いろはにほへと

いろはseries


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雷音は雨の降る街中の片隅で、ぼんやりと行き交う人を眺めていた。
みんな、何をそんなに急ぐのか。忙しない街だなと息を吐いた。
愛なんて、何の武器にも糧にもならないと思っていたが、雷音へダメージを与える武器にはなったようだ。
信じていた人に恋人が居たなんてチープな事は言わない。そもそも信頼関係があったかどうかなんて微妙なところだ。
あったのは快楽と酒と煙草。それが全て万里と繋がってるのだから、それはそれで笑える。
「ほんと、ろくでもない奴」
雷音はそう独り言を呟くと、スーツのポケットからスマホを取り出した。
BAISERは基本的に客とのプライベートでの個人的なやり取りは厳禁である。いくら会員制高級クラブと言えども、所詮は風俗店だ。そんな場所へ通っている事が外部に漏れると、立場的に拙い客が多い。
なので万が一の事を考えて、それが厳守するべきルールとしてある。
何もかもルール違反だよなと考えながら、アドレス帳を呼び出し、登録したての名前を引っ張り出すと通話ボタンを押した。
出ないと思われた相手は、2コールで出た。それにギクリとしたようなホッとしたような、何とも言えない気分に襲われ項垂れた。
電話の向こうはやたらと賑やかで、その相手、万里が待って!と叫んでいた。
そういえば電話をするのは初めてだな。そんなことを思いながら、雷音はダブドフ・マグナムを一本取り出して銜えた。
『あー、堪忍なー。もうええで。どないしたん?今、外?』
「外、あんたはうるさいとこに居るんだな」
『ああ、会長ん誕生日会。年考えたらええんにな。やて、祝ったらんと不機嫌になるさかいに』
「へぇ…」
文句を言いながらも、声は嬉しそうだ。そんなめでたい日に余計なことを言うのはなと思ったが、済し崩しになるのは避けたい。
雷音は息を吐いた。
「あんたに、言っておきたいことがあって」
『ん?なんやろ?どないん?何や、怒ってる?』
珍しく敏いなと思いながら、紫煙を吐き出し笑う。キツい煙草だな、と。
「俺、あんたともう逢いたくない」
思っていたよりも、するっと喉から溢れ出た。そしてその言葉を吐き出した途端、肩がフッと軽くなったように感じた。
『は?どないん?』
思いもよらない、といった感じだった。まぁ、確かにそうだよなと思う。
それなりに上手くやってきたと思う。短い期間ではあったものの、自由奔放な万里に戸惑うことはあったが、居心地は悪くはなかった。
一緒の屋根の下で暮らした時期も、他人と一緒に居るのに何の苦痛も感じなかった。それくらいに相性は悪くなかったと思う。多分。
「急か?」
『せやねぇ。急やね』
「俺にも守りたい人間が出来たから、極道とは手を切りたい」
『あらあら、いつの間に』
電話も向こうの声が、すっと冷めたのが分かった。
あの赤い瞳は今、何を見ているのか。雷音は傘を叩く雨音を聞きながら、紫煙を燻らせた。
『ええ関係やと思っとったんは俺だけ?』
「いい関係?俺と、あんたがか?」
雷音は苛立った様に、少し声を荒らげた。
何に苛ついているのか何が腹立たしいのか、どうしてこんなにも惨めな気分なのか分からないまま、雷音は大きく息を吐いた。
「マジで、最低」
『はー、そない。ま、最低やな』
何に対して言っているのかは分からないが、万里の声が傷ついたような音色に変わった。
どうしてそこで、お前が傷つく?傷つけられたのは…。
『なぁ、そん雷音ん相手って、俺も知っとる?』
「……」
『何も危害加えたりせんよ?ただ、雷音んハートを射止めたんは誰なんかなーって』
「…奏大だよ。奏大」
どの口がそれを言うんだと思いながら、ふと浮かんだ顔を口にした。万里相手なら男も女も関係なしだ。
それに、もし万が一何かあったとしても、奏大になら事情を話して協力してもらうことが出来る。
我ながら計算高くて飽き飽きするが、相手は万里だ。用心に越した事は無い。
『ん?えーっと、誰?奏大?』
「ルートっていう、うちのNO.2」
『ああ、あの兄ちゃんか。あの子、あんたんことほんに好きって、ダダ漏れやったもんなぁ』
万里は電話の向こうで笑った。いつもの少し軽い調子で。それが雷音を苛立たせた。
「もう切るぞ」
『ああ、分かった。あー、やて、そうなんかー。せやね、雷音は極道嫌いって言うてはったもんなぁ。しゃーないね』
