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車のワイパーが降りしきる雨を弾く。右、左、規則正しく一切乱れることなく単調に。人間の作り上げる物ってすごいなと雨宮はくだらないことを思いながら、車の横に聳えるビルを見上げた。
車の時計は午後9時を表示している。それを見て、そろそろかなとシートベルトを締めた。
案の定、ビルの入り口に設置された自動ドアが開き、ぞろぞろと人相の悪い男が出てくる。雨宮はそれを横目に見て、少しだけ身体をずらした。
出入り口で待ち構えていた男が黒い大きな傘を差すと、そこにヒョイッと男が滑り込んだ。鬼塚組若頭、佐野彪鷹だ。
彪鷹はまっすぐ雨宮の待つ車に近づくと、開けられた後部座席に乗り込む。そして、バンッとドアが閉まるのを確認して、雨宮はアクセルを踏み込んだ。
「お疲れさまです」
「お疲れ過ぎ。あーあ、ほんま、定例会って何のためにあんのやろうなぁ。ジジイどものむさ苦しい顔見て、何を話すことあるんやと思う?」
彪鷹は面倒くさいとブツブツ文句を言いながら、スーツのポケットからスマホを取り出した。
「そういや、今日はお前か。相川はどないした」
「相川さんは崎山さんの用事で動くことになって、俺しか空いてなかったんで」
「へー、あ、雨宮、高速乗れ、そこ」
「は?」
「ええから、ええから」
この唐突なところは心にそっくりだなと思いながら、言われるがまま高速に乗り込んだ。一体、どこに向かうつもりだと、ふとバックミラーを見ると弾除けの車が居ない。
高速に乗るまではピッタリ、ストーカーの様に張り付いていたのに今は後ろには1台も車が居なかった。その不自然さに雨宮は蛾眉を顰めて、ハンドルをギュッと握った。
「何してるんすか」
「パズドラ、今、ゲリラダンジョンなう」
その顔で、なうとか言うなよ。色々と疲れるわ。
「相川さんとばっかり居るから、言葉うつったんじゃないですか?」
「ほんまになー、あいつ、ろくな言葉しゃべらへんからなぁ」
彪鷹はくつくつ笑いながら、スマホを弄る。その姿は心のそれとは正反対で、どこか違和感を感じた。
心はこういう便利ツールの類いを使わない。嫌いだからだ。拘束されることを何よりも嫌うところは同じだと思っていたが、少しタイプが違うらしい。
「あの、これ、どこ行けばいいんすか?あんまり行くと…」
「あ?四国」
「…えっと、すいません。四国ってどこの店の名前ですか?」
「あ?なにそれ、今の流行の冗談なん?四国いうたら四国やろ。うどん食おうと思ってな」
何事もないように言われると、反対に”そうか”なんて納得しそうになったが、いや、待て、おかしいだろ、これ。と、きゅっと唇を噛んだ。
「あの、いや、うどんなら美味い店近くで知ってますよ」
「四国のうどんが食いたい」
「いや、普通に向こう着いても、どこも開いてないですよ。朝っすよ、着くの」
「ええやん、朝食はうどん的なあれで」
お前!!!と言わない自分を褒めてやりたい。
本当に行動が読めない上に無茶苦茶だ。これはもう、心を上回る無茶苦茶さだ。第一、心はうどんを食べに四国に行きたいなんて、絶対に言わない、あり得ない。
「はー、もういいっすよ。四国っすね、四国」
雨宮もどちらかと言うと、面倒くさがり屋である。ここで何を言ったところで彪鷹の希望が覆ることなんてなさそうだし、何かを言うのも疲れる。従っている方がラクというものだ。
「よっしゃ、これでレベル最大、覚醒ー」
彪鷹は不似合いな言葉を言いながら、満足げな顔をしてスマホをスーツのポケットに仕舞った。そして、あろうことか後部座席から助手席にのそのそと移動し始めたのだ。
「うわ!!!あんた!馬鹿ですか!!でかい図体して!!」
彪鷹の身体が雨宮に当たる度に、ハンドルが動き車が揺れる。雨の中、油断すればスリップしかねないのに、彪鷹はお構いなしに助手席に滑り込んできた。
「馬鹿って、久々に言われたわ。あ、嘘、この間、相馬にも言われた」
彪鷹はくつくつ笑ってタバコを唇に挟むと、スーツのポケットを弄った。
「俺、こんなとこで心中とか嫌っす」
「俺も嫌やわー。あれ、あらへん。忘れてきたんかなー」
「どうぞ」
雨宮はうんざりした顔でジッポを彪鷹に渡した。こんな無茶苦茶な男と四国まで…早まったかもしれないと、思わず出口の掲示板を眺めてしまう。
だが、ここで降りてしまうのもなんだか悔しいと、妙なところで意地になってしまう雨宮がいた。
「あれ?お前ってタバコ吸うたっけ?」
「吸ったり吸わなかったりっすね。ヘビースモーカーってほどじゃないんで、ないならないで平気っす」
「まぁ、こんな有害なもん、吸わん方がええわなぁ」
