いろはにほへと

いろはseries


- 2 -

「入っていいですか?」
一応声をかけてみる。見るからにその筋の顔をした男が、雷音を一瞥すると丁寧に頭を下げてドアを開けた。
「ああ…ありがとう」
「おっせーぞ、雷音!」
入った途端に蓮の声が響いた。広いVIPルームは店にある数多いVIPルームの中でも最高級だ。
何十人も座れるソファーに豪華絢爛の装飾がなされた天井と壁。部屋の角には噴水があり、その中央でミロのビーナスがライトアップされている。
行き過ぎた様に思える部屋の派手さは、どちらかと言えば桁違いの宴をする人間にはまだ物足りないくらいだ。それほどに、このVIPルームを使用する人間は桁違いなのだ。
「おはようございます。蓮さん、一人?」
「お前遅いから、便所行きよったわ」
蓮と呼ばれた男は、ぶっきらぼうに言った。
ニコリともしない無愛想な男、蓮 周はず めぐる。雷音の雇い主である蓮は”社長”と呼ぶにはまだ若い。
三十前半の蓮はその年が信じられないほどに、その見た目は驚くほどに若い。
彫り深い顔に涼しげな目元。切れ長の目つきはどちらかと言えば悪く、長い前髪がそれを拍車のかかった悪人面に変えている。とてもではないが元一流営業マンだなんて信じ難いほどだ。
確かに顔も造形は申し分ない。いつでもホストに転向出来るほどに整った顔立ちだが、残念なことに蓮は口が悪い。思った事を何でも口に出すので、話術で相手を楽しませるという事が出来る訳もない。
営業マンの時はどうしていたのか今の姿からは一切想像が出来ないが、分かっている事はただ一つ、こっちが本性だということ。
「蓮さんー、俺、ヤーサン相手は嫌だ。前から言ってるよね?それにうちの審査にヤーさんが通るんですかー?」
「どあほう。ただのヤーサンちゃうぞ。明神組の若頭や。明神万里さん」
蓮は雷音の言い分を鼻で笑うと、長い足を組んで煙草を唇で弄んでみせた。
「明神組?あの仁流会の?なに、あそこも不況なわけ?みかじめ料でも請求された?」
「あほう、この辺一体は明神組のもんやろ。奉納金くらいとっくに納めとる。うちが平和に過ごせとるんも、明神組のおかげや…」
「せやで、感謝しいや」
急に割り込んできた声に雷音は振り返った。そして目を丸くした。
「は…?あんた…?」
「あんさんとしゃべるには、ここに来ーひんとあかんのやろ?さかいに、来たんやよ」
出入り口に立つ男は雷音を見てフッと笑い、部屋の奥へ進む。擦れ違い様、色白い男の頬にある真っ赤な傷が目に入る。
蓮はいつの間にか立ち上がり、男に頭を下げていた。雷音だけが新人ホストの様に仁王立ちで動けずに居た。
だがそれも仕方がない。雷音は男に見覚えがあったからだ。
着る服や髪型が変わったくらいでは、雷音の目は誤摩化せない。男はくるりと身体を回転させて、部屋の中央にある席にストンと腰を下ろす。
両手を拡げソファの背凭れに乗せ足を組む姿は威風堂々としたもので、驚きを隠せない雷音を見て艶っぽい唇が悪戯っぽく弧を描いた。
面影はない、いや、ある。だが雷音以外の人間は恐らく気が付かないだろう。それくらいに別人に見える男。
男は先ほど往来で絡まれていた、アンラッキーなおのぼりさんだったのだ。
「おい、雷音、何しとんねん?明神組若頭の明神万里さんや。挨拶せぇや」
蓮が鋭い視線を寄越し、雷音のらしからぬ行動に訝しげな表情を見せた。だが雷音には蓮の言葉なんて耳に入ってこない。
あまりの突然のサプライズと呼んで良いのか分からない出来事に、身体がわなわな震えた。
「な、何だっての?何、意味わかんねぇ。え、何!?おい、マジかよ!若頭なら先に言えよ!清掃員とか言っちゃったじゃねーか!!バカじゃねぇの!?」
「雷音ー!!」
雷音の暴言に、蓮の怒声がVIPルームに響き渡った。