「…嫌いだよ」
お前なんて、と声に出さずに唇だけ動かす。
やっぱり極道なんて外道だと、改めて心底実感する。
極道も、明神組も、万里も、赤い目も、全部、本来あるべき雷音を狂わせた。そのすべてが今は嫌いだと思った。
『ま、しゃあないか。ほな、今までおおきに。ほな、さいなら』
ブツッと切れた通話に、ぐっと喉の奥に何かが詰まる。それを無理矢理、煙草を嗜む事で飲み込んで、雷音はアドレス帳から万里の記録を消した。

「馬車馬のように働くのは結構やけどなぁ、あの投げ遣り感は好かんなぁ」
蓮は監視カメラの映像が写し出されるモニターを見ながら、ピーナツを頬張る。ホールや廊下、VIPルームなどに数多く付けられた監視カメラの映像の中のひとつ、雷音が映るモニターを指先で叩く。
蓮の居る部屋は名目上は支配人室だが、実際はこうしてありとあらゆるところに仕掛けられた監視カメラを見るモニタールームだ。
もし意にそぐわない行動を客がしたりすれば、例え上客であろうが、どこぞの名のある人物であろうが店からたたき出す。BAISERは蓮の支配する帝国だといっても、過言ではないのだ。
最近の雷音は、前代未聞というべき売り上げを叩き出している。それは、蓮からすればありがたいことだ。
利益優先の強欲主義と言われるかもしれないとしても、結果、そこが全てなのだ。
だがそれは蓮が気に入る範疇での話。客同様に、ホストに対しても蓮は私情でものを言う。
蓮が客として来店したとして、その対応を気に入るか否か。そんな到底、誰にも分からないような私情を挟んでくるのだから、ホストはたまったものではないとは思う。だが、嫌なら辞めればいいのだ。
しかしそれだけ私情を挟んだとしても、雷音に特段、問題があるとは言えないがそれでもやはり気に入らない。
別に客に失礼をしたり、規約違反を犯している訳ではない。ただ、気に入らないのだ。
「安曇、そういやここんとこ明神組の若頭さん、見んやんけ。元気になったんやろ」
安曇は自分の整頓されたデスクで、只管、ノートパソコンに何か打ち込んでいたが、蓮の言葉に目線だけ向けた。
「先日、補佐の方からご連絡をいただきました。色々と迷惑を掛けて申し訳なかった。今後、店の方へは赴かないが何か困った事があれば連絡をと」
「えー、上客やったのにー。でも、へぇ、そうなん。それが原因か?いや、まさか雷音に限ってなぁ」
蓮はピーナッツを上に放り投げると、それを器用に口に落とした。
「若頭を預かった諸費用並びに迷惑料、それに対する手数料を請求させていただきました。そこから今月の売り上げとして、彼に渡すつもりです」
「ああ、問題あらへん。いいんやない?」
敢えてその額は聞かない。
安曇は数字に関しては天才である。相手を見て、どこまで引き出せるか瞬時に判断が出来る能力に長けている。
今回も、迷惑料か果ては手数料かは現金ではなく”何かあれば、うちの事もお願いします”の約束料だろう。
現金を引き出す相手か、約束を引き出す相手か。蓮が言わなくても、BAISERの金庫番である安曇は蓮の思惑通り行動する。
「世の中、金か」
「蓮さんっ!」
安曇が急に声を荒らげて立上るので、蓮は驚いて投げたピーナッツを口に落とせなかった。
「なんやねん」
相内会しょうないかいがっ!」
安曇が指差すモニター、ちょうど中央テーブルらへんに黒い服の出で立ちの男ばかりが数人立っていた。
蓮はピーナッツをモニターに投げつけると、クソッと吐き捨てた。
「美田園は何しとんねん!」
バッとモニターを正面入り口に変えると、そこには大柄の男に腕を捩じ上げられる美田園の姿があった。その隣では美田園の同僚の高坂が転がっている。
「くそったれが!!お前はこっから出てくんな!」
蓮は安曇に言うと、椅子に掛けていたジャケットを掴んで部屋を飛び出した。

「ああ、お気遣いなく」
低過ぎず、高過ぎず、だが音色の良い声がホールに響く。今のこの状況にひどく不似合いだ。
黒服が転がるようにして店に入ってきたと同時に、この相内会の人間も一緒に店に雪崩れ込んできた。
ただ事ではないそれに、多くの客は驚き悲鳴を上げた。
パーテーションで客を隠すようにして、一番先に相内会と向き合ったのは雷音だった。
「ようこそ、と言いたいところですが、うちは会員制のホストクラブです。会員以外の方の入店はお断りしております」
