痛みの強い身体は言うことを聞かずに、静は思わず自分を担ぎ上げた男の腕を掴んだ。グラグラと揺れている様な感じがして、そのままボンネットに寝転がりたかったが何とか耐えた。
すると男の腕を掴んだ手を、黒い革手袋の手がやんわりと掴んだ。
「へぇ、これが吉良くん」
手を掴んだ男はまるで握手でもするかのように静の手を握った。柔らかな声だったが、聞き覚えはなかった。
「…誰だ、あんた」
「初めまして、私、来生です」
名前を聞いて静はハッとして男に目を向けた。するとヘッドライトに照らされ見えた顔に、意識が冴えた。
病的にも見える青白い肌と痩けた頬。だが薄い色のついたサングラスの下の目だけは異様にギラギラとしていて、静を嬉しそうな顔で見ている。この男がー来生。
「知っている、という感じですか。誰に聴きました?佐野?それとも…息子の方?」
「俺に、何の用」
静が言うと来生はゆっくりと首を傾げて手を離すと、静の顎を掴んだ。ぎゅっと革手袋の鳴く音と革の独特の香りが鼻につく。
橅木に殴られた顔はそれだけで激痛が走り、顔を歪めた。
「誰に聞いたんですか?質問には答えてくださいよ」
目を細めて静を見る目には、苛立ちが垣間見えた。自分のリズムを狂わされるのを嫌うタイプ、かなり神経質な男の様だ。
「誰にって…覚えてねぇよ。鬼塚に色々と手を出してきたのはあんた達だろ、俺は組員じゃないから聞きかじった程度だし。ねぇ、神童さんは?」
「ああ、もしかして神童から聴きました?本当、彼にも困ったもので。得手勝手で気分屋なのは血なんでしょうかね。まぁ、私としては居ない方が何かと順調よく回るんでね」
質問に答えたことに満足したのか静の顔から手を離すと、にっこりと笑った。だがその顔があまりにも不気味で、静はそれを隠すことなく顔に出した。それに気が付いた来生は静の顔を覗き込むと、切れた口の端から流れている血を拭った。
「不気味ですか?私の顔。良く言われるんですよねぇ。でも気に入ってるんですよ、これでも。元の顔も好きだったんですけどね」
「元の顔って…それ、整形…」
来生は返事の代わりに笑みを返してきた。
「私、これでも有名人なんですよ。顔を変えないと生きていけないなんて滑稽ですか?まぁ、実際、日本ではちょっとやり過ぎて生き難いので拠点を海外に移したんですけどね」
口裂け女よろしく裂けるように笑う口が気味が悪い。まるで女のように、いや血をすする動物のように赤い唇とそれに合わせたように染めた赤い髪も、まるで道化だ。
整形の失敗なのか、それとも故意でこの不気味とも思える顔にしているのか…。
「君の顔はとても美しい。何よりも、この目が素敵だ」
顔に手が伸び、目元に親指が当てられた。それを顔を背けて解くと、来生は怒ることなく笑みを見せた。
「お褒めいただきどーも、でも俺にはあんたの顔が整形だろうが有名人だろうがどうでもいい。知りたいのは俺は何で連れてこられたのかだ?俺はもう、鬼塚組とは関係がないのに」
「関係がなくてもいいんですよ。私はただ君を気に入ったんです。色々と調べさせてもらいましたよ。橅木さんが居た大多喜組とのことも鬼頭眞澄とのことも。君には不合理かもしれないけども、裏社会の人間と縁があるようだ。だけどそれよりも何よりも、佐野が君を気に入っているというのが私には一番のウエイト」
「彪鷹さん?」
静が名前を口にすると、来生の顔から笑みが消えた。
「生きてるんですよ、あいつはね。それも自分が育て上げた子供を中に放り込んで」
「は?子供って心のこと?」
「ええ、そうです。腹が立つじゃないですか。私は昔、兄弟盃を交わしていた井高という男とその時に居た組を佐野彪鷹に奪われたんですよ。皆殺しと言えば容易いですが、あれはただの殺戮です。佐野彪鷹という男には鬼が宿っている。殺してあげなければ…殺して、殺すことが彼への救い」
