いろはにほへと

いろはseries


- 1 -

容姿端麗だとか何だとか、外見を褒め讃えられてなんぼ。
女を言葉巧みに言い包めて、店に足繁く通わせて指名取ってなんぼ。
法外な酒代に意味の無いチップと愛のないセックス。
クソみたいな世の中に、クソみたいな駆け引き。
腐った世の中で生きるための術がこれって人としてどう?
問いかけたところで答えはないし正解ってなに?
どれが間違いでどれが正解でどれが偽り?
そんなこと全く分からない。でも分かる事がただ一つだけ。

愛なんか、何の武器にも糧にもなりゃしねぇ。


空が闇に飲み込まれる頃、星の瞬きさえ奪うネオンの光輝く中を楢崎雷音ならさき らいとは歩いていた。
一歩、路地へ入れば、そのネオンさえも遮る様な暗い世界と、闇に埋もれる人の人生。光と闇が常に背中合わせのこの街が、雷音の世界だ。
女も男も寂しさを求めてやってくるこの街は、いつでもそれを潤す”道具”を兼ね備えている。その寂しさを紛らわす代償は、高い金と嘘とたまに暴力。
関西のドル箱と呼ばれる腐り切ったこの街は、どれだけ法改正が進もうとも朽ちる事はない。
なぜならば人は皆、寂しいからだ。
夜になってようやくその姿を取り戻す街は、時間が経つにつれて人が増える。それこそネオン街の禍々しい光に群がる虫のように。
ここにあるのはバーやクラブ、そして奥には花街がある。欲望を吐き出すための店、偽りだらけの愛を得る店、酒を喰らう店。多種多様な店が軒を連ね、人々の欲望を消化するべくネオンを灯す。
雷音は目に慣れないその禍々しいネオンを避け、吸い込まれそうな闇を見上げる。ネオンのせいで仄暗いそれは、不気味さを増しているように見えた。
それに自嘲じみた笑みを浮かべ、雷音は再び歩き出した。
雷音が歩けば、道行く者は老若男女と言っても過言ではないくらい振り返る。
白に近いまでに色の抜けた髪を丁寧に後ろに流して毛先を立て、上品なスーツを身に纏い、180を優に越す身長に計算されたように彫り込まれた鼻筋と薄い唇が、甘さのある茶色い瞳を際だたせた顔。何もかもが抜きん出ていて近寄り難い容貌は、人々から羨望の眼差しを向けられる。
その視線に慣れた雷音はスーツのポケットから煙草を取り出すと、デュポンのライターで火を点けた。右も左も雷音に好奇の瞳を向けてくるが、雷音はそんな事も気にもせずに煙草を深く吸い込んだ。
紫煙が風に乗って雷音の元を離れて行く。雷音はそれを感情のない目で見ながら、今度は空へ向かって吐き出してみた。
すると街の賑やかさとは違う騒がしさが聞こえ、目を向けた。悲鳴や怒声がどんどん雷音に近付いてくる。
「…喧嘩?」
思いは正解で、一人の男が数人の男達に追われているようだった。
人通りが一気に増える時間、追われている男は色んな人間にぶつかりながら縺れる足で必死に走っていた。
だがもう少しで雷音の横をランナーの如く走り去るという時に男は捕まり、足を掬われ、その場に転がされた。雷音の目の前で。
「待たんかい!このボケェが!!ワレ、人にぶつかって何シカトさらしとんじゃ!!あぁ!?」
男が意気揚々と捲し立て、転がされた男の胸倉を掴みあげた。雷音はその様子を物怖じすることなく見ながら煙草を燻らす。
今時、黄色のスーツに真っ赤なシャツ。あまりのセンスのなさに笑いが出そうになる。一緒に居る男も青や赤のパステルカラーのスーツを着て品の無さを醸し出しながら、暴力的な自分たちの力を誇示しているようで雷音は顔を顰めた。
「ピエロか…」
こんなバカに捕まるアンラッキーな奴はどんな鈍臭い奴かと見れば、ジーンズにTシャツ姿のこの街に不似合いな垢抜けしていない学生に見えた。顔の左側に大きな絆創膏をして、黒ブチの眼鏡をかける男の姿はまるでおのぼりさん。