澱みなく言い放つと、一番前に居た大柄の男、といっても雷音が長身なので身長差は対してない男が声を荒らげて雷音の胸ぐらを掴んだ。
「やめぇな、井岡」
中央テーブルのソファに腰を下ろした男の、場違いなほどに耳障りの良い声が再度ホールに響いた。
男は相内会、稲峰組若頭 柴葉 壱祈さいば いっき。この裏世界とのモメ事がないBAISERが唯一、大モメにモメた極道だった。
柴葉は品のあるスーツを上品に着こなし、赤茶色の髪を後ろに撫で上げていた。すっと通った鼻筋と、切れ長の一重の目が彼の冷酷さを色濃くしている。
雷音は自分の正面に居る奏大に目配せした。すると奏大は頷いて客をゆっくりと裏口へ誘導し始めた。
「うん、ええ心掛けや」
柴葉はそれに気が付いたようだが、特段、それを咎めることはしなかった。
狙いは何だ?雷音は蛾眉を顰めた。
「柴葉さん、うちとあなたとは話し合いがついたと思うんですけど」
「うん、そうやね。でもね、極道なもんでね、はい、そうですかって引くわけにもいかんでしょ?羽振りもよろしいみたいやし?」
「前に蓮からお話したと思いますが、うちは上納金の類は一切、致しません」
「ふーん」
柴葉が煙草を銜えると、それが合図だったかのように雷男の後ろに居た男が雷音の足を掬いあげた。
背後からの攻撃になす術のなかった雷音は、高級な絨毯に顔を打ち付けた。すると男は雷音が立上らないように上から押さえつけてきた。
「あほなんか、利口なんか」
柴葉は呆れたように言って、テーブルに置かれていた酒瓶の蓋を開けた。そして、その中身を雷音に垂らした。
鼻をつく酒の香りと、周りの黒服とホストの動揺する声が聞こえたが、ここで反撃したら終わりだと雷音は瞠目した。
「困ったねぇ、ほんまに。あれ嫌、これ嫌はあかんて分からんか?」
「柴葉っ!!」
ホールの奥から、聞きなれた怒鳴り声が聞こえた。蓮だ。
その声が聞こえると、男は雷音を拘束する手を緩めた。それに気が付いた雷音は、手を振りほどいて立ち上がった。ぽたり、酒の雫が前髪から零れ落ちてきた。
「ああ、こんばんは。蓮さん」
「何やねん、今更。あんた、もううちと関わらへんって言うたやろ」
蓮が鬼の形相で柴葉を睨みつけるが、柴葉はそんなもの何てことないとばかりに笑った。
「あのね、蓮さん。極道相手に約束なんて、通用する思うとる?まぁ、昨今では幼稚園児でも平気で約束破るくらいや。約束なんて、あってないようなもんやで」
「何言うてんねん。その約束のために、約束代金渡したんやろうが!」
「そうやったかいなぁ?あんな、蓮さん。金ってもんは、形に残らん。何でかって、そりゃ、使うてまうからやん?そんなもん渡した言われても、今、手元にあらへんもんはどうもなぁ」
柴葉はテーブルに煙草を押し付けると、店をぐるっと逡巡した。
「何が望みや」
「蓮さん!!」
叫ぶ雷音を蓮は睨みつけ、苛立った様に柴葉に再度、同じ言葉を繰り返した。
「そうやねぇ、週3本でええかな」
「…はっ、そないなもん、飲めるわけあらへんやろ」
蓮は乾いた笑いを吐き出して、話にならんと頭を掻いた。
週で3本、ようは毎週300万用意しろということだ。さすがのBAISERでも、そんな額を毎週毎週、用意するのは無理な話だ。
第一、一度そういう類いのものを納めると、必ず金額は釣り上がる。3本用意出来るという事は、4本用意出来るということだという無茶な要求を平然と言ってくるのだ。
「うーん、じゃあ、あれ、ちょうだい」
柴葉は長い足を組み替え、にっこり笑った。それに蓮がハッとした顔をして、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「おま、それが狙いか!あれは話つけたやろうが!」
「そうやっけ?悪いね、俺、物覚え悪いからね」
二人の言う”あれ”が何か分からなかったが、かなりまずい状況だと雷音は目だけで店内を見回した。
とりあえず店内に客は居ない。そして、今、この状況は監視カメラによって録画されている。これを証拠に、営業妨害で警察に通報するか。
そんな事を考えていると、先ほどの大柄の男、井岡が蓮を殴り飛ばした。
「おい!!」
「やめぇ!雷音!!」
雷音が拳を握ったのを見て、蓮が叫んだ。
「うんうん、賢いね。そうか、お前が雷音か。ここのNO.1ホスト。その顔、自前なんか?」
「自前に決まってんだろ」
と吐き捨てる様に言った雷音の視界に拳が見え、雷音はそれを紙一重で避けた。シュッと風の切れる音がした。