- 1 -
『ただでさえ、殺人なんて許されない罪を犯しておいて…。うちも被害者だ。悪いけど雅君を預かると、うちの子供にも悪影響だ。君は良い年だし、一人でも生きて行けるだろう?』
『雅、オマエも死ねば良かったのにな』
『崎山ってさぁ、一家惨殺の異常犯の息子って本当?』
『いいよなー、オマエの親父。死んで刑務所に入らずに済んだんだもん。これってラッキーじゃん』
『どうして生きてんの?俺なら、親がそんな事件起こしたら、死んでるね』
キーンと、耳鳴りがした。昔、誰だったか顔も思い出せない連中に言われた言葉が、次々と蘇る。
まるで今、耳元で言われているかの如く、それは一文字一句が鮮明にはっきりと思い出される。
悪い夢かと思った。真っ赤な血の絨毯で横たわる男。
一体これが誰なのか、暫く思い出さない程で佐々木達が大騒ぎしているなかで、ただジッと立ち尽くしていた。
「崎山!!!!何してる!!!」
怒鳴り声でハッとした。見れば、佐々木が微動だにしない久志の出血を止めるのに必死の姿がある。
あれ?どうしてこんな事になったんだっけ?
スーッと、息が抜ける。
今、何が行われてるんだ?
『ねぇ、自分だけ生き残った気分って、どんなの?』
ドクンッと、身体が跳ねた。嘲笑する口元、卑下する視線。
やっぱり、これは罰なんだろうか?
親を殺した者同士が、幸せになろうだなんて烏滸がましい話なんだろうか?
本当は分かっているつもりだった。こんな職業をしていれば、いつ何時、何があるのか分からない。
その時は、仕方がないと思えるつもりでいた。だが、それは自分が先に逝く時の覚悟で、先に久志が逝ってしまうだなんて考えた事もなかった。
※
”一緒に地獄に堕ちよう”と言ったくせに、今、管やコードで繋がれたまま全く動かない久志。
目も開けない。息だって、自分で出来ない。何も、指一本だって動かせない。
そして、久志の事を全く知らない医者や看護婦という真っ赤な他人以外、誰も…近付けない。
『死に損ないが、幸せになれると思ったのか?』どこかで、誰かが囁いた。
「崎山、大丈夫か?」
「…え?」
集中治療室の隣の部屋のソファでぼんやり座っていると、同期の相川が雅の肩を叩いた。
久志を襲い、静を攫った連中の正体が明らかになってないので、久志は特別病棟に身を置いた。
雅はその隣の部屋、本来は個室の病室になる部屋を警護を理由に押さえて居座っていた。
まさか、久志の息の根を止めにくるとは思えなかったが、相手が分からない今は万が一に備えての警護は必須だ。
だが警護として部屋に控えていたくせに、いつの間にか入って来た相川にさえ気が付かなかった。
普段の雅には有り得ないことだ。注意力が散漫過ぎるなと、自らをせせら笑った。
「オマエさぁ…。まぁ、いいや」
相川はそう言うと、雅の隣に腰掛けた。安物のソファは間抜けな音を鳴らす。
相川が手の中で弄ぶ煙草の箱を横目に見ながら、雅は小さく息を吐いた。
なんだっけ?若頭と話してて…。ふと落とした視線が、服にこびり付いたシミを映し出した。
「……?」
何だ、これ。思ってゴシゴシ擦ってみても、赤茶色く変色したシミは変化なく、そこにこびり付いたままだった。
ゴシゴシと服を擦る雅に相川が気が付き、覗き込む。
「ああ、成田の。オマエ、成田を抱え上げた時についたんだろ」
「…誰?」
「は?成田の」
「…成田?」
あれ?成田って、誰だっけ?ぼんやりとする雅に、相川は舌打ちをした。
「崎山!!!オマエ、しっかりせぇや!!!久志だよ!!!久志!!!」
ガッと、相川が痛い程に肩を掴んだ。それでもぼんやりとする雅とは対照的に、相川の顔はまさに顔面蒼白だ。
そんな変なこと、言ったか?