ここがどういう場所か分からずに迷い込み、トラブルにでも巻き込まれたのか…。
「あいたたた、やめてぇな。せやから、ゴメン言うたし」
「ゴメンで済むと思うてんか!!」
「ほなどないせぇ言うん。俺、アホやさかい分からんし」
肝が据わっているのかバカなのか、男に言い放つ学生風の男に雷音はため息を付いた。
「おい」
「ああ!?」
雷音が声をかけると、男は下から覗き込むように雷音を睨みつける。雷音はその程度の低さに甚だ呆れた。
全力疾走が効いたのか怒りのせいか、鼻息荒く真っ赤な顔で鋭い視線を向けてくるのを雷音は片眉を上げてみせ、嘆息した。
「もうその辺でやめておけば?」
「なんじゃ!貴様ぁ」
ターゲットが変わったとばかりに男は学生の胸倉から手を離し、雷音に今にも噛みつかんばかりの勢いで息巻く。
赤い顔をして猪顔負けのそれに、雷音は笑いを噛み殺した。その様子が気に入らなかったのか雷音の整いすぎた顔が癇に障ったのか、男は益々顔を赤くして我鳴った。
「舐めとんか!!ああ!?」
「ここ、明神組の島だよ。あんたらどう見ても明神の人間じゃないよね?なのにここでこんな事していいの?」
「ああ!?」
「あ!兄貴!コイツ、BAISERの雷音ですよ!」
雷音の顔を知っているのか、雷音に掴みかからんとする男に別の男が慌てて言った。
するとチッと舌打ちをして男は踵を返し、初めに追いかけっこをしていた男に目もくれず、野次馬に退かんかい!と怒鳴りながら去っていった。
「ったく…大丈夫か?」
雷音はそこに座ったままの男に手を差し伸べた。するとその手をパシと払われ驚いた。
「ったく、余計なことしなはんなや!阿呆!!」
「は?」
「あーあ、せっかくゴミ片そう思て引っかけたんに、あんはんのせいでおじゃんや」
ジーンズの尻を払いながら男は立ち上がり、雷音に礼を言うどころか悪態を付いた。
「え?ゴミって、まさかわざと?」
「に決まってるやろう。あーあ、また一からや。カモが逃げてしもた。チャライなりしよったあんはんのせいで」
「ああ、そう。悪かったな」
どうしてこちらが謝る羽目になったのか何だか釈然としないながらも、人助けなんて慣れない事をした天罰かなと思いながら煙草を携帯灰皿に捩じ込んだ。すると立ち上がった男は再度あーあと嘆息して雷音を見ると、顔を顰めた。
「あんたどこの人間や。いけ好かん話し方しよって」
「話し方?ああ…東京」
「ったく…余所もんが人さんの喧嘩に口出すな。どあほう」
もしかしたら、さっきのピエロのがマシだったかもしれない。助けた御礼がこれなんて、やってられない。
御礼が欲しくて助けた訳じゃないとしても、気分がいいものじゃない。
「余所もんはお前もだろう」
「はぁ?」
「京言葉。余所もん。知らないみたいだから教えてやるけど、ここら一帯を取り纏めるのは仁流会明神組。ようはここは仁流会の島だ。何の掃除に来たのか知らないけど、掃除なら古都京都でしな。清掃員の兄ちゃん」
雷音の言葉に男は呆気に取られた顔を見せたが、直ぐに犬歯を覗かせニヤリと笑った。雷音はその顔に、自分でも驚くほどゾクリとした。
「あんはん、ライトてゆーん?それ、本名?」
「さぁな、どうでしょうか。ま、俺とお話したいなら、BAISERって店に来な。但し相当お高いぜ…清掃員君」
「へぇ…せやな、気ぃ向いたらな」
男はそう言うと、何が楽しいのかケタケタ笑いながら雷音に背を向け去っていった。
今日は出だしからろくなことがないと雷音は憂鬱さを感じながらも、通い慣れた店へと足を向けた。

