いろはにほへと

いろはseries


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稲峰の件が片付きひと息つく暇もないまま、仁流会系の組への襲撃が後を絶たずに万里達は奔走していた。
火種は小さなものばかりだが、風間組の経営する店舗への嫌がらせなど明神組としては黙っていられないものも増えてきていた。
何だか嫌な予感がすると万葉は言っていたが、確かに最近の仁流会を取り巻く空気が、どこか妙だ。
「風間のとこだけやのうて、鬼塚のところにも色々と嫌がらせの類はあるんやないの?」
「それはどうでしょうね。聞いたところで言ってくれるとは思いませんし、うちは風間組の護衛がメインなので自力でなんとかしてもらうしかありませんね」
神原は最近メインとして使っているBMW M760Lの後部座席をルームミラーで確認して、フッと笑った。
「落ち着きませんか」
「落ち着かんなぁ。なんで着物やねん」
万里は不貞腐れ気味で言った。事務所に呼ばれ行けば、初老の男が着物を広げて待っていた。
何事かと思えば神原に服をひん剥かれて、男に着物を着付けられた。新年の挨拶でもいつでもスーツなのに着物!!
着物といっても礼装ではなく外出着。羽織袴ではなく長着と羽織。黒の西陣織り正絹紬に白に金の刺繍の施された角帯。羽織は赤で背中には虎紋様が豪快に描かれている。
趣味悪!!と言いたいような着物を無理やり着させられて車に押し込められ、万里は半ば不貞腐れ気味だ。
「今から人に逢っていただきます」
「人?誰?せやからこの格好なん?」
「今回、あなたが勝手をしてくれたおかげで組には損失が出てきます。その損失を補っていただくため、若頭として働いていただきます。正装でお逢いしたほうが良い方ですので、着物を召してもらいました」
「はぁ…」
なら、もう少しマシなチョイスにしてほしかった。こんな姿、冬子に見られたら卒倒される。羽織を着せられた時点で、いや、ちょっと待ってと思ったくらいだ。
自分でも容姿に色々と問題があるのは分かっている。顔の傷や目のことだけでなく、顔の造形が色々と問題があるのは重々承知だ。
それに拍車をかけるかのようにこれはないだろうと、本当に思ったのだ。これはないよと。
「え、やて、俺だけ着物?」
「ええ、あなただけです」
何それ、お飾りやあるまいしと思ったものの、それもまたいつものことだ。いつも通り神原の隣に座って神原が話すことを黙って聞いて頷いて、余計なことを一切言わなければいい。
別にそれには文句はないが、難しい話ばかり聞いてると眠くなるのだ。だが少しでも眠いような顔を見せると、神原に殺されてしまう。もう少し楽しい話をしてくれればいいものを。
万里は気が重いなぁと車窓からふと外を見て、首を傾げた。
「え、ホテルなの?」
「はい、あまり顔を知られたくない方ですので」
そこは明神組が経営するのフロント企業のホテルだった。どこかの料亭にでも連れて行かれるのかと思ったが、まさかのホテル。顔を知られたくないって益々、面倒臭い相手だわと万里は車から降りると肩を落とした。

神原が誰かに逢えというのは稀である。稀ではあるが、その稀にある逢えという時は煩わしい人物が相手であることが多い。
神原は万里に表舞台での相手側との交渉や接待などに一切期待をしてはおらず、どちらかというと出すのを嫌う。それは万里が良い意味でも悪い意味でも正直だからだ。
含みを持たせることも出来なければ、おべんちゃらも使えない。YesかNoしかないのだ。なので極力、万里に逢いたいという願いは断ってきている。
それに万里に逢いたいと言う相手は、大抵、万里の地位などを目当てに言うのではなく、その容姿と目に興味を見せることが多い。万里はそれを面倒だとは思うが、仕方がないことだと思っている。
だが神原はそれを嫌うので、明神組若頭として対等に話がしたいと言ってくる者にしか逢わせないのだ。
しかし若頭として逢いたいと言われても万里は正直、組のしのぎがどうとかシマがどうとかはあまり分かっていない。
明神のシマで悪どいことをしている奴がいるので動けと言ってくるのは神原だし、組が経営している店も神原に連れられて顔を出して認識している程度。全て頭の中に入っているわけではない。
それはそれでどうかと思うが資金面は神原、力の面は万里という役回りが万里の中だけではあるがそう決まっているのだ。なぜなら、資金面に関してはいくら学んでも理解できないからだ。
乙が甲が、買掛が売掛が…。いや、もう宇宙の言葉じゃないですか?というやつだ。
もう力技だけでは極道は生きてはいけないのは分かる。時代は変わったし、極道だって経済に長けてなければ生き残れない。
だが力がゼロかと言われたらそれはNOだ。力があってこその極道だ。
その力を頑張るので、あとはよろしくお願いしますというのが本音だ。
「いいですか、今日は私はご一緒出来ませんから」
エレベーターに乗って目的階のボタンを押した神原に適当に相槌を打った。だが、すぐに神原の言葉が綺麗な羅列を組んで万里の頭の中に並んだ。
「え、ちょお待って。ご一緒出来ひんって…どーゆうこと?」
「極秘に会談したいそうですが、若頭と差しでお話したいそうです。ですので、くれぐれも失礼のないように」
「え、ちょお待って、あかんやん。いやいや、チャレンジャーかいな。俺を一人で?」
遂に強行に出たかと万里は無理だと首を振った。無理ですよ、妙な話されて適当に返事して適当にサインとかしたらどうするつもり?
