04. A past story of Hisashi

花series Each opening


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いつも部屋に漂う、あの香り。成田 久志は、その香りが嫌いだった。
大阪の下町で生まれ、あまり治安の良いと言われる場所ではない所にある、今にも崩れ落ちそうなアパート。
家族四人が自分の居場所を確保するのも難しい狭い一室が、久志の家だった。
父親の明彦はいつも家に居た。そして、来る日も来る日も酒を飲み暴れていた。
久志は恐かった。暴れる明彦よりも、明彦が背中に背負った龍神が恐くて仕方が無かった。
明彦の背中の筋肉が動くたびに表情を変える龍神は、久志をいつも睨んでいた。

母親の志緒理はいつもどぎつい化粧をして、原色カラーの露出の高い服を着て夜になると家を出る。
幼い久志にも、自分の両親がまともではないことくらい分かっていた。
だが、不思議とそれを貶したり馬鹿にする子供は居なかった。多分、自分の親にでも口止めされてたんだろう。
誰に聞いたのか、明彦が”ヤクザ”だと知ったのはいつだったのか。

久志には志馬しまという二歳年上の兄が居た。兄弟というが、それも怪しいものだ。
志緒理は、そういう事を仕事にしていたのだから。
明彦は久志には手を出さなかったが、志馬と志緒理をよく殴った。
訳の分からない事を我鳴り、暴れ、時には警官が来た。玄関で訝る警官を、久志は役立たずと隠れた押し入れでいつも思った。
何か事が起こらないと動けないと言う警官。だから結局、来ても何も変わらないし、警官が帰ってから明彦は呼んだのは誰だとまた暴れるのだ。
久志が中学に入る頃、明彦は誰がどう見てもヤク中だった。いつも部屋に漂っていたあの独特な香りは、クスリを炙る香りだったのだろう。
だが、今では炙るだけではもの足りず、明彦はパイプを手に入れ血管注射をするまでになっていた。
血管注射は厄介だった。幻覚や幻聴が聞こえるのだろう。言われの無い言いがかりで志緒理は気絶するまで殴られ、志馬と久志はそれを止めた。
くたびれきった女だったが、二人にとっては母親だったのだ。

「俺、もう限界やなぁ」
錆び付いて、今にも外れそうなアパートの鉄の階段に二人で座っていると、志馬が言った。
志馬はろくに学校にも行かずに、喧嘩に女遊びと派手に遊んでいた。
父親がヤクザだというのは、悪ぶった子供には良いネタだった。志馬がそんなことを吹聴することはしなかったものの、その狭い世界では明彦の情報は一気に広まった。
ヤクザといってもチンピラ風情で何の肩書きもない、今ではただのヤク中だが、その息子の志馬は街でも評判の糞ガキになっていた。
「兄ちゃん、出て行くんか」
「オマエも出て行くんやったら早よ出て行け、おかんの事は忘れろ。あのクソがああなるまで逃げもせずに一緒におった、おかんが悪いねん。望月さんがな、一新一家に入るらしいねん。俺、一緒に連れて行ってもらおう思うてる。どうせろくに勉強もしてへんし、クソがあんなんや。俺もオマエもヤクザしか道ないぞ」
志馬は煙草を放り、溜め息をついた。地面に落ちたそれは、ジジッと小さく鳴いた。
夜の闇の中、種火だけがやたらと明るく灯っていた。
そして春から夏に変わりつつある頃、志馬は家を出た。

初めの頃は連絡のあった志馬も、次第に音沙汰が無くなり生死すら分からなくなった。
その頃には久志は、志馬が家を出た時と同じ年になっていた。明彦は相変わらずヤクに狂い、志緒理は汚れきった身体をまだ売っていた。
そして久志はというと、志馬が散々悪さをしていたせいか志馬の弟というだけで絡まれる事ばかりで、自然に腕っ節も強くなった。