ホストクラブBAISER。黒御影石の壁タイルが敷き詰められた建物には看板はない。出入り口と見られるところにポーチライトが灯り、その両脇を見るからに尻込みしてしまいそうな厳めしい顔つきの男が姿勢よく立っていた。
BAISERはこの界隈で最高級のホストクラブで、ホストクラブ業界では追随を許さない格別の店だ。
所属するホストはマナーに知識、教養、容姿を全て兼ね備えていて、アフターでのホスト役でも恥じることのない強者揃い。
無論、ここに来る客も皆一流揃い。社長令嬢から芸能人、資産家、政治家。
とてもではないが一見さんなどは入ることの出来ない、会員制高級ホストクラブ。それ相応の身分と肩書きを持っていても跳ねられるくらいVIPのためのホストクラブで、会員には女性だけでなく男性も名を連ねる。
ここの会員証を持っているだけで、一流の証となるのだ。
「おはよう」
店先に姿勢よく立つ黒服に声をかけると、黒服の美田園と高坂が丁寧にお辞儀をする。
二人とも身長は雷音と大して変わらないが、身体付きが全く違う。格闘家と見紛うそれは黒服として申し分がない屈強な肉体で、荒くれ者の多い街では頼もしい門番だった。
元柔道家の高坂と格闘技を全てこなす美田園は決して見かけ倒しなどではなく本物の一流格闘家で、美田園は黒服を取り纏めるリーダーでもある。
三白眼の鋭い目付きとキュッと結ばれた薄めの唇、一見強面だが整った顔立ちは客にも評判が良く、その見た目にそぐわないハニーボイスがその株を更に上げている事を堅物の美田園は知る由もない。
「今日も歩きですか?雷音さん。同伴がないのも珍しいですね」
「車、嫌いなんだよね。混むから。同伴はね、今日は断ったんだ。たまには一人で歩きたい日も有るだろ?」
「確かに…」
そう言って美田園がフッと笑った様に見えた。だがそれは気のせいだ。何故ならば強面の美田園は表情が乏しく、誰一人として笑顔を見た事がないからだ。
雷音はBAISERの他のホストとは懸け隔たった地位に居るNo.1ホストなのに、それを鼻にかける事のない男だ。
そんな雷音は黒服にも気軽に声を掛けた。そのかいあってか初めは構えていた黒服も少しづつ緊張が解れ、ようやく世間話が出来るまでになっていた。その中でも一番よく話をするのが美田園だった。
「蓮さん来てる?」
「まだお見えではありませんよ。今日は客人を連れてくるらしいですから」
「うげ…面倒」
蓮とはBAISERのオーナーだ。
BAISERを一から造り上げた蓮は以前、大企業の営業をしていたとかでかなりやり手だが、蓮が連れてくる客は面倒な人間が多い。
この間はどっかの令嬢を連れてきて、案の定、雷音に惚れ込み結婚だのなんだの迫られ、してくれなければ死ぬと騒ぎを起こした。女のヒステリーは正直苦手だ。
それに見てくれや猫を被った自分を見て好きだの何だの、まるでマネキンになった気分になる。
中身を何も知らないくせに、服に惚れ込むそれが雷音には疎ましかった。