「私も大変不本意ですが、相手側の要求を飲むしかありませんので」
「え、何それ、そない下手に出なあかん相手てどちらはん?」
「人身御供ってご存知ですか?」
目的の階に着いて、神原は一番いい笑顔で万里を見た。
「俺を??」
「最近はよく分かりませんね。若い身体が好きなお爺さんもいらっしゃる」
「いやいやいやいや、待って。そんなん無理。ちょっと、俺、男娼やないし…。あ!!せやからこれか!」
この妙な着物といい、そもそも万里が動いているのに由が居ないのも妙な話だ。若頭補佐に戻ったのなら、万里のそばを片時も離れないはずの由が居ない。
「謀ったな!!」
「お前にしてはまともな言葉を喋るな。安心しろ、片目が赤い男娼とか妖怪かよ。冗談や」
神原は万里の背中を押してエレベーターを降りた。
お前が言うと冗談には聞こえないんだよと、万里は青い顔で神原を見た。
「冗談はさておき、私がご一緒出来ないのは事実です。大丈夫です。気難し人ではありません。ただ、あなたと話がしたいそうですよ、明神組若頭のあなたと。あなたは聞かれたことにだけ答えてくだされば大丈夫です。余計なことは言わずに、聞かれたことだけ話してください。あなたから問いかけてはいけません」
「何のルールやねん」
「あなたの行動一つで、これからの組の行く末が決まるんです。明神組をいつまでも番犬呼ばわりされたくなければ、しっかりと若頭としての仕事を一生に一度くらいしてくれませんかね」
「いや、しっかり頑張っとるよね?何もしやへん子みたいに言わんといて」
実のところ、こういうことは初めてではない。若頭である万里に逢いたいという相手は妙な連中が多い。
逢うなり万里の格闘の腕前を試そうとする者も居れば、とりあえず酒を飲もうと、ただ飲むだけの相手も居た。
前者は仁流会の番犬である明神組の若頭である万里の腕前を、その目で知りたいという者。後者は会長である明神万葉の一人息子にただ逢いたかったという、万葉の信者。
どちらも面倒極まりない相手だった。
「人身御供やん、ほんまに」
万里はげんばりして頭を掻いたが、神原はそれに返事をすることなくある部屋の前で立ち止まると、カードキーを取り出した。そして、ドアをノックするとカードキーを差し込んだ。
「いいですか、くれぐれも失礼がないように聞かれたことにしか答えないで!」
神原はそう念押しすると部屋に万里を押し込んだ。
部屋は真っ暗だった。わざとそうしているのか、どちらにせよサングラスをしてると余計に何も見えないと渋々、サングラスを外した。
だが視界は変わることなく、暗いままだった。しかしよく見ると奥の方からわずかな光が見える。万里は声を出そうとして口を閉ざした。
喋ったらダメなんだっけと、ゆっくりと廊下を進んだ。
毛の長い絨毯のおかげで足音は消されているが、万里が入ってきたことは分かっているだろう。そのうち何か話すだろと万里はそっと壁に手をやって、部屋をどんどん進んだ。
光はカーテンの隙間から僅かに漏れる街のネオンだった。だが、あまりに僅かな光のせいで部屋は暗いままだ。
段々とイラ立ちが込み上げてくる。何か喋れよ!と思いながら、人、居るよなと不安にもなった。
神原がそんなヘマはしないと思うが、実はまだ来てないとか?なら、電気を…。
コンっと壁を叩く音がして、万里はギョッとした。やはり、人は居たのだ。これ、返すべきなのかなと思いつつ、とりあえずコンっと壁を指で弾いた。
視界が遮られると感覚が研ぎ澄まされてくる。案の定、万里の神経はあらゆるところにアンテナを立てて、どこに人が居るのかを探し始めた。
「……」
来てる、と思った。すぐそこまでゆっくりと向かってきている。僅かだが空気が動いている。
さて、どうする。喋るなと言われたが殴るなとは言われなかった。これは…何かの試験か?