暑い、暑い夏の夜だった。
女の家から久々に帰った久志は、志緒理に馬乗りになって拳を振り上げる明彦を見た瞬間、抑えきれない衝動に襲われた。
志緒理が叫びながら止めに入って来たが、そんな志緒理さえ撥ね除け明彦を殴り続けた。
ヤクで蝕まれた明彦の身体は成長した久志の拳に呆気なく、ただの肉の塊に姿を変えた。
ピクリとも動かなくなった明彦の身体。志緒理は痣だらけで衣服もボロボロ、髪も何もかも乱れきった状態のまま、呆然としていた。
久志はスンッと鼻を鳴らした。あの久志の嫌いな独特の香りは消えていた。
いつもとは違う、ただ事ではない状態を察知したのか、近所の人間が警察を呼んだのだろう。開け放たれたドアから、警官が”どうかされましたか?”と顔を出して来た。
志緒理は驚いた顔をして久志を見て”何もありません!”と叫んだが、久志は淡々とした口調で”人を殺しました”と告げた。
慌てた警官は直ぐに部屋に飛び込んで来て明彦の生死を確認していたが、それは誰が見てもただの肉の塊で、息を吹き返し動き出す事がないのは明白だった。
久志はすぐに警察署に連行され、取り調べを受けた。未成年の久志に警官は緩やかな口調で”何故、殺したんや?”と聞いて来たが、久志は”我慢ならんかったから”と告げた以上、口を閉ざした。
明彦の身体がシャブで蝕まれているのは、司法解剖をしなくても一目瞭然。シャブ中がどういう行動をするのかなんて、久志以上に刑事は分かっているだろう。
だから、我慢出来なかったと言う久志に刑事は何も言わなかった。
あんな生きていても世の中の何の役にも立たない、どちらかと言えば消費する酸素の無駄使いだと言いたい男でも殺すと罪になるなんてなと、久志は刑事に言った。
久志は反省の色と言われるものは微塵もなかったし、後悔も謝罪も口にしなかった。
これは長い事ぶち込まれるかもしれないなんて思っていたのに、志緒理が証言したのか志緒理の身体の暴行の傷が利いたのか、久志は一年だけ少年院に入院した。
ヤク中の父親から母親を救ったなんて何十年前の二時間ドラマみたいだが、久志自身は志緒理を助けたい一心で行ったんじゃないことくらい分かっていた。
邪魔になったのだ。明彦の存在そのものが。
そして、あの匂い。体臭に混じって漂う、ヤク独特のあの匂い。

少年院を出たとき、志緒理は迎えには来なかった。
消息不明だと聞かされたが、一度たりとも明彦と志緒理を家族だと思ったことなんてなかったので、何ら特別な感情は抱かなかった。
そして、そのまま身元引き受け人の男の元へ行った。だが一週間もしないうちに、身元引受人の元から逃げた。
執行猶予中でもないのに、そこに居る必要はないと思ったからだ。
これからどうするべきか街を彷徨っていると、声をかけられた。脇坂という、中学時代の遊んでいた連中の中に居た一人だった。

「へぇ、オマエほんまに大変やってんな」
脇坂は、所持金のない久志を大衆居酒屋に連れて行った。
長身の久志と大人びた脇坂を未成年だと思う店員は居なかったようで、久志は遠慮なくビールを頼んだ。
「あの人、島津さんなぁ。オマエが入れられてちょっとしてから、パクられてん。オマエほどちゃうで、ただの恐喝。しかもスケールちっせぇの」
脇坂はそう言って笑った。脇坂は小柄な男だった。
大人びて見える外見とは裏腹に気が小さく喧嘩も弱い男で、いつも誰かの後ろに付いて歩く様な男だった。
根は悪くはない。長いものには巻かれろという言葉がある様に、強いものに諂うのも生き残る術だとは思う。
ただ久志にはそれが出来なくて、ことあるごとにトラブルを起こしていた。
「島津…あんま覚えてへん。俺、正直オマエに声かけられた時も、誰やねん状態やった」
「せやろな。つるむ言うても、お前は特定の人間とはおらんかったし、島津さんのことかてお前あんま先輩に媚びんかったしな。そういえば志馬さんは?」
「知らん。もう何年も会うてない。一新一家って組入るて、家出たまんま」
「一新一家ってあの一新一家?ほな、関東におるんか?」
「知らんて。俺、組とか詳しないし兄貴も家出てから、ほんまにたまにしか連絡してへんかったから。それもすぐになくなったから、多分、俺が親父ヤったんもぶち込まれてたんも知らんわ」
脇坂は、”へぇ”なんて言ってテーブルに並べられた料理から、ししゃもを取り食べた。
多分、志馬が家を出たのは、自分が明彦を殺してしまいそうだと思ったからだろう。志馬も久志と同じように、あの匂いが嫌いだったんだ。
「で、久志はこれからどないするん?」
「考えてへん。ろくすぽ学校も行ってへんし年少出やし、仕事探すんも面倒かもしらん」
「……俺な、今、高幡さんに誘われてんねん」
「高幡?」
久志は記憶を辿った。聞いたことがある名前だ、高幡。
だが、朧気な記憶は朧気なまま、鮮明になることはなかった。
「あかん、分からん。誰や」
「高幡康樹だよ、二個上の。お前の兄貴の仲間だろ、多分」
「聞いたことあるかな。で、何やねん。何か仕事でもするんか?」
「関東行くねん。高幡さん、新生会って組のチンピラなってな、あっちでスケコマシするから、転がす女調達しろって」
「ふーん」
「お前も来いよ。お前男前やし、志馬さんの弟やから使ってもらえんで」
脇坂の言葉に久志は鼻で笑い、ビールをグッと飲んだ。
「嫌や。俺のおかん、ずっと売りやってたんやぞ。何でそないなもんの片棒かつがなあかんねん。第一、その高幡になんの恩義もあらへんのに、使いっ走りみたいな真似出来ひんわ」
「…まあな。俺ら、あの人にずっと使われてきたから」
脇坂は少しばつの悪そうな顔をして笑った。
「一新一家って関東にあるんか?」
久志は思い立った様に脇坂に問いかけた。
「え?せや、俺も詳しないけど関東にあるんは確かや。あそこは分家ないから。めっちゃでっかい組やぞ」
「…脇坂、お前高幡といつ行くねん?」
「いや、高幡さんは先に行った。他の奴等は明日やけど、俺は用事あって来週、新幹線で行くねん」
「新幹線か。なぁ、夜行バスにしてくれへんか?来週までに金作るから、あっちまで一緒に行こうや」
「え、そりゃかまへんけど。なに、行くんか?」
脇坂は少し驚いた様な顔をして、久志を見たが久志は首を振った。
「高幡の仕事はせん。ただあっち行きたいねん。ちょっと兄貴探してみる」
久志はそう言って、濃い味付けの焼きそばを口に押し込んだ。
志馬が自分達にはヤクザになる道しかないと言った意味が、何となく分かった。
久志は父親を殺しているし、志馬以上にヤクザになるしかなかった。道は一本しかないと思った。

