いろはにほへと

いろはseries


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「こんばんは。お久しぶりです」
雷音は、ホールの一番端っこにある一番広いテーブルスペースに座る清水谷に頭を下げた。
齢60を迎えるとは思えない美貌の清水谷は、黒のタイトスカートから伸びる美脚を組み上品なネイルをした指に細いタバコを挟んで雷音を一瞥すると、ニコリともせずに「お久しぶり」と言った。
別に不機嫌な訳でも、雷音が出迎えに出なかったことを不服と思ってのことではなく、これが清水谷なのだ。
この何とも言えぬ迫力に他のホストは萎縮してしまい、どれだけVIPであろうとも誰も清水谷の席に着きたがらなかった。そこへ雷音を宛がったのは蓮である。
気難しさが全身から滲み出ているような清水谷に雷音も初めこそは対応に困惑したものの、一言二言と話をするうちにただ何の柵も遠慮もなく酒を飲みたいだけの客だというのが分かった。
清水谷曰く、酒を美味しくさせるのは高級なグラスといい男らしい。
「お忙しかったんですか?長いこと顔を見せていただけなかったので、どうされてるのかと思ってました」
「忙しっていうよりも、面倒事がね。そうだあんた、蓮に厄介ごと押し付けられてたんだって?」
「…厄介ごとですか」
雷音が座るや否や、煙を細く吐き出しながら清水谷は不躾に言う。
厄介ごとと言われると一つしか思い浮かばないが、なぜ清水谷がそのことを知っているのだろう。蓮がいくら清水谷に頭が上がらないといえど、そこまで話すだろうか。
「隠しても無駄だよ、あんた、明神の若頭を匿ってたね?」
「匿ってたというか」
勝手に居着かれたというか。雷音はすでにテーブルに用意されていた清水谷のボトルを開けて、酒を作り出す。
どこまで話すべきなのか、どこまで知っているのかと考えながら作った酒を清水谷の前へ置いた。
「清水谷さんは、明神組をご存知なんですか?」
「あたしは東から流れてきた人間だからね。明神どころか仁流会には顔が利くんだよ。でもあんた、あれはないねぇ」
「え?」
「明神万里だよ。明神のルビーって呼ばれてるけどねぇ。あんた、ルビー見たかい?」
「目、のことですか?」
それに清水谷は返事をすることなく、ふんっと鼻を鳴らした。
「顔も悪くないし、愛嬌もある。極道にしては威圧感もなく若頭なのに威張らない。うちの店でも女の子のウケはいいんだけどねぇ。あの目と顔の傷はどうにかしてやれなかったのかね」
清水谷はバカラのグラスを手で弄びながら、珍しく息を吐いた。
「えらく、明神さんに肩入れしますね」
意外な言動に、目を丸くする。
無理もない。清水谷がここまで個人のことを色々と言うのは、珍しいことだった。
「あの子はねぇ、うちの店の子が引き抜きにあって、ソープに売り飛ばされそうになったのを手を回して潰してくれた借りが有るからね」
「引き抜きですか?」
「珍しい話じゃないだろ?引き抜きなんてどこにでもある話で、水商売にもなるとTOPに君臨するキャバ嬢なんて取り合いだよ。でも、夜の世界だからこそ落とし穴はいっぱいさ。引き抜きにあった店でいざ働いてみれば、条件が違ったり劣悪な環境だったり、最悪なのが売りをさせられることもあるってことだよ」
「それを、彼が?」
「うちの子が相談したみたいでねぇ。まぁ、あれは見かけによらず気性が荒いところがあるからねぇ。自分の島でそういうことをされているっていう建前のもとで、動き始めたってことだよ」
まぁ、今回もその気性の荒さが原因で大怪我をして、雷音のところへ流れ込んできたのだが・・・。
「何か、あったんですか?」