「副流煙の方が人体に有害って言いますけどね」
「…お前、言うなぁ」
「まぁ、今更っすけどね」
心と一緒に居れば、副流煙なんて今更だ。
近年、まるでそれが害だと知らしめるようにあちこちで禁煙が叫ばれ始めた。カフェや路上での喫煙を規制し、喫煙者は犯罪者のように隔離された場所で煙草を嗜む。
だが、それも外の世界だけの話。雨宮たちの居る世界で禁煙なんて、最近体調が悪くなったとぼやく古参連中がするくらいで、若衆はどこでもかしこでも何が楽しいのか煙草を燻らす。
雨宮が敢えてそれをしないのは、密偵に入った時に証拠を残さないためだ。
人というのはいい加減なもので、顔や名前など明確なものよりも煙草を吸っていた、言葉に訛りがあった、香水をつけていたという何とも曖昧なもので相手を記憶することが多い。
そして、その僅かな情報からまるでスパークを起こしたように、その人物を明確に思い出すのだ。
「お前、まだ俺のこと調べてんの?」
「は?何をですか?」
「惚けろ、俺のこと探ってんのは分かっとるちゅうねん」
「もしかして、それが狙い?」
そうか、今日、不自然な相川の態度。また何か粗相をして崎山に呼び出しを喰らったのかと思ったが、何か理由をつけて自分を呼ぶためか。
最近、平和ボケしてるなと、それに気が付かなかった自分に苛立った。
「なら、話があるって呼んでくれたらいいのに。俺、あんまり顔を知られたくないんすよね、身内にも。ああいう定例会って会派の人間が結構来るし、何かと面倒になるんですよね」
「やて、デートしましょ言うて、お前がノコノコ来るとも思えん」
「あれ、俺、消されるんですか?」
「は?なんでやねん、面倒くさい」
彪鷹はふーっと、最後の煙を勢いよく吐き出すと携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。フロントガラスに叩き付けられていた雨はいつしか止み、雨音もなく静かな車内にナビのアナウンスだけが場違いな音色で喋る。
やり合ったところで勝負は目に見えている。これはもう、諦めるしかないかなと雨宮は彪鷹に手を差し出した。
「煙草、ください」
「ん?吸う?つうか、マジで殺らへんぞ、お前のこと」
冗談よしてよと、彪鷹は煙草に火を点けると雨宮に寄越した。
「それを真に受けるほど、素直な性格じゃないんで」
「捻くれとんなぁ。そういや、お前、心のこと殺るんやてな」
「いきなり直球っすね。殺るっつうか…まぁ、希望ですけど」
「なに、その自信のなさ。希望ってなに、就職希望みたいなノリか?」
「殺り損ねたからこそここにいるんで、自信なんて砕け散ってますよ。木っ端みじんに。今のとこ、どれだけ鍛えたところで敵わないんで。たまに不様だなって思います」
でも一応、頑張ってるんですよと付け足して、ウィンドウを少し開けて煙草の煙を逃がす。嗜好の問題だろうが、彪鷹の煙草はやけに甘く感じた。
「お前の格闘センスはあんまり知らんなぁ。何やする前に、龍大と捕まえてもうたもんな」
「古傷抉らないでください」
そのせいで、裏鬼塚から解雇された状態なのに。こんなんで、心を殺るなんて戯言もいいところだ。
「俺なら、心、殺れんで」
「は?殺ってくれるんですか?」
「それでお前はええの?俺が殺って」
「まぁ、清々しさはないですね」
「やろうな」
分かりきったことを聞くなよと、雨宮はチッと舌打ちした。そうだ、心が死ねばいいのではない、誰かに殺されるなんて真っ平だ。誰かがではなく、自分でないと意味がないのだ。
自分の手で血に塗れた心を見るまでは、この腹の奥底に溜め込んでるどす黒い感情は消えることはないだろう。心が雨宮の手によって絶命する姿だけが、雨宮を呪縛から解放するのだ。
「あー、でもあれっすね。調べても、出てきませんね」
「あ?」
「佐野彪鷹、存在するんすかね」
「はぁ?しとるよ、ここにおるやん」
何言ってんのと言わんばかりに彪鷹は首を傾げ、笑う。素っ恍けてんのはどっちだというものだ。
「隠せるものでもないもんなんで言いますけど、調べましたよ、片っ端から。佐野彪鷹」
「おいおい、何か清々しく言われると腹立つな」
「ま、実際、何一つ出て来ないっすよね。誕生日さえもね。俺の経験上、これだけ調べて出てこない理由は二つです。一つは佐野彪鷹っていう人間が存在しない」
「するわ!失礼か!ほな、免許見るか?」
「そんなもん、いくらでも作れるの常識でしょ、俺らの世界じゃあ」
「まぁ、せやな」
「二つ目は、組長と同じ」
「あ?」
「組長を調べてた時に、情報がなかなか得れなかったんすよ。まぁ、俺が今ほど調べる能力がなかったっていうのもあるんすけどね、最大の原因は一つ、コロコロ変わる戸籍のせい。及川だの佐野だの鬼塚だの、しかも転居を繰り返して所在もあやふや。そりゃ分からないっすよね」
