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「ふさちゃんは?」
「町内会の慰安旅行だって」
「そうなん?ちぇっ、味噌汁作ってもらおう思ったのに」
久志はそう言うと、どこからか椅子を引っ張り出しそこに腰かけた。
そして手に持っていたコンビニの袋を広げると、コーヒーを取り出し雅と佐々木に渡した。
「ありがとう…」
何だか拍子抜けだなと佐々木は缶コーヒーを手で弄んだ。見ると、久志は袋からパンを取り出し齧り付いていた。
それを雅が睨み付け、次にはため息をついた。
「で、なんであんなことしたの?」
久志は放っておいて、雅は佐々木に向かいあった。佐々木は頼りなさげに笑い、缶コーヒーのプルを引き上げた。
「もしかして、君?組に入るはずの金、掠め取ったの気付いたの」
「どうやったの?」
佐々木は缶コーヒーを一口飲むと、胸ポケットから名刺ケースを取り出した。そして一枚取ると、雅に差し出した。
「冗談でしょ?」
「元だよ?」
久志が後ろから覗き込むと、国内一の大手銀行の名前が書いてあった。肩書きはマネージャー。
しかも外資コンサルタントだ。
「ああ、だから利益をもたらすね。金の扱いなんてお手の物ってわけだ?」
「まぁね、それでも分からないようにしたんだけどなぁ。君、すごいね」
感心したように言うと、雅がぐっと佐々木に顔を近づけた。長い睫毛に縁取られた漆黒の目が、改めて佐々木を観察しているように見えた。
若さを象徴するようなシミひとつない肌と、どこか妖艶さが見える口元は魔性だなと思った。そして益々、極道には不似合いだとも思った。
もしかして山瀬の愛人とか?極道社会では男色家は珍しくないと聞いた。男に対して使えるのかは分からないが、雅ほどの美貌の持ち主ならば引く手数多ではないだろうか。
雅が佐々木を観察するように佐々木も雅を観察していることに気が付いたのか、雅が目を細めて笑みを浮かべた。
「ね、それってリスキーだよね?俺がいたからあんたは助かってるけど、失敗してマンションの人柱になってる可能性もあったわけだよ?」
「え、君たちそんなことしてるの?マンションとか買うの考えちゃうなぁ」
「関節、大事だろ?」
惚けると先程までの表情とは一変して、鋭利なナイフでも突きつけてくるような鋭い眼光に変わった。嶋田が言う、肝臓を潰すと言うのは強ち大袈裟に言っているわけではないようだ。
「まぁまぁ。落ち着いて。確かに失敗するかもしれない可能性はあった。でも、それを恐れて行動しないという選択は、僕にはなかったんだ」
「井島会の仰木に何の恨みがあんねん」
久志が問いかけると、佐々木はこれまでの穏やかな表情が一変した酷薄さを現した顔で鼻を鳴らした。
「去年、交通事故である親子が轢き逃げに合いました。雨の日で、母親は幼い子が急に高熱が出たので慌てて救急病院に行くところでした。歩行者信号は青。決して見通しが悪いわけではない。その親子にノンブレーキでBMWが突っ込んできた。親子はほぼ即死でしたが、最後の最後、母親は我が子の元に行くために地面を這ったあとがありました。そのBMWは井島会のもので、運転していたのは仰木なのに出頭してきたのは下っ端のチンピラだった。よくある話だけど、新聞の小さな小さな記事にしかならなかった。…おしまい」
「替え玉か。それ、嫁はんと娘か」
「僕は未婚ですよ。姉と姪です。僕ら兄弟は早くに両親を亡くしましてね。僕にとって姉は母であり、姉であり、唯一の家族だったんですよ。その姉が未婚でしたけど姪を生んで、家族が増えて、来年は小学校でね。僕はランドセルを買う約束を姪としていて、次の休みには一緒に見に行く約束でしたけど、叶わなくなって」
「ね、本当に仰木が運転してたの?」
最もな質問だ。だが佐々木は笑い出しそうな口を手で抑えて頷いた。
「君のところも気を付けた方が良い。井島会のチンピラは、金を渡せば何でも話してくれましたよ。組の内部事情まで事細かにね」
「一人で調べたの?」
「情報は金で買えますから」
「復讐のために、銀行辞めたの?」
「姉も姪も居なくなれば、僕には何もないんでね。何もないのに働くほど勤勉ではないんで」
「ね、資金運用には強いんだよね?」
「おい、雅」
佐々木を質問責めにしている、即ち、食い付いてきた雅を咎めるように久志が呼ぶが雅はそれを無視して言葉を続けた。
「ね、井島会潰すのに俺が手を貸してやるから、あんたの捨てる人生、俺にくれない?仲間が欲しいんだ」
「仲間って、二次団体でも作るつもりですか?」
雅の提案に佐々木は目を丸くした。手を貸して貰えるのはありがたい話だが、仲間とはどういうことだ?
