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佐々木紫輝は無機質な遺体安置所の部屋の中、目の前に横たわる遺体を見ていた。その表情に色はなく、感情が欠落しているように見えた。
この部屋に入る家族は泣き叫ぶか言葉を失い崩れ落ちるか、もしくは静かに涙を流すか…。だが、佐々木はそのどれにも該当せず、ただ目に焼き付けるように、ジッと遺体を見ていた。
そして暫く眺めたのち、長い身体を折り曲げて顔色のなくなった額についた髪を梳かし、入り口に立つ刑事に振り返り頭を下げた。
ガンガンと大きな音が工場に響き、視界が悪い中、雨水の溜まった地面に顔をつけた。ぼんやりとした視界の中、男がドラム缶のような物を鉄パイプで殴るのが見える。
その音が煩わしくもあり、その音のせいなのか長らく続いた不眠のせいなのか耳鳴りも消えずに顔を歪めた。
「う…」思わず声が漏れた。身体中が痛かったが、どこが痛いとか言えるようなものではなく、もう全部痛いという感覚だった。何なら顔を歪めるだけで全身に激痛が走る感じだ。
ああ、でもまだやり遂げてないのに、ここで終わるわけにはいかないと思いながらも顔を動かすことさえも煩わしく、もう、このまま死んでもいいかなとも思った。
「おい、やかましいぞ。やめろ」
声が聞こえた。それと同時に耳障りな音は止み、本来の夜の静けさが戻った。だがすぐにその静寂は野太い声に掻き消された。
そこに居た男たちが応援団よろしく一斉に挨拶をしたのだ。その状況を見て、そこそこ重鎮が出てきたなと思った。
小さく息を吐く。ようやくかと、佐々木にとって進まない時計のように止まった時が、少しづつ動き出した瞬間だった。
ここで気を失うわけにはいかないと飛びそうな意識をどうにか捕まえると、軋み悲鳴を上げる身体をやっとの思いで起こした。
「こいつか、うちの金、引っこ抜いたペテン師は」
佐々木の目の前に男がしゃがむ。凄みのある目は闇を見過ぎたようで、佐々木には虚ろに見えた。
その虚ろな目を見る佐々木を、男はジッと見て頷いた。
「ほう、いい目しとるな」
男は笑うと手を出した。その手に見覚えのある財布が置かれた。佐々木の財布だ。
男はその財布を探り免許証を取り出すと、首を捻った。
「佐々木…。佐々木…うーん、おい、雅」
男が振り返ると、そこにはこの場に似つかわしくない少年が立っていた。パーカーにジーンズにスニーカー。まさか高校生?
いや、高校生なわけはないとは思うが、そう見えるほどに若く、そして恐ろしく綺麗な顔をした男だったのだ。
「なに、山瀬さん」
「読めん!」
男は山瀬というようで、読めないと訴えたそれに雅は息を吐いた。そして免許証を受け取ると、佐々木の顔を見た。
「綺麗な名前だね。紫、輝く…しき、じゃない?」
「ふふ、正解ですよ」
佐々木が笑うと、山瀬は珍しい名前だなと眉を上げた。本人に聞けばいいものを、わざわざこのあどけなさが残る少年に聞いたのはなぜだろう。
疑問には思ったが、思考が追いつかない。身体のダメージは頭にもきているようで、痛みで考えることを避けているように思えた。
「で、あんた、自分がやらかしたことわかっとるんか」
「こんなにも早くバレたのは意外でしたね。もう少し、いけると思ったんですけど」
「わかってやっとると。じゃあ、このまま殺されても文句はないんじゃの」
「文句はありませんが、お願いを聞いてはもらえませんか?」
「おいおい、立場わかっとらんやろ」
山瀬の呆れ顔に佐々木はにっこりと笑った。
「金は返しますし、何ならもっと増やしてもいい。僕の命も要りませんし、身体を切り刻んで売ってくれてもいい。ただ僕に手を貸してはいただけませんか?」
「下手な命乞いか?回りくどいやり方はいらんぞ。まぁ、とりあえず話は聞いてやるわ」