とにかく金が必要だと久志は年を偽り、日雇いの仕事に就いた。若い身体は短い睡眠でも疲れを微塵も感じなかった。
とりあえず早急に必要なのは、片道の交通費と向こうでの飲食代。寝るのは最悪、路上でもいい。
そして向こうで何か日雇いでもしながら、志馬を探せばいい。
無鉄砲な計画にも思えたが、関西に居たところで自分には何のプラスにもならない。この土地には、久志の居場所はないと思った。
誰でも知っている土地。それでも久志の知らない土地。久志はその新たな土地に何かしらの希望を持っていた。
久志は旅立ちの日まで、寝る間も惜しんで働いた。金は予想以上に稼げたが、有り余るほどというには程遠かった。
それでも夜行バスで揺られながら、不安だなんて微塵も持たずに眠りについた。

「ほな、何かあったら連絡してや。あ、携帯契約したら、とりあえず連絡してや」
関東に着いて、脇坂は久志に携帯番号を書いた紙を持たせた。久志はそれを受け取ると、にっこり笑って頷いた。
「知り合いとかおらんやろ?兄貴もすぐに見つかるか分からんし」
「ああ、オマエもあんまり無茶すんなよ。そないに強ないんやし」
そう言う久志に脇坂は苦笑いをして、人ごみに消えて行った。
久志は脇坂と別れてすぐ、脇坂の携帯番号の書かれた紙を破って捨てた。
何か、逃げ道を作っては、志馬に会えない様な気がしたのだ。
関東は関西よりも人の顔が冷たく見えた。聞き慣れない言葉が飛び交い、男も女も関西の色とは違った。
久志はあてもなく街を徘徊した。地図も何も持たない。知ってる人間も居ない。
何もかも初めての中、久志は歩いた。人の多さに疲弊して、少し静かな場所へ逃げ込んだ。
「おい!!!そこのガキ!!!」
逃げ込んだ途端、乱暴な声が響いた。周りを見渡せば、上品なスーツを着た強面の男が久志を見ていた。
類は友を呼ぶのかなんて思いつつも、久志は躊躇う事なく男に近づいた。
「なんすか?」
「車が動かん、お前見れるか?」
横暴な要求だと思ったが久志は子供の頃から車が好きで、その類いの本を読み漁っていた。
車はベンツSL320。なかなか古い車だ。久志はボンネットを開けてエンジンを見渡した。
迷うことなく手を入れて、中を覗き込む。そして息を吐くと男へ振り返った。
「あかん。俺は直せん」
「直せん?分からんくせにボンネット開けたのか?」
男はまるで苛立ちを久志にぶつける様にに、低い声で言う。とんだ輩だと久志は思った。
「ちゃいますよ、オイルパイプ切れてる。これ交換せな走らんから。応急処置しようにも、この外産の車は専用工具が要るねん。業者呼んで引っ張ってもろうた方がええわ」
久志はそう言うと、ボンネットを閉めた。
「けっ、ポンコツが。お前詳しいな」
「…まぁ、好きやから。実際に何か弄ったことないけど。ほな」
久志がその場を立ち去ろうとすると、男が久志の腕を掴んだ。
「お前、関西の人間か?」
「まぁ…」
「家どこや?」
「…まだ決まってへん」
「あん?」
「さっきここに着いて、街うろついて、ここであんさんに声かけられてん。この土地に入って二時間ほどしか経ってへんから、家なんかない」
尻込みする事無く言い放つ久志に、男は口元だけ歪めて笑った。
「ついてこい」
男はそう言うと、携帯を取り出し歩き出した。
久志は掛かったと内心ほくそ笑みながら、男の後に続いた。見た目から男は異質な雰囲気が漂っていた。
早い話が堅気ではないという雰囲気だ。志馬を探すのに一番手っ取り早い方法は、そういう人間に接触することと考えていたので、ラッキーだと思った。