雅は缶コーヒーのプルを引き上げて、口をつけた。
「うーん、ここだけの話、うちの組って二分されてんだよね。数的には半々。向こう側に勝つためには力も要るけど、金も要る。俺だけじゃ正直限界で仲間を探してたんだけど、あんたの頭があれば一発で片付くじゃない?」
「その話、聞いちゃった僕は…死ぬか仲間になるかしかないんじゃないんですか?」
「俺はさ、賢い男を見抜く力はあると思うんだよね。あんたは馬鹿じゃない。今は力ばっか手に入って、頭が足りないんだよね」
雅は自分の頭を指で突いた。
「君は…あの山瀬さんの?」
「俺とこいつ…久志は山瀬さんを担ぎ上げることしか頭にないの。良い人だろ、あの人」
「ヤクザを良い人とは言えませんけど、僕は僕の願いさえ聞いてくれればいいんですよ、何だってね」
「俺が、仰木をあんたの前に連れてきてやるよ。仰木を生かすも殺すもあんた次第だ」
連れてくるだなんて、そんな簡単な話ではないのは佐々木でも分かる。今は敵対していないとしても井島会に鬼塚組が手を出せばどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
そんなリスクを幹部でもないであろう雅一人が背負うというのだろうか?
「井島会に襲撃でもするんですか?」
「まさか、俺には今はそんな力はないし、それに仁流会も一仕事終えたばっかで余力はないから他の組とモメてる場合じゃないんだよね。隙を見せた瞬間にヤられるなんて、馬鹿みたいでしょ?あんたは仰木さえ手に入れば良い。俺はあんたのその金勘定のスペックが欲しい。ウィンウィンだろ?」
「そうですね…」
じゃあ決まりだと、雅は妖艶な笑みを浮かべた。
「で、どうやるんですか?」
「そうだなぁ…。来週、埠頭倉庫に来てよ。連れて来てあげるから」
「来週?連れてくるんですか?そんなすぐに?」
「簡単だよ、拉致るくらいわね。で、あんたはその間、下手な動きしてほしくないから大人しくしておいてくれる?」
「動きたくても動けませんね、この身体じゃ」
佐々木は頼りなさ気に笑うと、腹を摩った。
豪雨だった。季節外れの集中豪雨は、容赦無く交通網を破壊した。
都会のライフラインなんか知れてるなぁと、佐々木は埠頭倉庫の近くに車を停めてラジオを聴いていた。
本当に来るのか、それとも騙されたのかと思っていると、携帯が振動した。非通知の電話に躊躇いなく出ると、やはり、雅だった。
「埠頭倉庫に着いてますよ。えーと、雨でよく見えなくてね。F4って書いてますね。ああ、なるほど。反対ですか」
佐々木は雅の案内に沿って車を走らせた。着いた場所の倉庫のシャッターは開いており、佐々木はそこに車を滑り込ませた。
広い倉庫は中には何もなく、使われていないようだった。車を降りると、シャッターが閉まる音が響いた。ギィギィと嫌な音を出すそれに一瞬だけ視線を向けて元に戻すと、バンが一台停まっていて、その前に雅が立っていた。
黒のミリタリーコートにジーンズ姿の雅はやはり高校生くらいの若者に見え、一体いくつなんだろうと思った。
「約束のもの」
雅がバンの後ろを開けると、黒い大きなビニール袋に入ったものが転がり落ちて来た。
もぞもぞ動くそれに歩み寄り、手を掛けようとするとその手を掴まれた。華奢だと思っていたのに、その力に驚く。
「ね、約束、忘れないでね」
「ああ、僕の人生なんて好きにしてくださって構いませんよ。君の望む通りに何でもしてあげますよ」