ブツブツと止まらない独り言を呟く来生に静は生唾を吞み込んだ。目に見えないはずの憎悪が、今にも現れそうなくらいに来生は彪鷹への恨みを顔に、言葉に、身体中に出している。
ガジガジと革手袋を噛みながら、ギリギリと歯を鳴らす。ぐるぐるとその場で回ると、急に睨むように静を見た。
「そうだ、それに風間は…風間が佐渡を裏切らなければ、私だって日本を追われることなかった。風間が裏切った…裏切り者には報復をしてあげるのが筋でしょう…。そうでしょう!?」
急にヒステリックな声を上げると、来生はどこからともなく鋭利なナイフを取り出すと振りかざした。静がぎょっとしたのも束の間、その身体を強い力で引っ張られ、ナイフはボンネットに突き刺さった。
静の隣に居た男も驚いて、その場に尻餅をついた。
「連れて行く前に殺したら、意味ないんじゃないんですかね」
橅木は引っ張った静の身体を地面に放ると、煙草を取り出した。起き上がろうとしたものの、身体が言うことを聞かずに仕方なく車に凭れる様に座った。
「恨みつらみは後にしてくださいよ。死体で良いんだったら、俺がコイツを殺したいくらいだ」
「ああ、ああ、悪い。ついね、つい。ごめんね、怖かったね」
来生は顔を歪ませて笑うと、自身を落ち着かせようとしているのか何度か浅い呼吸を繰り返した。そして最後に大きく息を吸うとナイフを仕舞い、後ろを振り返った。
「さて、約束のもの」
言うと、スーツを来た男がアタッシュケースを手にしてやってくる。よく見ると来生の後ろの方には数人の男と数台の車、そしてヘリがあった。
「置いて、開けて」
橅木が言うと来生は笑って男に目配せした。男はボンネットの上にアタッシュケースを置くとそれを開けた。
見れば、中は札束だ。それも帯のついた物が何束もある。橅木をよく知る静からすれば、やっぱりなというところだ。
「おい」
橅木が言うと、橅木の連れてきた男が札束を取り出し、パラパラと中を確認しだした。その様子を見ていた来生が、可笑しそうに笑った。
「そんな、中も全て本物の紙幣ですよ。新札は含まず、通し番号もなし。ご要望通り…結構大変なんですよ、そういうの集めるの」
「俺は一度、こいつにやられてるんでね。何でも慎重にするようになったんで。用心ですよ、用心」
男は中身を確認すると、どこからともなく袋を取り出しアタッシュケースの中身をそこへ押し込んだ。そして空になったアタッシュケースを閉めると、橅木に渡した。
「GPSとか困るんで、これは返しますわ」
「用心深いことはいいことだ」
「じゃあ…」
橅木は静の前に座ると、静の顎を掴んだ。
「日本の景色、しっかりと拝んどけよ。もう二度と見れねぇからな。お前はこれから鬼塚を咥え込んだその身体を、豚のような男どもに捧げて暮らすんだからな。お前は上玉だから高値がついて俺は嬉しいぜ」
橅木がそう言うと、静はその顔に唾を吐きかけた。
「死ねよ、ぼけ」
「言うね、お前も」
橅木は裏拳で静をぶつと、満足したように立ち上がった。
「素っ裸にしといたほうがいいですよ、足も折っておくべきだ。なんせ足癖が悪い上に、何でも武器にしてきやがる見た目を裏切る気性の荒さなんでね」
橅木が言うと来生は忠告ありがとうとニタリと笑った。橅木はそれを鼻で笑うと、車に乗りそのまま勢いよくアクセルを噴かせて立ち去っていった。
「さてと、2億も払ったんですからしっかりと稼いでもらいましょうか。その前に、鬼塚について知っていることを全て話してもらいましょうね。最近の佐野のこととかね」
来生が言うと、男が静の身体を持ち上げた。橅木の最後の裏拳は効いた。さすがに身体が悲鳴を上げているが、無駄な抵抗と分かっていても少し暴れた。