「…のビル前にあるから、柊に取りに来させろ。キー付けっぱなしやからな。早く来て持って行け言え」
男は誰かに、先程の車の件で連絡しているようだった。
キーをつけたままだなんて盗んでくださいと言っているのも同じだが、車は動かないし、万が一動いたとしても黒塗りのフルスモベンツを誰が持っていくのか。
「お前、名前は?」
男が携帯を閉じて、久志を振り返らずに聞いて来た。
上品なスーツに車も外車。ポンコツだったが、持ち物などが全て金がかかっていると思った。
「おい、名前」
なかなか答えない久志に、男が振り返り聞いて来る。
「あ、久志…」
「久志か、飯は食べたか?」
「バスの中で…」
「バス?オマエ、バスで来たのか?ご苦労なこった。じゃあ上京祝いに上手いもん食わしたるわ」
男はタクシーを拾うと乗り込んだ。久志はそれに迷うこと無く続いた。
車窓から見える街並みはどれも目新しく、少年院を出て間がない久志には、それがテレビでよく見る街の一角だということは解らなかった。
暫くして車は停まり、久志は男に連れられるまま歩いた。少し歩くと、男はまだ暖簾も出していない店の格子を開け、中に入り込む。
久志も黙って店の中に入った。小料理屋だろうか?カウンターがあり椅子が十脚ほど。
カウンターの前に置かれたガラスのケースにはまだ何も入れられてはなく、中の厨房と思わしき所の背には食器の類いが並んでいた。
「あら、山瀬さん、いらっしゃい」
奥から女が顔を出した。年増だが綺麗な女だった。
着物を着て綺麗に髪を結い上げ、濃すぎず、そして上品な化粧。女は憂いのある目で久志を見ると、優しげに微笑んだ。
久志はそれに頭を下げ応えた。
「女将の綾子だ。これは久志。何か出せるか?」
山瀬はそう言うと、並べられた椅子の一つに腰掛けた。それを見て、久志も山瀬の隣に座る。
綾子は久志達の前の鍋に火を入れ、何かを温め出した。何分も経たないうちに、良い臭いが漂い久志の腹を刺激した。
「この子、新入り?」
「拾った」
山瀬は煙草を銜えた。すると、綾子はすかさず灰皿を差し出した。
「拾ったって犬や猫みたいにねぇ」
綾子は久志を見たが、確かに拾われたも同じかもしれないなと思った。
ほどなくして、久志の前に南瓜のそぼろ餡掛けが綺麗に盛り付けられ出された。
久志は手を合わせると、それにがっついた。そんな久志を見て余程腹を空かしているのかと思ったのか、綾子は大盛りのご飯と浅蜊の味噌汁を出し、それにくわえ茄子のお浸しや金平を出した。
「ああ、あれも食べるかしら」
綾子はどこか嬉しそうに揚げ物を始めると、きつね色に揚がった唐揚げを出してきた。
「ガキの食い物じゃねーか」
「あら、この子まだ子供よ」
綾子は笑いながら、山瀬にも南瓜のそぼろ餡掛けを出した。さすがというのか、女は目敏いなと久志は思った。
旨いものを食わすと言うだけあって、綾子の料理は絶品だった。
関東の料理は味が濃いと聞いていたが、何もかもが程好い加減で、久志はあっという間に平らげた。
「可愛いわねぇ」
綾子は久志にお茶を出しながら言った。
「欲しけりゃやる」
「もう!犬や猫みたいに言わないでったら」
綾子は言いながら、久志が平らげた料理の皿を下げた。
「ああ、あの子どう?」
「あの子?」
「雅ちゃん」
「ああ、雅なら文句一つ言わんと働いてる。頭のキレる男だからか、下っぱで一番使い物なるな。まあ、残るのかは知らねぇけどなぁ」
山瀬は茶を啜りながら、新聞を広げた。
「あんな綺麗な子なのに」
「気の毒だとは思うがな、あれはあれで居場所見つけれたんじゃねぇか?」
「あの、こんなん聞いてええんか分からんけど、組の人?」