普段とどこか様子の違う清水谷に、雷音はニッコリ笑いかけた。どこか疲れの色の見える清水谷は儚げに笑う。
「こういうのは慣れてるんだけどね。年なのかねぇ」
清水谷は綺麗に巻かれた髪を弄びながら、煙草を灰皿に押し潰した。
「殺されちゃってね、うちの子」
「…え?」
「蓮は賢いね。あいつが扱うのは男ばかりで、何かあれば抵抗の出来る術を持っているもんねぇ。それに比べると、女は弱いねぇ」
「殺されたんですか?」
「それのせいで明神が動いて、無茶してるんだよ。若頭さんの女が可愛がってた子だったらしいからね」
「…え!?」
「は?なによ」
「え?女?女って、あの人、女が居るんですか?」
殺されたことよりも何よりも、それに一驚してしまい声を上げた。思ってもなかった事実だ。
「ええ、居るわよ。かなり長い子でね、和花のどかっていうのよ。綺麗な子よ。うちの子じゃないけど、お水の世界で知らない子なんて居ないくらい有名でね」
雷音は、へぇ…と何事もないような返事をしながらも、喉元に何かが引っかかったような感じがして清水谷のボトルで貰った酒を一気に飲んだ。
「でも、あんた、あんまり関わるんじゃないよ?いくら蓮の言いつけだっていってもね、あっちは極道なんだからね。関わっても何も得るものはないよ」
まぁ、それは俺が与り知らぬところの話と思いつつ、余計なことは言うまいと頷いてみせた。

「シルバー、疲れとるんー?」
控え室のソファで寝転んでいると、いつの間にか眠ってしまったらしくそんな雷音に奏大が物珍しそうに声を掛けた。
雷音はそんな奏大を片目だけ開けて見て、うーんと伸びをした。
「疲れてはないけど、少しだけ飲みすぎた」
清水谷は酒豪である。いつもならば自分のあとの仕事のことを考えてセーブして飲むのだが、今回は速いペースで酒を飲んでしまった。
時計を見ると、清水谷が帰ってからそんなに時間は経っていないのが幸いだ。ここで数分と言えども寝こけていたことが蓮にバレれば、ろくなことにならない。
「なぁ、奏大。和花って知ってる?」
「のどか?…のどかって…まさか、あの、和花?」
奏大がギョッとした顔をして、雷音を見る。何か変な事を言っただろうかと思いつつ、とりあえず頷いた。
「まさか、雷音、和花狙い…」
「は?違うけど?逢った事もないし顔も知らない。ただ、清水谷さんとこの女の子がトラブって、助けたって」
とりあえず、の事だけを伝えると奏大は「なーんだ」と安心したように言って、起き上がった雷音の隣にちょこんと腰を下ろした。
「まぁ、雷音はどう思ってんのか知んないけど、ほら、雷音ってホストの世界では頂点やん?」
「…あー」
「そりゃ、雷音がこういう話嫌いなん分かるけど、実際、雷音はそうやの。まぁ、その雷音がホスト界の王って例えるなら、キャバ嬢界の女王がその和花。amour en cageのNO.1やね」
「逢ってみたい」
「……は?」
「その、NO.1っていう女に逢ってみたい」
「え、ちょっと、な、ええ?」
「確認しておきたいことがあるんだ。でも、俺はそういう伝手とかないし。奏大ならどう?」
「どうって…」
ない事はないけどと口ごもりながら、奏大は眉を寄せた。雷音の突然の申し出に困惑している様だ。
だが、次にはスーツのポケットからスマホを取り出した。
「確認やけど、その女に恋愛感情があるとか、美人やから逢うてみたいとかやないよな?」
「違う」
「…わかった。何とかするわ」
そう言う奏大の頬に口づけて、雷音は礼を言った。
清水谷はその辺のキャバクラのオーナーではない。何軒もキャバクラを運営していて、女オーナーとしてその名を馳せている。なので、清水谷の情報は確実なはずだ。
だが、雷音はどうしても自分のその目で、耳で確認しておきたかったのだ。

