握った手はごつごつとして固く、だが、とても温かかった。
雲一つない青空。前日に来た台風が一つの残らず雲を連れ去ったので、空は突き抜けるような青空が広がっていた。そんな空を見ながら、
宇宙はどこまでも続く言うなれば空の海のようで、それでも海と違うところは底も無ければ天も無いところ。不思議な事にどれだけ地球で朝が来ようと夜が来ようと宇宙には朝も夜もない、ずっと、ずっと、暗いのだ。
あの宇宙に一人きり投げ出されたら、怖いだろうな。
万里は宝石の様に散りばめられた瞬く星よりも、もし、一人で底も天もない宇宙に投げ出されたらという恐怖に息を呑んだ。
「万里ー?」
庭に置いてある小さなベンチに座って空を見上げていた万里を、家の中から母親の葉子が呼んだ。万里は花が開く様な笑顔を一瞬にして開花させ、部屋に飛び込んでいった。
「ここ!ここー!」
万里はそう連呼しながらサンダルを脱ぎ散らかし、部屋の奥へと進んでいく。すると急に現われた巨大な壁にぶつかり、万里はひっくり返った。
「おいおい、何を慌てとんねん」
転んだ万里の小さな身体を笑いながらひょいと抱え上げる。万里の父親の
「いやー!もー!!下ろしてぇなぁ!ママー!おとんがー!!」
「ままー。いつまで経ってもお前はママ、ママやのー」
三里はからかうように言って万里の足を掴んでそのまま逆さ吊りにして、その小さな身体をゆっくりと揺さぶった。ぐるぐると世界が揺れて、万里は悲鳴を上げた。
「ままぁー!!!」
「あ!ちょっと!何してんのよ!足が抜けちゃう!無茶せんで!」
2階から降りてきた葉子が万里の状態に目くじらを立てた。三里はいつもこうして万里を逆さ吊りにして振り回したり、時には寝てる万里をわざわざ起こして『起こしただけ』と、とんでもない悪戯をしてくるのだ。
今では少しだけ忍耐力のついた万里だが、初めの頃は得手勝手な父親の度を超した悪戯に泣きわめいたものだ。
「えー、万里はこれが好きなんですー」
なー、と万里を下ろしながら言うと、葉子の目つきがキッとキツくなった。
「好きな訳おへん!あんたも足持って振り回すよ!」
「いや、無茶言いなや。あんたプロレスラーかいな」
「ママ、はーちゃんは?」
万里は二人の掛け合いの間に入り込んで、葉子に抱きつく。それを三里が”マザコンー”と揶揄うが、無視して抱きつく手に力を入れた。
「葉月は喘息が止まらんからねぇ。仕方ないから、文香おばちゃんとこに預けたんよ」
「えー」
葉月とは万里の弟で、最近になってようやく立つことが出来たのだが、生憎、喘息持ちで身体が弱かった。頻繁に熱を出したり発作を出したりして、なかなか万里と遊ぶ事が出来なかった。
「ほな、今日はママとおとんと?」
「そうやで、御参り。ちゃーんと葉月の喘息がよぉなるように、お願いしてこよな」
葉子はそう言って、小さな万里の頭を撫でた。
「やで、万里ー。お前のお願い足らんかったら、夜中に押し入れから貞子が迎えに来よるで」
三里がそう囁いて、万里の耳元に息を吹きかけた。万里はそれに悲鳴を上げた。目を瞑っても浮かび上がる、あの光景。貞子が井戸から不気味に這い出る、あの背筋が凍る映像に万里は葉子にぎゅーっと抱きついた。
”男は強くあれ”なんて耳障りのいいことを言いながら、三里はリピートでその映像を万里に見せた。葉子が葉月を病院へ連れて行っているときだったので、助けてくれる者もおらず万里は泣くことすら出来ないほど怯えていた。
その晩に万里は寝る時に電気を消すのを嫌がり、”貞子が来よるぅー!”と泣いたことで三里の悪戯が判明し、烈火の如く怒り狂った葉子が三里を一晩、家の外に叩き出したのはつい最近の話だ。
だが後の祭り。物語そのものの内容は全く理解出来なかったが、貞子の恐ろしさだけはしっかり記憶に焼き付いてしまっていた。
万里はおばけよりも妖怪よりも何よりも”貞子”が恐ろしくて仕方がない。貞子のフレーズで号泣もののトラウマになっていた。
「井戸から、ぬーっと」
「きゃー!!」
「もう!三里はエエ加減にして!」
葉子は貞子よりも怖い顔をして三里を睨みつけた。過ぎる悪戯は日々、葉子の逆鱗に触れている。だが、それで懲りる様な男ではない事を、葉子も万里も理解していた。
きっと、もう少ししたら葉月も三里の悪戯の生け贄になるんだと、万里は今は居ない葉月を気の毒に思った。
「あ!せや!万里ー、今日はな、兄貴に借りた高級車やからな!」
「え!?ほんま?」
「せやぞー、兄貴にポーカーで勝ったからな。この週末は我が家は車だけ高級車や」
「あたしあれ、嫌やわ。何や、柄の悪い車やないの」
葉子は万里に上着を着せながら、三里に怪訝な顔を見せた。だが三里は男のロマンやと言うばっかりで、葉子の気持ちお構い無しだ。そしてスキップでもしそうな勢いで玄関を飛び出してしまった。
「ほんま、いつまで経っても子供やねんから。困ったお父ちゃんやねぇ」