「すんません…コイツ、いつもはもっとちゃんとしとるんですけど…」
蓮が清掃員もとい明神組若頭の明神万里に頭を下げた。雷音も蓮に脇腹を小突かれて渋々頭を下げるが、その顔には納得行きませんと大きく書かれていた。
先程はアンラッキーな京都から出てきたおのぼりさんだとばかり思っていたのに、今はどうだろう。
仕立ての良い高級なスーツを見事に着こなし、ボサボサだった髪もしっかりセットされている。
先程はメガネで分からなかったが、切れ長の瞳に長い睫毛が縁取られ、高い鼻が寡黙ならば綺麗だとか中性的だとかのフレーズがピッタリだ。
だがその顔の左目尻から頬にかけて付いた涙のような傷が赤く存在を誇示していて、どこか危険な感じがする。ベビーフェイスに似付かわしくないそれが、ひどく印象的。
そして極めつけはその瞳だ。右目は艶やかなオニキスのような瞳をしているのに、左側の瞳、きっと事故か怪我か病気かなにかでそうなったのだろう。そのどれかじゃないと有り得ない色、燃え盛る様な紅色だったのだ。
「おい、雷音、挨拶!」
蓮の機嫌が急降下、今、ここで殴られないだけマシかもしれないが、突き刺さる様な視線が痛い。
何がどうなっているのか分からないが、蓮に殴られるのは御免だと渋々挨拶をすれば万里がプッと吹き出した。
「堅苦しいんはやめようや。俺、明神万里。万里の長城の万里な」
「…はい。雷音です。よろしくお願いします」
「蓮はん、今日コイツ指名で。貸し切りでな。おもろそうや」
「ええ!?でも…!!」
蓮が慌てて万里と雷音を交互に見る。その顔は、コイツは今日は絶対にヘマをするから無理!と言いたい顔だ。
確かに絶対大丈夫です。任せて下さい!とは言えないほどの状況だ。
清掃員が極道若頭。しかも仁流会明神組ときた。
あの時、軽々と名前を言うんじゃなかったと後悔してもあとの祭り。明神組若頭は自分の目の前に居る。
「何や?あかんの?No.1やろ?金払うさかい心配しなはんな…。とりあえず、酒飲むさかい何や持ってきて」
「…はぁ」
蓮は渋々了承すると、雷音に“ヘマすんなよ”と耳打ちして部屋を出て行った。
静かな部屋に小さな音量でジャズが流れる。二人の間に流れる微妙な空気に、万里は小さく笑った。
「なん部屋の飾りなってんの。座りよしな」
「…あ…失礼します」
「ぶっ!阿呆、笑かさんといて、普通でええし」
ケタケタ笑いながら、万里はタバコを銜えた。すると雷音がすかさずライターを差し出し火を点けようとすると、万里がそれを手で遮る。
「堪忍な、俺好かんねん。ホステスにもやらさんさかい」
と言い見事な装飾のされたジッポを取り出し、火を点けた。ジッポ独特の高い音が部屋に響く。
雷音はふとガラステーブルに投げ出された煙草の箱を見た。ダビドフ・マグナム。ドイツのReemtsma社の所謂、高級煙草。
小さな万里の口に銜えられた煙草は、国産の煙草よりも太いインターナショナルサイズ。煙草の王様と呼ばれるそれは風味も香りも上品質という、日本国内全体が煙草を疎む時代でもファンの多いそれ。
ベビーフェイスに顔の傷に目の色、そしてダビドフ・マグナム。何もかもがアンバランスな男。
「これ、吸った事ある?」
「いえ…」
「俺、これ好きでなぁ。いっぺん吸ってみ?病み付きなるさかい。まだ一本しか吸ってへんさかい、これあげるわ」
万里はダビドフ・マグナムの箱を手に取ると、雷音に投げた。雷音はそれを受け取ると手でそれを弄んだ。
「…あの…さっきの仕返しに来た?」
恐る恐る聞いてみれば、万里はまたブッと吹き出した。
「そへんケツの穴ちっさいこと言わんわ!今日はたまたま蓮が組の奴に電話してきてん。俺がホステス遊びに飽きてる言うてんの聞いたみたいで、ほな、うちで遊んだらどないですか?やて」
陽気に笑う万里にホッとした反面、同時に極道の関係者の連絡先を知っている蓮にも呆れる。しかも、それでホイホイ出てくるコイツもどうだと雷音は心底呆れた。
明神組と言えば仁流会の最高幹部であると共に大阪支部長を務める、仁流会の鬼塚組、鬼頭組と並んで大きな勢力を持つ武闘派極道だと聞く。
仁流会の底なしの力と強さはこの三つの組と、それを纏める風間組の力だとか…。
もし、この三つの組が手を組めば風間組を潰す事も可能だろう。所謂、下剋上。
だが残念なことに鬼塚組の組長と明神組の若頭、鬼頭組の若頭の三人がとてつもなく仲が悪いらしく、手を組むなんて天変地異が起こってもない話ー、よって下剋上もないということ。
その明神組の若頭が…。
「明神組の若頭って、もっと年いってると思ってました」
どっと疲れが出る。極道というよりチンピラの年代。そのベビーフェイスは制服を着れば、問題なく学校へ通えるだろう。
それが極道で若頭で、仁流会幹部。何のジョークだと言いたいが、残念なことに現実だ。
「せやね、よく言われるけど。残念ながら、俺が若頭や」
「そうなんだ…。で、さっきは若頭が自ずから町の掃除ってこと?」
さっさと名乗ってくれれば良かったのに、あろうことか縄張りを仕切る明神組若頭にここは仁流会の島だと得意げにではないものの、威丈高に言い放ってしまった。
思い出すだけで顔が熱くなるほど、マヌケな話だ。
「清掃はなぁ、趣味や」
「…はぁ?」
「身体動かさんと鈍るやろ。俺は書類の見方すら分からんさかいなぁ。ほんまは怒られんねんけどな」
笑いながら言う万里に、雷音は甚だ呆れた。
「それで何かあったら、周りが迷惑するじゃないですか。可哀想に」
「…嫌味やなぁ」
不貞腐れた顔を見せた万里に、雷音はどこか憎めない奴だとフッと笑った。