久志…。誰だ。
赤い血。
飛び散る血飛沫。
白く濁んだ瞳。
切っ裂かれた首。
折り重なる死体。
冬の空。
「……っ!!!!!」
雅は相川を押し退けると、部屋に備え付けられたトイレに飛び込んだ。
一気に嘔吐して、それでもまだこみ上げる吐き気にただ嘔吐いた。
「崎山っ!!!」
相川が慌てて、崎山の背中を擦る。崎山はそれを払い除けてゆっくり立ち上がった。
「平気…」
ユニット式になった洗面台で口を濯いで、久志の血で汚れたシャツを脱ぎ捨てる。そして、それを浴槽に放り込んだ。
「…大丈夫か?」
「…ああ」
「そうか」
相川は少し疲れた顔を見せて、ユニットから出た。
一人になりたいだろうと相川がドアを閉めようとした時、それに雅の身体がビクリと反応した。
「閉めるな!!!!」
「へ???」
「閉めないで…」
ドクドクと、血が沸騰する。平気だ、大丈夫だ、何を今更。
必死に装ってみても、身体から汗が吹き出る。
ダメだ、今、今、こんな”物”に怯えたら、何も出来なくなる。
ダメだ。何もない、大丈夫。何もない。ドアだ。ただのドア。
次々、フラッシュバックが起こり、思わず瞠目する。
あれ以上の惨状を見て来たのに、やはり、一番堪えるのはあの光景。
折り重なる兄弟の死体と、変わり果てた親の亡骸。血の匂い。
ドア、ドア、ドア。
なんて脆いのか。今、立っているのはどうやっているのかさえ分からない。
足下を見れば、そのままストンと奈落の底へ堕ちてしまいそうな錯覚。
ダメだ、しっかりしろ。グッと拳を握り、唇を噛む。
ドアが、迫ってくる…。
「大丈夫だって」
「…え?」
必死に呼吸を整えていると、相川のふにゃりと笑った顔がぼやけて見えた。
定まらない視界が、段々と鮮明になる。
「成田はあんなんで死んだりとかしねぇし。…オマエ残して、死ぬ訳ないでしょうよ」
相川はそう言って笑って、雅の頭を撫でた。
「…オマエ」
「あのねー、気が付くって。もう、本当、アイツ、こっちが恥ずかしくなるくらいに、オマエにべた惚れなんだもん」
そう言って、緩い笑顔で笑う相川。だが、その顔が雅の肩の力をフッと抜いた。
「なに、それ」
フフッと思わず笑う。
ドアが、頭の中のドアが消えた。
「あ、でも、俺しか気が付いてないんじゃね?お前らが二人で行動することて、ほぼないでしょ」
「馬鹿のくせに、気が付いたんだね」
「はぁ!?それヒドくね!?」
やいやい喚く相川に、雅は黒い闇が少し晴れたのが見えた。
「崎山、あれやったらさー、俺が関西行くよ?」
あれから、雅は普段通りの生活を送ることが出来た。
ドアに怯える事もなく、フラッシュバックに苦しめられる事もなく。
ただ、そこに久志の姿はなかった。
相変わらず、目を醒ます事はしなかったし、容態も不安定なまま。
更に、不本意ながら組長である心には完膚なきまでに殴られる始末。
だが、ようやく、キーは鬼頭だということが分かってきた。
久志を暴行し、静を攫った犯人。雅達は、その鬼頭組に落とし前をつけに行く事になっていたのだ。
「いや、大丈夫。俺が行く。お前は、こっちに居て。俺はあっちで動かないと…」
「そうなの?で、何か出た?」
「雨宮が動いてるけど、ろくなネタじゃないね。どうなってんの、あの組。本当に仁流会?本当、腹立つ」
「何?裏動かしてんの?」
相川はテーブルの上に用意されている差し入れの袋から、ピーナッツを取り出し口に入れた。
次々と、まるでリスの様に食べていく。
「内偵には、裏動かすのが一番手っ取り早いでしょ。雨宮達はそういうの専門なんだから」
「まぁ、そうね。あ、成田に変化あったら、すぐ連絡するし。ああ、土産忘れんといてな」
「おたべでいい?」
「オマエならさー、舞子の携番とか即ゲットじゃね??」
「京女はやめとけば?オマエ、刺されて死ぬよ」
「マジか!!!こえー!!!京女こえー!!!!」
「っていうか、オマエが芸者や舞子相手出来る訳ないでしょ?馬鹿のくせに」
「え!!馬鹿は無理なの!?」
本気で悩む相川を鼻で笑う。馬鹿な奴と思いながらも、この馬鹿さに救われたのも事実。
馬鹿もやっぱり使いようかと、失礼な事を考えた。
そして京都に着いて間も無く、息つく暇なく、起きた!目を醒ました!と歓喜する相川に、雅はただ淡々と”そうか”とだけ言った。
嬉しくないのか?酷薄過ぎやしないか?こんなにも人間味のない男だったのかと、自分で畏怖したほどに何も感じなかった。
それはただ、自分の目で見ていない実感のなさからくるものだというのを、雅はその時は分からなかった。
眞澄の屋敷で、向かって来る猛者を一人一人たたき潰す。骨の砕ける音を聞きながら、やはり何かがおかしいと違和感が襲う。
「ね、俺は、悲しんでる様に見える?」
這って逃げようとする男の背中を踏みつけ、雅は男の髪を掴み上げた。
男は雅の言わんとすることの意味が分からない様で、ただ、許してくれと懇願して泣いた。
「違う。ね、俺、喜んでいるように見える?」
男は壊れた玩具のように首を振った。やはり、喜んでいるように見えないのか。
「ね、死んで花実が咲くものかって意味、分かる?」
「…え?」
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず…俺がした訳でもない罪で、苦しめられて…いや、俺が過去に捕われすぎているのか」
「な、何を言いよるん…」
「ね、俺、本当は喜ばないといけないのに、全く喜べないんだよね。どうしてだろう」
男は、雅をただ怯えた目で見た。折られた腕が痛んだが、それよりも部屋のあちこちで虫の息の人間のなか、そうした張本人の雅はまるで意味の分からない質問をしてくる。それがただ怖かった。
それにどんな意図があるのかも分からないし、第一、雅の言葉は難しく理解出来ない。答えを間違うと殺されるのかもしれないと、恐怖に駆られた。
「答えてくれないの?」
雅は立ち上がると、男の横腹を蹴り上げた。狙い定めた様に肝臓を蹴り上げられ、押し出される様に嘔吐した。
「何だ、喜んじゃけないのか?いや、喜ぶって何だ?」
雅は痙攣し出した男を跨いで、部屋を出た。
鬼頭邸から車で出る時に、眞澄達の車に遭遇した。ここで車を降りて襲撃しても良かったが、人質の静は相変わらずあちらの手の中だ。
「チッ、面倒だな」
雅は悪態を垂れて、眞澄達にヒラヒラ手を振った。
雅の襲撃の後、眞澄達は一気に動き出した。鬼頭所有の使われない倉庫。そこに組員が集結していると報告が入り、いよいよ決戦かと爪を噛んだ。