葉子は笑って、小さな万里の手を握って家を出た。
駐車場に窮屈そうにして停められていたそれはベンツAMGだ。黒光りするフォルムと如何にものホイールを履いて、少し重低音の音をマフラーから吐き出す。何をどう間違えても家庭向きではない。
三里の兄の
輸入車専門とはいえ、頼まれれば国産車だって何だって仕入れてくる評判のいい車屋だった。そんな兄と2つしか年の変わらない三里達は、大人になってそれぞれが家庭を持ってもとても仲が良く、しょちゅう遊んでは車の貸し借りをしていた。
今回は了が仕入れたばかりのAMGを賭けての勝負だったようだが、了の妻の里佳もこの車だけは手に入れてほしくなかったと、先日、葉子に愚痴っていたが本当にそうだ。まるで…。
「ヤクザみたいなんやけど」
葉子は後部座席に万里と乗り込むと、運転席で上機嫌の三里をバックミラー越しにギロリと睨みつけた。
「何を言いよんねん。なー、万里。めっちゃカッコええやろ」
「カッコええ!」
「もう、ほんま明日はこれでは出掛けへんよ」
「分かってるって。明日は動物園やろ?さすがにこれはないわなぁ」
三里は笑って、アクセルを踏み込んだ。
今日は葉子の両親の墓参りだ。葉子の両親は葉子が成人式を迎える前に事故に巻き込まれて死んでしまった。
その時はあまりに唐突の出来事で、どうしていいのか分からずに途方に暮れていた。年の離れた姉はすでに嫁いでいたし、葉子は短大を卒業目前ではあったが就職氷河期と呼ばれた時代のせいで就職もまだ決まっていない状態。
これからどうなるのかと呆然としていたとき、高校のときから付き合っていた三里が婚姻届けを持ってやってきたのだ。
「家族になろう!」
葬式も済んだばかり。当然、納骨もまだだし、何なら出棺もまだの葬式の式典会場での話だ。何もかもがこれからの時に、三里は喪服姿の葉子に頭を下げた。
「俺の家族になってください!絶対に、楽しい家庭にするから!」
何で今なの?と葉子と葉子の姉の文香も唖然としてしまった。第一、三里も喪服姿だ。
喪服姿でプロポーズって…。だがそれが三里らしいと言えば三里らしくて、葉子も文香も大笑いしてしまった。
「なぁ、何であの日やったん?」
「あの日?」
「プロポーズ」
「は!?なんよ、今更!」
三里は動揺しているのか、少しだけ車体が揺れた。
「ちょっと、気ぃつけてぇな」
「お前がいらんこと言いよるから!」
「やて、何であの日やったんかなー思うて」
「そりゃ、お前。おかんとおとんの前でちゃんとやっときたいやろうが」
「前でって、葬式済んだばっかりよ?」
「火葬する前、ちゃんと身体があるときに言うときたかったの。ほな、おかんもおとんも安心してあの世に行けるがな!」
耳まで真っ赤にした三里に、葉子は思わず笑ってしまった。
「なんよ!」
「いいやー、あたし、ええ男と結婚したなー思うて」
「やろうが!聞いたか!万里!」
「万里寝てるけど」
「ちょっとー!!!!」と、三里が声を上げたとき、後ろから猛スピードで車が何台か走ってくるのが見えた。どれもこれも大きな外車で、三里達が乗っているのと同じ車種だった。
「なんや、あれ」
三里が車を横に避けようとした瞬間、パンッと乾いた音が響いて三里も葉子も青くなった。
「え?ちょっと、今のまさか銃声?」
これはただ事じゃないと大通りから細い道へ入ると、何故かそれに他の車も付いて来る。まさか車種が同じだから仲間か何かと勘違いしているのでは?と三里は息を呑んだ。
「葉子!万里抱いとけ!」
三里はアクセルと踏みこむと一気に路地を突き抜けた。抜けた先は埠頭に続く道で、道幅は広いが人通りがなく閑散としている埋め立て地だった。
まずい場所に出たと三里はバックミラーを見たが、やはり車は全て付いて来る。これではまるで先頭を切って走っているようなものだ。付いてくる車のハンドルを握る連中は、人相の悪い男ばかりで三里は舌打ちをした。
「んー、ママぁ」
万里が息苦しさから目を醒ました。
「万里!動いたらあかん!ジッとして!」
葉子は万里の身体をギュッと抱いて、この非現実的な状態が早く終われば良いと願った。するとギャギャッとタイヤの鳴く音がした。それに万里は窓の外に目をやった。
ゆっくりと並ぶように現れる黒い車。その後部座席で腕を組み、どんと構え座っている男が目に入った。白髪混じりの男は万里に気が付き、こちらへ顔を向けた。その瞬間、悠々と構えていた男が万里を見て慌てふためいているのが幼い万里にも分かった。
男は運転席の男に何かを叫んでいた。大きな口を開け、万里の方を指差していた。
「あ…」
万里が小さく声を上げた。男の顔の向こう側の窓の外。すなわち、男の車の横から一台の車が突っ込んでくるのが見えた。まるでスローモーションだった。
凄まじい衝撃と葉子の悲鳴と耳を塞ぎたくなる様な音が響いて、身体に大きな衝撃が走り、そしてそこでぷつりと記憶が途絶えた。