それから次々料理と酒が運ばれ、万里は見て分かるほどにご機嫌になった。雷音はそれを見ながら、蓮がだいぶ万里から巻き上げる気だなと一人思った。
料理はさることながら、酒の量と種類すごい。万里は雷音以外のホストをつける事をしなかったので、実質、雷音と二人きりだ。
なのにイタリアから取り寄せたシリックのロココ調のガラステーブルには、これでもかというほどに酒や豪勢なフルーツの盛り合わせなどが並べられていた。
バカラのデキャンタに入ったマッカラン12年、一番煙たいウイスキーと称されるラフロイグ30年、蓮の秘蔵の酒のグレンフィディック1937とコニャック・ペルフェクション デキャンタ。
持ってたのかと、ゾッとする様な値段の酒だ。
あとは見慣れたヘネシー エリプス(バカラのクリスタルデカンタだけで30万)とドンペリの白でもピンクでもゴールドでもないプラチナ。ロマネ・コンティ ラ・ターシュの1990。
止めは手に入れたばかりのルイ13世 ブラックパール・マグナム。
きっと今頃、蓮は悪人面に拍車がかかっているはずだ。雷音は極道相手に吹っ掛けるつもりかと、ただ呆れた。
「今時の酒は、えらい上等な瓶に入ってるんやねぇ」
万里はフルーツの盛り合わせの葡萄を頬張りながら、VIPルームの天井にぶら下がるシャンデリアの光でキラキラ光る瓶を物珍しげに眺め、感心したような顔を見せた。
「酒、好きなんですか?結構、飲む方ですか?」
「うん、好きや。酒ならなんやてええ」
「じゃあ、これ飲みます?マッカラン。結構まろやかで飲みやすいですから」
「そないなん?へぇ」
雷音はマッカランをロックで作ると万里に差し出した。万里の真紅の目が、色の濃いマッカランを物珍しげに眺める。そして、一気にクッと飲み干した。
「あ!おい!」
アルコール度40%の酒を、まさか一気にいくとは思わずに雷音は慌てて腰を上げた。だが万里は感嘆の声をあげた。
「おお!!美味い!」
「は?」
「ええよ、これ。マッカラン?初めて飲んだわ」
万里はそう言って笑って、雷音にもう一杯と言った。

