
心がそこを目指していると知った途端、千虎は心の腕を掴もうとしたがやはりするりと躱されて黒人に対峙していた。
「ちょっと相手見て!?マジかよ!あいつ、バカじゃん!気が狂ってる!」
大音量の音楽にかき消されるのをいいことに、散々、悪態をついてみたが心は振り返ることなく2mはあるでろう黒人を見上げると犬歯を見せて笑った。
「I'm here to see Mēdeia. I'm Shin」
流暢な英語が聞こえ、千虎は呆気にとられた。いきなり殴りつけるのかと思ったが、それではただの頭のおかしな無謀でバカな男だ。
心という男がよく分からないので、それもあるのかと失礼なことを思ってしまったが…。それに黒人と何やら会話をしている。もちろん英語だ。
そうか、会話らしい会話もろくに出来ないのは、実は帰国子女とかなのかもと千虎は思った。それならば、非礼は許容してやるべきなのかもしれない。
心と会話をしていた黒人の一人が中に入っている間、残った黒人と心は睨み合ったままだ。アイコンタクトとかではなく、間違いなく睨み合っている。
あれ、やっぱりバカの部類なのかな。どうして睨み合ってるんだ?どう考えても体格の差は歴然だし、ここで心がやられたら自分の運命はどうなるのかと後先考えずに行動するのはやめてくれと千虎は大きく息を吐いた。
するとドアが開き、黒人が指を鳴らして中へ促して来た。これ、中に入ったら死ぬんじゃない?と後ろを見てみるが、この殺伐とした空気の中、一人で居るのは自殺行為だ。
千虎は咄嗟に心にくっつくと一緒に中へ入った。

やはりまた防音ドアなのか、ドアが閉まると外の騒々しさが嘘のように世界が遮断された。だが耳の違和感は残っていて、思わず耳を叩いた。
真っ赤な絨毯が敷かれた廊下の奥にはまたドアがあり、黒人の男はそこのドアをノックする。するとドアが開き、中からまるでマネキンのような男…いや、少年が出て来た。
千虎や心よりは少しだけ背が低く、まだ身体が出来上がってないように見える。そして黒のスーツに黒のシャツを着ていて、そのせいで白皙の肌が更に白く感じ表情のない顔はマネキンだ。
彫りの深い二重の切れ長の目と形の良い高い鼻梁、キュッと締まった唇は開くのかと疑問に思うほどに動きがない。柔らかいウェーブのかかった髪も黒で、これじゃあまるで悪魔の遣いみたいだと思った。
少年は心と千虎を見るとドアを大きく開き、中へと招き入れた。それは、地獄へのドアが一つ一つ開いているように感じた。
黒人の男は中へは入らないようで、来た廊下を戻っていく。妙な威圧感はないものの、次は捉えようのない不気味さが千虎を襲った。
ふと少年の側を通った時、首に見えた物を思わず凝視した。首輪だ。中央にダイヤのような宝石が埋め込まれた首輪。これ、地獄へようこそ決定だ。それもfreakな主人の居る、地獄。
やっぱり外で待ってるよなんて言ってみるかと振り返ると、最終通告を告げるかのようにドアが音もなく閉まった。
あ、積んだな、これ。
千虎はまた一歩、心に近づいた。やたら近付くものだから心がそれに気が付いて鼻で笑ったが、千虎は離れるものかとそれに気が付かないフリをした。
部屋はやはり赤い絨毯が敷かれていて、置かれている調度品もアンティークな西洋家具が多い。目を引くのは部屋の壁に埋め込まれている巨大スクリーンだ。その前には大きなソファが置かれていて、これも赤い革張りのソファだった。
若干、いや、かなり趣味が悪い。段々と、目がチカチカしてくる。
少しして、部屋の奥のドアが開いた。真打ち登場だ!と身構えたが、現れた人物に千虎は肩透かしを食らった。
現れたのは女だったのだ。それもただの女ではない。ゴージャスなファーを上半身に纏い、そのファーの下から覗くタイトなドレスはシックな黒でスリットが骨盤の上らへんまで入っている。
黒い髪は上品にカールが施され、胸の下のほうでまるで跳ねるように踊っている。妖艶に弧を描く赤い唇と、何もかも見透かすような強い瞳は思わず目を背けてしまう。
ヒールのせいだけではないであろう長身な女は、心に近づくとそっと頬に手を当てた。手入れの施されたシミひとつない綺麗な手と中指には大きなダイヤの指輪。爪はキラキラと輝くネイルが施され、これが頭の先から指の先までってやつだなと思うほどに隙のない女だった。