佐々木の言葉に満足したのか、雅は手を離すと一歩下がった。
佐々木は自分の鼓動が高鳴るのを感じた。先ほどまでは冷静で居れたのに、高揚感が拭えない。全身の血が一気に駆け巡り、逆流して沸騰する。
最近の不摂生と怪我のせいで蒼白かった顔色が、桜の花の色のように色づく。今この時のために全て捨ててきた。全てを奪った男に復讐するために。
震え、焦る手をどうにか落ち着かせてビニール袋を破くと、中にいた仰木に笑った。
「どうして殴るんですか」
「暴れたから」
雅はさも当然とばかりに言うと、後部座席にヒョイっと乗り込んだ。運転席には久志が見えた。
「後始末のときにまた呼んでくれる?」
「ええ、その時はまたお願い致します」
佐々木が頭を下げると袋の中の仰木が暴れ出したので、容赦無くその頭を踏みつけた。
身体をガムテープでぐるぐるに縛られ、猿轡をされているので喧嘩慣れしていない佐々木でもそれくらいは容易だった。
雅はその所業に顔色ひとつ変えずに、ドアを閉めた。それと同時に車は動き出し、倉庫からまた出て行った。
ギシギシと嫌な音を立てて閉まるシャッターの音を聞きながら、佐々木は自分の車のトランクを開けた。その中からサバイバルナイフを取り出すと、仰木の猿轡の紐を切った。
「おま、おまっ…ゴホゴホ!どこのもんじゃ!!」
絞り出した声は嗄れ、掠れていた。これが本来の仰木の声かは知らないが、佐々木は一緒に取り出したペットボトルの蓋を開けて口元に流した。
「しっかり飲んでください。せっかくだし、お話もしたいじゃないですか。僕はね、あなたに逢いたかったんですよ」
「…な、なんだと?」
「交通事故と言えばわかりますか?あの日もこんな雨でしたね」
「交通事故だと?何を……」
仰木は訳が分からないという顔をしたが、すぐに目を見開いて佐々木を見た。
「お、お前、あの親子の…」
「よかった。忘れられていたらどうしようかと思いました」
佐々木はにっこり笑うと、またトランクに向かった。
仰木は身体を捩ったりして暴れたが、ガムテープは取れることがないままだ。拘束したままなんて趣味が悪いことはしたくはないが、腕に覚えのない佐々木は仰木とやり合うことは出来ない。
反対に殺されてしまうこともあるので、これは仕方がないと笑った。
「もし、あなたが出頭していたとしても、誰が出頭していたとしても結果は同じだったんですよ?あなたがね、2人を轢いた時点で終わってたんですよねぇ…。残念なことに」
佐々木は瓶を取り出し蓋を開けると、仰木の顔に垂らし始めた。刹那、獣のような声が倉庫に響いた。
「生きたまま薬品で溶かすか、普通」
久志は遺体袋に仰木だったモノを入れると、ジッパーを閉めた。肉の溶ける匂いは何とも表現に困るが、一度嗅ぐと鼻に残るのか消えないのが厄介だ。
倉庫に停めてある自分の車の運転席に座る佐々木は、まるで抜け殻だ。あれは使い物にならないんじゃないかと思いながら、久志は袋をワンボックスカーの後ろに放り込んだ。
「ね、喪失感なの?」
助手席のドアを開けて乗り込んだ雅は開口一番そう言った。
「え?」
「復讐の先にあるものって何か、俺はよく分からないからさ。喪失感?それとも達成感?」
「さぁ、どうでしょう?でも、無様に溶けていく顔に咽び泣く男の顔は愉快でしたよ。あの日からずっと想像してきたことなんで」