ふっと腕を構えようとして違和感に気が付いた。ああ、着物だった。
着物のせいで足が広がらない。羽織のせいで腕に余分な負荷がかかる。最悪…。
と万里が気を抜いた瞬間に、腕を捕まれ引き寄せられた。
「うわ!!」
あまりに突然のことで対処も出来ず、万里はバランスを崩した。だが、その身体を逞しい身体が受け止めたのが分かった。
そこに収まった瞬間に、万里も相手に腕を回しギュッと抱き締めた。
「雷音…」
見えなくても、見なくてもそれが一瞬で分かった。名前を呼ばれた雷音は万里の身体を抱きしめると、髪に鼻を埋めて耳元に口付けた。
万里は探るように雷音の顔を両手で掴むと、その唇に口付けた。軽い口付けを何度か交わし、ゆっくりと深い口付けに変わっていく。
互いに舌を絡ませて、それでも足りないと雷音は万里を痛いくらいに抱きしめた。だが、ふっとその力が緩んで、口付けを離した。
「待って、何着てるんですか?これ、スーツじゃない」
雷音は万里を抱きしめながら部屋の照明のスイッチをつけた。急に明るくなった部屋にお互いが視界を奪われた。
だが、それもすぐに慣れ、見覚えのある甘ったるい笑顔に万里は息を吐いた。
「雷音や…」
「え?着物?なんで?」
「いや、そもそもなんでここにおんの」
「え…なんでって」
雷音はとりあえず万里と部屋の中央にあるソファに向かい、隣同士に腰を下ろした。
「あなたに逢うなら今日しかないって言われたんです。あの、うちに一緒に着てた飛鷹さん?が居ないからって」
「由?ああ、確かにおらんけど…え?神原が俺と逢うならって?」
「ええ、神原さんとは連絡取り合ってたんで」
「ああ!?」
あんの、クソ狐!!やっぱり謀ってやがった!!人に隠れてコソコソと…。
「いや、えーっと、あれからどへんしとったん?俺、もう雷音には逢われへん思うとった」
「きちんと、父と兄と話しました。俺、一新一家の若頭補佐です」
「……は?」
「え?」
「いや、え?極道なん?ホストやのうて」
「いえ、ホストです」
え?こんな話が出来ひんアホやったっけ?と万里は頭を抱えた。
「え?BAISERは?」
「今回、勝手に辞めるって言ったせいで損害が大きかったみたいで、給料ランク下がりました」
「いや、そないなこと聞いたあらへん。BAISERは辞めへんで極道なん?」
「はい。兄があまり社交的な人間じゃないんで、俺は外側でパイプを築くことになりました。言うなれば神原さんみたいな役割かな」
いや、神原は俺が無能やから外に出したくないだけなんですけどと思いつつも、万里は突然のことに思考がついていかなかった。
「一新一家の若頭補佐で、BAISERのホストで楢崎雷音?」
「楢崎は母の旧姓です。母にも旧姓使ってるのバレて死ぬほど怒られました」
「由良雷音…芸名かいな」
「明神万里もでしょ?」
雷音は柔らかく笑って万里の頬を撫でると、軽く口付けた。そして身体を引き寄せると抱きしめて、もう逢えないと思ったと小さく言った。
「何をどうしたって助けたかった。あのときほど、自分が一新一家の家の人間で良かったと思ったことはない。本当に、よかった」
「雷音…」
その時、万里が胸元に掛けていたサングラスが外れて落ちた。雷音はそれを拾うとテーブルに滑らして、頬の傷を撫で左目の睫毛を撫でた。
「サングラス、してきたんだ」
「着物にサングラスって、よぉ考えたら間が抜けとる」
「そう?似合ってる…」
雷音は万里の左目に口付けると、頬にも口付け、唇にも触れた。まるで壊れ物でも扱うかのように、ゆっくりとキスを落とす。
「久しぶりに見たけど、やっぱり綺麗だ…」
「兄弟して、ほんま人タラシやな」
「…兄も同じことを?」
「言うたわ、綺麗やてな。気ぃ使ったんかもしらんけど」
「兄は、そういう人間じゃないので本心ですよ」
雷音はそう言って万里の羽織を脱がせるとソファの背凭れに掛けて、着物の万里を抱き上げた。そして奥にあるベッドルームへ連れて行くと、ゆっくりとそこへ下ろした。
「あなたが着物着ると、やらしさが増す」
「なんでやねん。大体、着物で言うたんは雷音やん」
「え?俺、そんなこと何も言ってませんよ。ただ、ここを指定されただけで」
「…っ!!」
あの野郎!!遊んでやがる!!万里は苦虫を噛み潰したような顔になった。
やはり神原は今回、万里が勝手をしたことを相当、根に持っているようだ。