和花に逢えることになったのは、それから遠くない日だった。
さすがNO.1キャバクラ嬢というだけあって、なかなか指名が取れなかったようだが奏大はBAISERの雷音の名前を使って、その権利をどうにかもぎ取ったようだった。
BAISERとは違う街にあるキャバクラなどが軒を連ねる所謂、花街。その一角にどこよりも大きくきらびやかな店がある。まるで黄金城のように輝きを放つそこが、和花の居るamour en cage。
店の入り口は大きな洋風の観音開きのドアがあり、ホストの様な甘ったるい顔をした男が二人、門番をしている。雷音はその店が見える場所で、煙草を燻らしていた。
客層はBAISERと変わらず、皆、良質なスーツを身に纏った紳士が多い。一見さんお断りというだけあって、キャッチらしき人間は見ない。
たまに客を見送りに出て来るホステスは、さすがと言わざる得ないような粒揃いだ。
雷音はある程度の観察を終えると煙草を携帯灰皿に捩じ込み、臆する事なくamour en cageへ歩を進めた。

店内は2階建てだった。外装同様、中も眩しいほどに明るい。
中に入って、1階と2階で客層のタイプを分けているのがすぐに分かった。簡単な分け方だ。
羽振りの良い上客は2階に上げられる。そして雷音は今、2階の一番広い席に座っていた。
これはBAISERの雷音としての価値もあり、そして蓮の店の人間というのもあってのことだろう。
広い2階ホール。一つ一つの席の空間を大きく取っている。隣の席とはきっちり仕切られていて、僅かに笑い声が漏れ伝わる程度。それだけ席と席が離れてもいるということだ。
1階と2階は吹き抜けになっていて、2階の踊り場から1階が一望出来る。あまり趣味が良いとは思えない。見下ろされたくなければ、早く上へ上がってこいと言わんばかりだ。
雷音はふーっと息を吐いて、煙草を銜えた。すると、その煙草の前にスッと火が差し出された。それに何も言わずに煙草に火を点け、そして、その火の先を見た。
白く細い腕。長いストレートの黒髪をキラキラと輝く宝石で横に纏めて、黒のタイトなドレスで身を包んだ女はニッコリと笑った。
「こんばんは、和花です」
際どい位置まで切れ上がったスリットから伸びる足は、見事なまでの脚線美だ。豊満な胸を隠すつもりはないようで、胸元が開いたドレスはその胸が零れ落ちてきそうだった。
だが下品さは一切ないのは和花のその顔立ちのせいだろう。
気品と知性の溢れるその顔は、大きな意志の強そうな目が印象的だ。小さな鼻と果実の様な唇がどこか少女のようで、ただの勝ち気な女というのを消し去っていた。
「まさかBAISERの雷音さんが、来て下さるなんて。何か、飲みます?」
「ああ、好きなの頼んでいいよ」
雷音がそう言うと、和花は近くに居たボーイに手を上げた。雷音の地位に見合った、それ相応の酒を頼む和花を同業者として観察する。
ふわりと花の様な香りの香水は、甘過ぎず重過ぎず。長時間一緒に居て、まるで抱き合ったかの様に残り香が移る様な強さもないものだ。
細く長い指先はフレンチネール。年配の客を相手する事が多いのか、その世代の人間でも嫌悪感を抱かないようにしているのだろう。
爪の先から髪の先まで、”商品”としての自分を余す事なく磨き上げているのは好感が持てた。
「雷音さんにお逢い出来る日が来るなんて、夢の様です」
「そう?」
「雷音さんは、というよりもBAISERのキャストの方はこういうお店に来ないと聞いてましたので」
「まぁ、来ないね」
和花はふふっと笑って、ボーイの持ってきたボトルで酒を作り始めた。
そして雷音は煙草を消すと、徐にスーツのポケットから煙草の箱を取り出してテーブルに置いた。その箱に和花は小さく声を上げた。