山瀬が腰を上げると、若い男がパイプ椅子を持ってきて拡げた。山瀬はそこに腰を落とすと、煙草を銜えて火を点けた。そして、その煙草を佐々木に差し出した。
佐々木は愛煙家ではなかったが、とりあえずそれを銜えて、ゆったりと吸い込んだ。途端、口の中に痛みが走り、思わず咳込んだ。
ごほごほ咳込んでいると、持っていた煙草が奪われた。顔を上げると先ほどの綺麗な男、雅だった。
「ね、これだけ殴りつけられてんのに、煙草吸わすなんて意地悪じゃない。わざとなの?」
「あ、そっか。すまんすまん」
本気で分かっていなかったようで、山瀬は笑って言うと、で?と眉を上げた。
「仁流会鬼塚組、たぶん、そこが一番最強だろうと思って仕掛けました。えーっと、山瀬さん、でいいですかね?」
「おう、若頭の山瀬だ」
ああ、やっぱりと佐々木は目を輝かせた。若頭の名前を聞いた瞬間に、先ほどまでに全身を覆っていた痛みが麻薬でも打ったかのように消え去ったのだ。
そしてフリーズしていたコンピューターのように動かなかった思考がハイスピードで動き出し、佐々木は胡座をかいて居住まいを正した。
「井島会ってあるでしょう?ご存知ですか?」
「井島会?ああ、そこがどないした」
「井島会の仰木英輔を殺す手伝いをしてもらえませんか?」
山瀬は佐々木の要求に目を丸くし、次の瞬間には大きな声を上げて笑った。確かに、突拍子もないお願いだろう。笑われるのも仕方がない。
だが、そもそも話を聞いてもらえたことが奇跡に近い。笑われたくらいでめげるわけがなかった。
「井島会の仰木、最近では島を広げて裏カジノも初めて羽振りが良くなってますよね。鬼塚組としても、置いておける存在じゃないんじゃないですか?」
「おいおい。頭殴られておかしくなっちまったんじゃねぇか?第一、てめぇは俺に物を頼める立場じゃねぇだろう」
「確かにそうですけど、願いを叶えてくれたらあなたに利益をもたらすと約束しますよ」
「利益だってよぉ」
山瀬は笑って雅を振り返った。雅はしばらくのあいだ佐々木を見つめた。佐々木の目をジッと見て、まるで瞳の奥底に潜む怨念にも似た感情を覗き見ているようだった。
佐々木はそんな雅の観察に目を背けることなく視線を合わせた。そして佐々木もまた雅を観察した。
どこか影があるように見えるが、負けん気の強さが滲み出ている目を着飾るように二つ並ぶ黒子が印象的だ。
明らかに男ではあるが、身体の線の細さのせいで少女のようと揶揄するわけではないが、そう言いたくなるほどに中性的だった。
中性的で淫猥な感じがするのは、彼自身の雰囲気のせいだろうか。そんなことを考えていると、雅がフッと笑い山瀬に近づき耳打ちをした。
「うーん、」
「いいでしょ?」
雅はにっこり笑う。まるで魔性だなと佐々木は思いながら山瀬を見た。
何を言われたのかは知らないが、恐らく雅は佐々木に興味を持ったはずだ。見た目は少年のようなあどけなさがあるが、とても聡明に見えた。
「無理だったらダメだぞ!」
父親のように言う山瀬ににっこり笑って、雅は佐々木を手招きした。佐々木は痛む身体を何とか動かし、立ち上がると山瀬がぎょっとした顔を見せた。
「でっか!!」
言われなれてる言葉だが、山瀬に言われると不思議と悪い気はしなかった。
「こっち」
言われ、雅の後に続く。すると雅は工場の出入り口へ向かってスタスタと歩き出してしまった。
いいのかと振り返ったが、特に動きはない。なら、着いて行くかとそのまま後に続いた。
工場の外に無造作に停められた外車。どれもこれも黒ばかりで、極道は黒しかダメなのかなと思った。
「久志」
呼ぶ方向を見ると、長身の男が立っていた。黒のスーツを着崩した様はチンピラだ。
久志は佐々木を見ると、やはりでっか!と笑った。
「行くよ」