極道というのは酒が飲めてなんぼなのか、酒豪でなければいけないのか、鍛えられたのか。とりあえず、万里が酒豪だということがよく分かった。
雷音の酒の話を肴に、万里は休む事なく酒を飲む。自分が口にしている酒の金額を知らないのか、それとも気にもならないのか、飲んで笑って酒の味に感嘆する。その繰り返し。
その容姿からは想像出来ないほどに飲みっぷりは豪快で、雷音を引かせた。
「うーん、美味かった。結構、時間経ったかいな?ほな行くで」
宴もたけなわ、万里は大きく伸びをするとそう言って立ち上がった。
「…は?え?お帰りですか?」
「は?なんを言うてるん?アフターや」
「え!?貸し切りってアフターも!?」
「何や、あんたアフターはせんのんか?蓮が、ここは枕営業禁止やって言わはったけど、アフターはええて言うたで」
唇を尖らして不貞腐れる様子は子供そのもので、雷音は笑いを噛み殺した。
何もかもがアンバランス。武闘派と言われる明神組の若頭だなんて、信じられないほどだ。
「なんやの」
「いえ、別に。そもそもね、男相手に枕営業なんてしないでしょ。アフターってどっか飲みに行くんですか?付き合えって言うなら、付き合いますけど」
「ああそう?ほな決まり。行こか」
「…はぁ」
雷音の返事に満悦して、万里はニヤッと笑って立ち上がった。そして胸ポケットからサングラスを取り出すとそれをかけた。
ベビーフェイスに厳ついクロムハーツ。何だこれ、コントかと雷音は思いながらも、きっとあの真紅の瞳を隠すためだろうなと思い笑う事はしなかった。

明神組若頭、極道、顔の傷、目の色、ベビーフェイス、京弁、ダビドフ・マグナム。
とりあえず手足り次第に突っ込んだオモチャ箱の様な万里の極めつけが、酒神バックスの異名を持つ様な酒豪だ。ザルかと聞きたくなる程の素面さには、頭が下がる。
あれだけの酒を飲み干しておいて、顔色一つ変えないどころか足元が覚束ないなんてこともない。颯爽と歩く姿は素面のそれだ。
「で?どないしたらええん?」
VIP専用出入り口で振り返った万里は雷音を見上げた。VIPルームの出入り口で待機していた万里の舎弟らしき男達は、万里の前を歩き警護にあたっていた。重鎮というのが痛いほどに理解出来る情景だ。
それを改めて感じると、面倒な客に当たったと蓮を恨みもした。
「チェックをして、外で待ってて下さい。用意してきます」
雷音はそう言って万里に頭を下げ、後を会計専門のスタッフである安曇に任して自分はそこから立ち去った。
安曇 桐あずみ きりはBAISERの金庫番だ。店のレジに触れるのも会計を出来るのも全て安曇のみ。
安曇は極道だろうが凶悪犯だろうが金をくれれば何でもいいという金の亡者で、やはり万里を見ても舎弟の男達を見ても顔色一つ変えずに嬉しそうに会計に勤しむ。
きっと、いや確実に今日一番の売り上げを叩き出しているに違いない。
雷音はそんな事を考えながら、スタッフルームに姿を消した。
「疲れた…」
一番、客入りの多い時間帯というだけあって、スタッフルームには誰も居なかった。雷音は小さく息を吐いて、首を回した。
「シルバ!!」
至福の時間も一時、ほっと一息つく暇もなく奏大が部屋に飛び込み、雷音を後ろから突き飛ばした。
「うわっ!」
勢い余ってソファーに身体を投げ出すと、すかさず奏大がのし掛かってくる。するとすぐ深い口付けが降ってきた。
「…ふっ…んっ」
素早く舌が入り込んできて上顎を舐められ、逃げた舌を絡めあげられる。
そんな奏大の後ろ髪を掴み、雷音は無理矢理引き離した。
「はぁ…バカか」
「ん…えー何で…ってか痛いわ。ハゲるやん」
「ハゲろ」
「だって雷音、明神とアフターやろ?俺、そんなんイヤや」
いつになく真剣な奏大に、雷音はため息をつくと、のし掛かる奏大の背中に手を回した。
「死ぬわけじゃないんだし。大丈夫」
ポンポンと背中を叩く。それに合わせて奏大が小さく息を吐いた。
「…ほなキスして」
「調子に乗んな!」
奏大の形の良いデコを叩き、押し退け立ち上がった。そして雷音は携帯と万里に貰ったダビドフ・マグナムをスーツのポケットに仕舞うと、今だに不貞腐れた奏大の頬に軽くキスをした。
「ちゃんと働いてよ、行ってきます」
雷音はそう言って極上の笑みを浮かべると、部屋を出た。