「俺もそれやと?」
「さぁ、俺にはなんとも」
雨宮が煙草を弄んでいると、彪鷹がそれを横から奪って一吸いした後、携帯灰皿に放り込んだ。
「俺を調べなあかん理由があるんか?」
「個人的な趣味です」
「は?」
「標的のことを全て把握するのは基本って言われてるんで」
「誰に、って聞くまでもないか。でも、俺のこと調べたところで心と繋がることなんか何一つあらへんで。あいつの小中学校の成績知ったところで、何の役にも立たんやろ」
「そうっすね」
「のぉ、裏鬼塚って結局、どれくらいの規模なん?」
「え?さぁ、どれくらいなんでしょうね」
雨宮は小さく笑って首を傾げた。それに彪鷹は目を丸くして、まさかと呟いた。
「何、お前も知らんの?」
「死神って呼ばれる鷹千穗と、回収屋と掃除屋っていう二人が居るんですけどそれしか面識はないっすね。基本、裏、なんでみんなで集まって集会なんてないですもん」
「おいおい、そんなあやふやでええんか」
驚く彪鷹に、思わず笑ってしまう。
「裏っすよ?俺なんか生きてるのが不思議じゃないすか?俺のミスで彪鷹さんに捕まって、組長まで出張らしてんのに。本来なら消されてて当然なんすよ。まぁ、消すのはやっぱ裏の人間なんで顔割れっていうのも都合が悪いっつうか」
「なんやそれ、俺らのとこより命張ってるやないか」
「リスキーでもないっすよ。顔割れてないんで、俺なんてバーテンとかして一般市民ぶってシェイカー振れるし」
それでもハードル高い世界やないかと、彪鷹はぶつぶつ言った。
確かにリスキーだ。だが、裏に居る人間はまともではないのだ。雨宮然り、鷹千穗然り、数少ない面識のある裏に所属する人間は皆、まともではない。
なので、裏のルールをリスキーだなんて感じる人間は皆無なのだ。
「え?ほんなら、そうやってあちこちに裏の人間がおるとでも?」
「どこまで人数が居るのかとかは知らないっすよ、マジで。最近は裏鬼塚の存在も噂立ってきちゃって、実は何千人単位の構成員が居るとか裏で警察と繋がってるとか色々言われてるけど、でも実際全体を把握してるのは崎山さんだけっすよ」
「はー、恐ろしい男やなー、あの兄ちゃん。さすが梶原さんが拾ってきただけあるわ」
「でも、昔に彪鷹さんと崎山さんとは面識はなかったんですよね?」
「あ?俺?まぁ、俺も裏みたいなもんやしな」
ふふっと笑って彪鷹はシートに深く身を沈めた。
崎山が組に来た頃は内部紛争の真っ只中。鬼塚組が真っ二つに割れていたときだ。その時に彪鷹が鬼塚組に所属していたことの確認は取れたものの、組の中で何をしていたのかは記録が残っていなかった。
そもそも、今ほど規模も資金も大きくなかった組の記録など、いい加減なものであってないようなものだったのだ。
それから他愛のない話をしながら、長過ぎる距離を走った。途中で夜が明けてきたときは彪鷹に殺意を抱いたものだ。
何が悲しくて何の前触れもなく、四国まで車を飛ばさなければならないのか。気紛れもここまでくると神の領域だなとくだらないことを思った。
「降りますよ」
ようやくと雨宮は息を吐いた。
ナビに従って高速を降りると、静かな町並みに出たような気がした。多分、この土地の中では栄えているほうなのだろうが、あんな大都会から来ると田舎に来たなという錯覚に陥る。
「で、どうするんすか?」
まだ店が開くような時間ではないし、街もようやく動き出したような感じだ。店が開くのを車の中で待つのか、そもそもどこでうどんを食べるのか。
どうせ未計画なんだろう。だが、ここまで来たからにはそれなりの店で、それなりの物を食べて帰りたいと雨宮は周りをぐるっと見た。
「じゃあー、あ、あっこ入ろうや、あっこ」
指差すほうに視線を向け、侮蔑の視線を彪鷹に返す。指差した先はギラギラと眩い光を灯すラブホテル。
駐車場の入り口がほんのりピンク色に光っているのがまた腹が立つ。そこへ、この黒塗りのAMGで入れと?
「女、引っ掛けてくるんで一人で入って待っててくれますか?」
「いや、女はいいわ。お前がいい」
「やっぱ、俺、消されるんすね」
つうか、消してくれていいわと息を吐く。
普段、崎山のような常識人の下についているせいで、こういう常識の斜め上も上、宇宙の果てくらいに外れた言動には対処の仕方が分からない。
相手をするだけ無駄のような気がするし、何よりも面倒くさい。
「そんな死に急いでどないすんねん。大体、お前殺ってもうたら吉良の子守がおらんようになるやん。ほれ、入れ入れ」
彪鷹は助手席から手を伸ばして、勝手にウインカーを出して入るように促す。雨宮は辟易として、それに従うことにした。