佐々木はさも愉快そうに笑った。あの顔を見た瞬間、やり遂げたと身震いがしたのだ。
「ね、どうして塩酸なの?ナイフとか殴るとか」
「残念ながら、僕は腕に覚えがあるわけでもないし、知ってるとは思いますがナイフも素人が下手に扱うと自分に被害が出るでしょ。その点、薬品は蓋を開けて垂らすだけ。痛みは広がる一方で、もがけばもがくほど範囲は広まる。最高でしょ?」
「意外にクレイジーだね」
「ただ、途中で気を失われると困るなぁと思ったんですよねぇ。ほら、痛みで気を失うってあるでしょ?でも意外に頑張ってくれましたし、気を失えない痛みだったようです」
「へぇ、いいね。覚えとくよ」
雅は冗談とも本気とも取れない言い方をした。
「で、俺のお願いは聞いてくれるの?」
「ああ、約束しましたし、正直、ここで放り出されてもどうしたらいいのか分からないんですよね。姉も姪も居ないし…」
「…誰も居ないって、前が見えなくなるよね」
一瞬、泣いているのかと思った。倉庫に照らされた心許ない照明が時折点滅し、それが雅の顔に影を作ったせいでそう見えたのだ。
だが今日まで僅かではあるが交わした言葉のなかで、今のが一番、気持ちが入っているような感じがして、見た目も不似合いな雅が極道に身を置く理由が何となく分かったような気がした。
「とりあえずさ、あんたが本当に役に立つのか試用期間ちょうだい。使えないとしても危害加えたりしないから。俺、あんたのこと結構好きなんだよね」
首を傾げて佐々木の方を見る雅に思わず苦笑いをする。こういう淫靡さを醸し出しながら、極道の世界でよく生きながらえているものだ。
いや、仰木を拉致してきている時点で、雅の腕は相当なものだと証明されている。久志が付いているとはいえ、仰木を殴ったことは否定しなかった。
「ひとつ、疑問なんですけど、どうしてスーツを着ないんですか?」
「え?俺?だって、俺がスーツ着ると成り立てのホストみたいって山瀬さんに言われたんだもん。連れて歩くと俺が飼ってるみたいに見えるって。失礼だと思わない?」
唇を尖らせて見せる顔に佐々木は思わず笑った。だが、笑った瞬間に痛めた肋が疼いて、ハンドルに額を置いて唸った。
「ヒビいってると思うよ。折れてはないっておじいちゃん言ってたでしょ?」
「ですね」
折れてはないとは言われたけども、ヒビがいってるとは言われていない。とは言え、ヒビが入っていたとしてもギブスをするわけでもないし、何か特別な処置があるわけではない。
するとすればコルセットで固定するというくらいしかなく、肋というのは場所的にも割りかし厄介なのだ。
「ね、どうする?いつから来る?治ってからがいい?」
「え?いつからって、山瀬さんには言ってるんですか?このこと」
「うーん、あとから言う。仰木のことバレたら怒られちゃうし」
「そんなこと、独断で決めていいんですか?」
「いいよ、だって俺、若衆だもん。だから、俺が決めたってなったら大丈夫だから」
「あの、君、いくつなの?」
ずっと聞くに聞けない疑問をようやく聞くことにした。そして雅の答えに驚き、笑い、また肋に激痛が走った。
「ね、失礼じゃない?」
「いや、申し訳ない。馬鹿にしたわけじゃないから。それではこれから、どうぞ宜しくお願いしますね」
佐々木はそう言って口元でけで笑うと雅の方に上体を向けて、頭を下げた。
久志は車の外からその様子を見ながら、欠伸と共に煙草の煙を吐き出したのだった。