だがやはり無駄で、静はそのままヘリの後ろに投げ込まれた。初めて乗るヘリコプターはシートが二つ対面で設置されていて、四人で満員という感じだ。
中のシートは黒く、機体本体も真っ黒のカラーリングだった。
「これ、EC135っていうヘリなんですよ。ヘリは初めてかな?」
男は静をシートに座らせると来生に頭を下げて機体から降りた。来生は静の向かいに座ると、余程、機嫌がいいのか鼻歌を歌った。
「じゃあ、行きましょうか。おい、すぐに出港出来るようにしておけ」
来生が言うと、男は頷いて停まっていた数台の車に乗り込むと走り去ってしまった。
「どこに…」
「自分の行き場所くらいは知っておきたいかな。中国ですよ」
「中国…まさか」
外国になんて行けるもんかと思ったものの、そうか、そういうのが通じない人種ということかと妙に納得してしまった。諦めが出てきているのかもしれない。
何が何でも逃げてやる。そう意気込んでいた昔と違って、諦めるということを受け入れてしまっているのかもしれない。ダメだと分かっているのに、情けない…。
「今回、神童と渋々ながら一緒に動くことにしたんですけど、どうもあの男とは反りが合わない。もう用もないんでいいんですけど、Thanatosまで行方知れず。私、今、
「だから…仁流会を」
「佐野と風間へ報復が出来て、尚且つ売り込みも出来るなんて最高じゃないですか」
「俺はなんで…」
「元々、あなたが居なければ始まらなかったことです」
「え?」
何を言ってるんだと静は表情を歪めた。その顔に来生は笑みを浮かべて、顔の前で手を組んでその上に顎を載せた。
「佐野の息子が貴方を見つけて隙が出来たんです。流石と言うか、年齢の割に落ち着いた息子もあの組も、一切の隙がなかったんです。そもそも、あなたが居なければ鬼頭が鬼塚とぶつかることはなかった。鬼頭はそうじゃなくても、佐野の息子は鬼頭を目の端にも捕らえてなかったんですから。仁流会の会長補佐ではあるが、仁流会に染まり切った組でもない。ちょっと異質な組ですよね。まぁ、そのおかげで私も刺客を送り込むことに成功し、その功績で
あまりの気迫に静は声が出なかった。だがそれよりも、この全ての事件の元凶が自分だと言われた衝撃は大きく、こうなったことが何もかもが自分のせいだとしたら…自分は何ということをしてしまったのか。
顔色のなくなった静を見て、来生はニタリと笑った。
「仁流会は死にますよ」
「え…」
「仁流会の番犬である明神組も、若頭が抗争に巻き込まれたとかでダメージを負っているそうです。あそこの一番の暴れ馬は若頭ですからね。しかも残る鬼頭だけでは仁流会は護りきれない。仁流会が死ぬのは時間の問題です」
言うと声を上げて来生が笑い出し、静は息を呑んだ。あの仁流会が終わることなんてあるのか。極道を人よりも近い場所で長年見てきた静からすれば、信じ難いことだ。
だがまさかそんなことがという事が立て続けに起こっている今は、そうかもしれないと思わざるを得ない。
プロペラが回り出し、耳を劈くような音が響く。そしてユラっと機体が揺れ、ゆっくりと宙に浮いたのが感覚で分かった。
静は思わずシートから腰を上げかけたが、来生が人差し指を左右に揺らして見せたのでやはり無駄かと座り直した。
「直ぐですよ」
うるさい機内の中、口元でそう言われたのが分かった。
パスポートもなく、今から密入国という形で他国に渡る。渡ってから逃げるにしてもどうやって?助けを求める?誰に?中国語なんて話せない。
いや、そもそもどういう場所に連れて行かれるのかさえ見当もつかない。だがこのまま諦めて、はいそうですかと言うのか?諦めるな、思い出せ、諦めない自分を…!