「珍しいお煙草ですね」
「知ってる?」
「ええ、私は煙草を嗜みませんので味は分かりませんが、ダブドフ・マグナムでしょ?」
和花の言ったそれに、雷音はフッと笑った。和花はそれに首を傾げながら、出来上がった水割りを雷音に差し出した。
「明神万里と同じ煙草だろ?」
「……」
万里の名前に、和花の目が一瞬鋭さを見せた。だが、すぐに嫣然として微笑んだ。
「知らないわけ、ないよね?明神組の明神万里」
「明神組の若頭の方を知らない人間は居ませんよ、この界隈はとくに」
この界隈。確かにこの界隈は明神組の島だ。こういう商売をしているのであれば尚の事、明神組と何の付き合いもないと言う方が嘘だということだ。
それならば…と、雷音は水割りに手を伸ばし、ロックアイスを指先で撫でた。
「君、ルビーは見た?」
「…ルビー」
品のある赤いルージュが引かれた唇が、その言葉を紡ぎ出す。
じっと雷音を見る和花の目は、真意を探っているようだ。無理もないかと雷音は息を吐いた。
「俺は今、BAISERの雷音じゃないからね。そういう気遣いなしに質問させてもらうけど、明神と付き合ってるって聞いたんだけど?」
「ふふ…。ここ数日、うちのお店は女の子も従業員も店長も、みんな落ち着かなかったんですよ?だって、あのBAISERの雷音さんがいらっしゃるっていうんですもの。でも、それは私に興味を持って遊びに来てくださった、というわけではないのですね。ところで、その不躾な質問はどういう意図をお持ちなんですか?」
「別に君を脅そうとか、言いふらすつもりがあるとかじゃないよ。ただ、明神万里に散々な目に遭わされた俺なりの確認」
「散々な?それで、確認なんですか?」
「まぁね。でも、どうしても答えたくないっていうなら、無理強いはしないよ?」
「いえ、折角、こうして足を運んでくださったんですし、お答えします」
和花はすっと背を正して雷音に向き合った。そこで雷音は初めて、自分が緊張しているのに気が付いた。
雷音は自他ともに認める、完璧なポーカーフェスだ。何を言われても顔色一つ変える事はないだろう。
だが心情は穏やかではなかった。内側からドンドンと、痛いほどに鼓動が脈打つ。血液が逆流しているかのように腹の底が熱くなって、死刑宣告を受ける罪人のような気分がして、耳鳴りがした。
「明神と付き合っているかというご質問でしたね?その答えは、イエスです。彼、万里さんと私はお付き合いさせていただいております」
澱みない声だった。嘘偽りのない、明々白々なしっかりとしたそれに雷音は嘲笑した。
それは、あの男はあんなにもいい加減なのに、和花はあまりにも真っ直ぐだったせいだ。
「そう、ふふふ…」
雷音は笑って、ソファに深く腰掛けると一気に酒をあおった。
「ああ、ごめんね。フェアじゃないな。俺が遭った散々な目っていうのは、部屋に不法侵入されて好き勝手されたっていうだけの話」
「万里さんらしいですね」
和花は柔らかく笑った。
その顔を見て、雷音は奈落の底に突き落とされた様な絶望感も味わった気分になった。
裏切られたという絶望感なのか、男に本気になりかけていた浅はかな自分への絶望感なのか、それは分からなかった。
それから雷音は和花と他愛無い話をして、店を出た。
和花はさすがNO.1というだけあって、申し分のない女だった。雷音を見ると上の空になってしまう女とは違い、しっかりと目を見て話が出来る女で会話にも退屈しなかった。
別に雷音と万里は付き合っているわけではない。愛の言葉を囁き合うような仲でも、手をつないで街を闊歩する仲でもない。第一、男同士だ。
だが寝てしまったのは事実であって、和花と話をする度に言い様のない息苦しさを覚えた。