雅が後部座席を開けて佐々木を促した。
さて、これは乗っても大丈夫なのか。もしかして始末される感じなのかなと思いながらも、逃げるという選択肢はなかったので素直に乗り込んだ。その隣に雅が乗り込み、久志が運転席に乗り込んだ。
「おじいちゃんとこ」
え、誰?と思わず言いかけた。おじいちゃんって誰の?と雅を見たが、説明する気はないようでそっぽを向いている。
佐々木は仕方ないかと車窓から街並みを眺めた。
もう見れないと思ったのになぁと思いながら、顔を撫でた。あちこちに痛みが走り、シャツの袖口は血で汚れている。
落ちるかなと思いながらも、まだ着替える気のある自分に笑った。
「はい、着いた」
30分ほど経った頃だろうか。雅に言われ外を見ると一軒家の前だった。年季の入ったそこは、嶋田と木彫りの表札が掲げられている普通の家だった。
「降りて」
言われ降りると、雅は色あせたインターフォンを押した。ビーっと間抜けな音がしてから少しして、玄関の明かりが灯った。それからすぐに、ドアが開き人が顔を出した。
「…おじいちゃん」
思わず口にしたが、本当に高齢の男だった。男は雅を見てから後ろに立つ佐々木を見ると、顎を動かした。それに雅は門扉を開き中に入ったので、佐々木も後に続いた。
中も普通の民家だった。少し古い造りの内装は鴨居にしても照明にしても低く、長身の佐々木は身を屈めて歩くしかなかった。
どこか懐かしい香りを家中に感じながら、雅たちに続くと奥の部屋のドアを開あけられ招かれた。促されるまま中に入れば、病院の診察室のような部屋が出てきた。
「しかしお前さんとこの連中は誰も彼も、連絡を入れんなぁ」
「ごめんね」
言葉だけと言えそうな謝罪を言って、雅は佐々木の手を引いて丸椅子に座らせた。薬品の並ぶ棚。机には古い医療関係の本が並ぶ。
「あの、お医者さん、ですか?」
「嶋田のおじいちゃんはお医者さん」
「モグリだがな」
嶋田は佐々木の顔を見ると、雅に向かって指を指した。雅は近くにあった銀色のワゴンを引っ張ると、嶋田の横につけた。
「房恵ちゃんは?」
「町内会の慰安旅行だって昨日からおらんわ」
「おじいちゃん、行かなかったんだ」
「お前らがいつ来るか分からんのに、行けるわけなかろう。今日だってみてみぃ、案の定やってきたろうが。まったく、早う次を見つけてくれんと困るわい。ほれ、あんた、ちょっと沁みるからな」
嶋田は消毒液を含ませた綿をピンセットで掴んで、佐々木の口許に当てた。言われた通り激痛が走り、顔を歪めた。
軟膏などを塗られ手際よく処置していく様は、モグリといえども医者の手つきだ。多少、乱暴さはあるが贅沢は言えない。
「派手にやられたなぁ。ほれ、前開けぇ」
佐々木はシャツのボタンを外して開いて見せた。思った通り、酷い有様だ。
「お前がやったのか?」
「え?違うけど」
「じゃあ良かった、あんた、ラッキーだ。こいつがやるとなぁ、大概のやつが肝臓潰されかかっててなぁ。まぁ痛みは酷いだろうが、折れてはしとらんだろう。湿布貼って様子見るか」
嶋田は大きな湿布を取り出し、処置し出した。折れてないと言われたが、触れられただけで激痛が走った。これ、折れてるでしょうとは言えずに、ただ頷いた。
「あんた背が高いから姿勢が悪ぅなっとるけど、しゃんとして歩かんと背骨持ってかれるからな」
嶋田は腕や首などの傷も処置して、序でにと聴診器を当てた。
「風邪かぁ?あまりええ胸の音じゃあないなぁ」
「市販の薬じゃあ、なかなか治らなくて」
「痛み止めと一緒に薬出しといたるから、それ飲んどけ」
「ありがとうございます」
佐々木は衣服を直すと頭を上げた。
嶋田は薬を用意してくるかなと席を立った。その嶋田が居た椅子に雅が座ると、久志がタイミングよく入ってきた。
その手にはコンビニの袋がぶら下がっていた。