機内を見渡してみたが武器になるようなものはない。なら、いっそ飛び降りるか…。
すると耳にプロペラの音と違う何かが聞こえてきた。静が窓から外を見ると、来生も気が付いたのか同じように外を見た。
そこに見えたのは黒のスポーツカーだ。まさか…そんなと静は目を疑った。ハンドルを握るのは、心だったのだ。
「は、ははは!!!なんてことだ!!まさか、こんなところに来るとは!!おい!ホバリングしろ!」
操縦する男に怒鳴るつけるように言い、静をシートから引き摺り下ろすとドアを開けた。爆風が目に飛び込み静は顔を覆った。
だが指の隙間から見えたのは、車から降りてきた心だったのだ。
「静ぁぁあああ!!!!!」
叫ぶ心の声に涙が溢れた。懐かしさか、愛おしさか、とにかく心の声に身体中が戦慄いた。
「心…心…」
「ははは!!!鬼塚、いや、佐野心!!毎日毎日、こいつの動画を全世界に流し続けてやる!犯され続ける様を、指を咥えて観ていろ!!!」
その時、機体がグラッと揺れ、来生がバランスを崩した。静はその一瞬の隙に来生の腹を蹴飛ばし、顎を掠めるように殴った。
雨宮が教えてくれたコツだ。案の定、来生は軽い脳震盪を起こしフラついて直ぐに起き上がってこれなさそうだった。そして静はその瞬間にドアに足を掛けた。
「飛べ!!!!静!!!!!」
心が両手を広げている。静は迷う事なく、飛行機から飛び出した。
「くそ!!!!!」
来生はフラつく身体を起こすと、シートの下に仕舞っていたアサルトライフルを取り出した。
びゅうびゅうと風が耳を掠めていく。下からの風圧で一瞬、身体が浮いているような感覚に陥る。いつか、橋から川へ大ジャンプをしたことがあるが、あの時の感覚に似ている…。
衝撃は互いに大きなものだった。受け止めた心は静ごとボンネットに叩きつけられ、息を詰めた。
静は心の身体に身体を叩きつけられた事で、どことは言えないくらいあちこちに激痛が走った。だが、ギュッと抱き締められ、それに返すように抱き締めると互いにホッと息をついた。
しかし次の瞬間、静の身体は反転してボンネットに押しつけられた。ハッとした時には無数の銃弾が顔や身体スレスレのところに突き刺さるように撃ち込まれ、静は悲鳴を上げた。
「はははは!!!ただでは殺さないぞ!!お前ら二人とも老大への手土産にしてくれる!!!…ぐう!!!!!」
アサルトライフルを撃ち続けながら叫ぶ来生の肩に、銃弾が撃ち込まれた。貫通した肩から血が溢れ、白いスーツを赤く染める。来生は後ろを振り返った。
「まさか、スナイパー…」
来生は肩を押さえてその場に蹲った。
銃声が止んだ事で目を開けると来生が蹲っているのが見えた。心もそれに気が付いて、腰から銃を取り出すとぐっと構えた。
だが銃身がブレる。奥歯をぎりっと噛みしめたが、胸元の熱に気が付いた。静を受け止めた事で傷口が開いたのだ。
「くそ!!」
叫ぶ心の銃を静がそっと取ると、見様見真似で構えた。心はそれを見ると自分を下敷きに静を寝転がせ、両手で銃を握らせると来生へと銃口を向けた。
「腋を締めろ、腕を張るな、肘を伸ばすな」
ど、ど、どっと鼓動がマグマのように吹き上がって高鳴るのがわかる。心の一言一言を聴きながら、汗が吹き出た。
フラッと立ち上がった来生が、銃を構える静に余裕とも取れる笑みを見た瞬間、静の中で迷いは消えた。
「撃て!!」
心の合図が早いかトリガーを引くのが早いか、静は銃を発砲した。衝撃は凄まじく、こんな小さなものからとは思えないほどの力が跳ね返ってきたが静はそれを渾身の力で耐えて狙いを外さなかった。
ボトボトと血が迸る。来生は自分の身に何が起こったのか分からなかったが、足下を真っ赤に染める血で何が起こったのか理解出来た。
だが反撃に出る前に痛みで叫喚した。右側の顔を抉るように撃ち抜かれ、その場に寝転がり暴れ踠き出した来生を操縦士が中へ引き摺り込みヘリは一気に飛び立った。
小さくなるプロペラの音に静は力が抜けたが、極度の緊張からか銃が手から離せず、思い出したように身体が震え出した。
その手を大きな手が包み込むようにすると、ゆっくりと銃を手から離した。ぐっしょりと濡れた手を見ていると、バイクの音がして静が身体を硬らせた。
バイクは大型で真っ黒にカラーリングされてた。バイクに跨がる男の身体はがっしりとしていて大柄だと言うのが分かった。だがフルフェイスのヘルメットも真っ黒だったので、顔は分からない。
身体つきで男だなと分かる程度で、あとは何も分からなかった。敵なのか味方なのか心を見上げると、心は銃を腰に仕舞いバイクの男にヘリの方を指差した。
「追え」
短く言うと男は頷くわけでも声を出すわけでもなく、スロットルを回してヘリの後を追うようにその場から去っていた。
「追え…って、来生の行先は中国だ!中国って言ってたから…」
言葉を続けようとした静の唇を心が塞いだ。久しぶりの口づけはいつもの煙草の香りや苦味もなかった。だが身体は思い出したように反応し、
静はボロッと涙を溢し、心の首に腕を回した。