店に入ると緩やかなクラッシックが流れ、淡い照明と人の微かな笑い声が聞こえる。オープン前の店内はホスト同士が談笑したり、休憩したりして静かなものだ。
広い店内は隣同士のテーブルとも広く間隔を取り、さらに間にパーテーションを置き互いの顔を見えなくしていた。
BAISERは地下1階、上4階の建物で、この大ホールをメインに客をさばく。
顔を見られることを好まない客は完全個室を用意しており、少しのパーティーをする大ホールもあればVIPルームもある。
基本的に客同士が顔を合わせる事や擦れ違う事はない。ここに来るのは、顔を知られると拙い人間も数多いからだ。
「シルバー、遅いんちゃう?」
雷音が店に入るやいなや、一人の男が近寄ってきた。
やはり長身で、少し垂れ目な双眸に右下の泣きボクロが印象的。何色にも染めずに地毛の黒髪の襟足を伸ばし、長めの前髪を流すようにセットしたBAISERのNo.2、一條 奏大いちじょう かなたー源氏名ルート。
初め、源氏名を聞いたときは数学記号が頭をよぎったが、なかなか源氏名をつけようとしない奏大に蓮がつけたらしい。あまりのセンスのなさに雷音は慌てて源氏名を自らつけたものだ。
とはいっても雷音のそれは本名だ。少し変わった名前は源氏名と間違われる事が多く、雷音もそれを源氏名だと言って通していた。
その雷音をなぜかシルバーと呼ぶ奏大も、やはりセンスがないと思った。
「おはよ…。今日指名ないし、同伴ないからゆっくり来たの。奏大、お前はいつ来たの」
「俺もさっき。蓮さんおらんし、ゆっくりしてんねん。たまにはなぁ」
奏大はそう言って、雷音に口づけた。
「…お前ねぇ」
「スキンシップやし。雷音の唇って噛みたなるわ」
「バカ言ってないで準備しろ!」
ペシっと頭を軽く叩いて雷音は奥に行く。奏大のキスは日常茶飯事だ。酔うと更に酷いスキンシップが待っている上に、奏大は所謂バイセクシャルだ。
油断してると喰われるのも時間の問題だが、快楽主義者の奏大は互いに気持ちが良くないと勃たないらしいので無理矢理はしないとか。
だがそんなの知ったこっちゃない。油断して男に喰われるなんて笑い話にもならない。

奥のスタッフルームはこちらを店にしても優に使えそうな広さで、部屋の中には最新のマッサージチェアや大型TVにゲーム、専用のバーカウンターまで常備されている。
休憩中に少しでも寛げるようにと、様々な娯楽道具が揃えられているのだ。オープンもしていないこの時間にここを利用するスタッフもホストも居ず、広い部屋は雷音一人だ。
雷音は大きく息を吐くと、近くのソファーに身体を投げ出し瞳を閉じた。
奏大のようにこの仕事を天職だと思えれば楽かもしれないが、残念ながら雷音は逆だ。
日に日に精神的負担が大きく、甚だ向いていないとNo.1になっても思う。
「おいっ!シルバー!蓮さん帰ってきたで!VIPルームに客や!」
唐突にノックもなく慌てた様子で入ってきた奏大を、雷音は片目を開けて見た。
ああ…またどこそこの令嬢とか、どこそこの官僚とかの相手か…。
憂鬱な気分を払拭する様に身体を起こし、頭を振っていると訝しげな顔をした奏大の視線に気が付き顔を上げた。
「シルバー、何したん」
「はぁ?」
「指名かかってんで…VIP自ら」
「知らないよ。蓮さんの客なら、俺を薦めたんじゃない?」
「なぁ、やっぱりヤレへん?シルバーがどっかで喰われるのも癪やわ」
スルリと長い指が首を撫でる。その手をパチンと軽く叩いて払うと、フフッと悪戯っぽい顔をして見せた。
「やだよ、俺、痛いの嫌いだし、掘られるのもヤダ」
雷音はそう言ってスーツを正して、VIPルームに向かった。
他の客にも見られることなく出入りの出来るVIPルームは、店の3階にあった。
少し複雑な店内は、新人ホストがよく迷子になる。だが迷子になるのも仕方がない。右へ左へ、まるで迷路の様な廊下を進んでいくのだ。
足音を飲み込む毛の長い赤い絨毯は、さながらハリウッドスターが闊歩するレッドカーペット。
天井に吊り下がる小さなシャンデリアも、壁に掛かる絵も全てが豪華絢爛を謳うアイテムの一つだが、雷音はその全てが煩わしくて仕方がなかった。
最近、日に日にその煩わしさが増して来て、この生活が限界なのかと自問自答してしまう。
ふと雷音はVIPルームの前に立つ、二人の黒服の男に顔を顰めた。
その黒服はBAISERの人間ではないのは明らかだった。目付きに顔つき、獰猛さを隠す事のない雰囲気。
ただの客じゃないなと雷音はげんなりした。