久志が聞くと、綾子は少し驚いた様子だった。
知らずに付いて来たのかと言いたげで、そして何も告げずに拾ったのかと、山瀬を軽く睨み付けていた。
「何か不都合か?」
「いや…ちゃう」
「ちょっと、関西弁じゃないの。まさか、右も左も分からない子を引っ掛けたの?」
綾子は山瀬を咎める様に言った。それに山瀬は頭を掻きながら、煙草を銜えた。
「車故障してな、こいつが見てくれた」
「もう、あんたもダメよ。見てくれからしたら分かるでしょ?庶民かどうかなんて」
山瀬に言っても無駄だと思ったのか、綾子は久志に矛先を向け始めた。
庶民かどうか、それなら自分は庶民なんだろうか?
「兄貴探してるから」
「兄貴?」
久志の言葉に山瀬が反応を見せた。それに、久志は頷いた。
「一新一家ってどうやったら行けんのかなって。兄貴が一新一家入るって家出たから、一新一家行けば逢えるんかなって。でも、まさかチャイム鳴らして毎度なんか言われへんし、兄貴がおるかも分からんし」
「一新一家に入りたいのか?兄貴に逢いたいだけか」
山瀬は新聞を畳みながら聞いて来た。
組に入るだなんて、考えてもなかった。ヤクザになるしかないと志馬には言われたが、それじゃあなると簡単になれるものでもないだろう。
「分からん…でも、道はそれしかあらへんかなって」
「ちょっと待ちなさい。あなた何を言ってるの、お母さんとお父さんは?」
久志が自暴自棄になっていると思ったのか、綾子は少し強い口調で聞いて来た。
「おとんは…俺が殺した。おかんは逃げておらん」
久志が綾子をしっかりした瞳で見つめ言うと、綾子は額に手を当てた。
久志の道がないという意味が解った様な顔だった。
「何で殺った」
「なんでって、シャブ中でおかんを殴ってたから。チンピラでクスリだけ覚えてシャブ中なって、幻覚と幻聴でワケわからんくなって、おかん殴ってたから殴った」
綾子は何も言わなかった。そして山瀬は、煙草に火をつけて何か考えている風だった。
もしかして、この山瀬の組と一新一家は敵対組かもしれない。軽率に一新一家と言った事を久志は後悔していた。
「一新一家なぁ…兄貴に逢いたい訳じゃないなら、うちに来い」
久志の思惑とは違い、山瀬の誘いに久志は驚いた。
「…うち?」
「鬼塚組。お前んとこに風間組ってあるやろ」
そう言われて久志は記憶を辿った。
治安だけは悪い土地だった。確か家の近くに事務所があったなと久志は思った。
「ああ、…ある。近くに事務所あったから」
「うちはそこの系列組になる。お前は車に詳しいから、車の勉強せぇ。学校通って資格取れ」
「え…俺、資格なんかいらんし」
「ダメよ、資格は取りなさい。山瀬さんに出してもらえば良いのよ。この人、その組の幹部なんだから。もし組に馴染めなかったら、資格があれば働き口も見つかるじゃない」
綾子は、久志にそうしなさいと言い聞かせた。
「今な、お前みたいにお試し中なんが一人おる。年も近いだろうし、それは風間組の拾いもんだ。今更一匹増えたところで変わりゃしねぇさ」
山瀬はククッと笑った。
久志は話がどんどん違うほうへ流れたなと思いつつも、断ったところで行く宛もないのだからと頷いた。
店を出ると、迎えの車が来ていた。
幹部とは本当の話らしく、その迎えの車と組員の数で納得した。
事務所に行く道中で、綾子が事故で息子を亡くしていると聞かされた。生きていれば久志と同じ年らしく、時間があるときは綾子の店に顔を出せと言われた。
振り返ると、綾子は久志の乗った車が見えなくなるまで、ずっと手を振って見送っていた。
母親とは本来、ああいう感じなのかと久志は思った。