「…っす…、女…い…って…」
遠くで声がした。何か、焦っている様な声だ。途切れ途切れだが、少しずつそれは大きくなって鮮明に聞き取れる様になってきた。
「ヤバいっすよ!組長!!!」
温かい、いや、熱い。焼ける様に顔が熱い。そして火が出るほどに痛い…痛い、痛い!!!
「ぎゃー!!!!」
「うわぁ!!」
悲鳴は万里の声だった。痛みからなのか熱さからなのか、叫ばずにはおられなかった。
「生きとる…」
嗄れた声が耳に入り、万里は叫ぶのをやめた。だが目を開けようにも左の視界が真っ赤に染まっていて、上手く開けれなかった。
「開けるな。血が目に入る。おい、救急車、まだか」
「もう来ますよって。どないします?興和会の奴ら」
ぼやけて見える右目で見ると、服もボロボロであちこちから血が出ている男が携帯を片手に苛立つ様に喋っている。そして視線を移し、万里はニッコリ笑った。
「おっちゃん、車で逢うたね」
万里の小さい身体を抱いていたのは車から見た、慌てていた男だ。万里の祖父に似て、白髪混じりの頭に目尻の皺がくっきりと刻まれている。その額からは血が流れていて、万里はその額を小さい手で触った。
「いたいのいたいの、とんで、けー」
いつも葉子がしてくれるようにしてやると、万里は何故か男に抱き締められた。その男の身体は小刻みに揺れていた。
隣で苛立った様に喋っていた男は何故か黙ってしまって、万里は青い空を見ながら、また目を閉じた。
次に目が醒めたときには万里は真っ白な天井の部屋に居た。身体中に管が繋がれ、左目は何故か何も見えなかった。白衣を着た医師が”痛いとこはある?”と聞いてきたので、ここが病院だと思った。
時折来る看護師は、不憫そうに万里を見て頭を撫でていった。万里には何が起こっているのかさっぱり分からず、ただ、葉子と三里が来るのを待っていた。
もしかしたら葉月の具合が良くなくてそっちに行っているのかもしれない。葉月は喘息で2度ほど入院をしている。今回も、それで自分は一人なのかもしれない。
それなら仕方がない。三里がいつも”兄貴っていうのは、何があっても兄貴で居ろ。強いのは絶対にお前じゃないといけない”と言っていた。
そうだ、兄貴である万里がここで
そう思って頑張っていたが、いつまで待っても葉子と三里は現われなかった。そして、ようやく現われたのは葉子の姉である文香だった。
文香は万里の顔を見ると、真っ赤にした目からポロポロと大粒の涙を流した。万里は文香が泣いたのを見たことがなかったので、ひどく驚いて声を出せなかった。
万里は文香に連れられて万里の家に帰ってきた。ようやく我が家だ!と万里は一目散に家に向かって走り、玄関のドアを開けた。
そして、下駄箱のドアに埋まった全身鏡に映る自分に首を傾げた。顔半分を包帯でぐるぐる巻きにされていて、何かのおばけのようだ。だが万里は特段、気にもせずに部屋に入った。
「ママー!ママー!!」
あちこちのドアを開けて呼ぶが、返答はない。2階へ上がる階段の先は真っ暗で、人の気配は感じられなかった。
「文香おばちゃん、ママは?おとんは?まだはーちゃんのとこ?」
首を傾げる万里に文香はまた泣いた。万里はいけないことを聞いてしまった気になって、それ以上は何も言わなかった。そうか、葉月がそんなに具合が悪いのかと思ったのだ。
万里は文香に真っ黒な服に着替えさせられた。不思議な格好だなと思いながらも黙々と服を着せる文香に何も言えずに、あの日、置いていったおもちゃが出て行った日と同じ場所にあるのを、ただじっと見ていた。
着替えさせられた万里は、文香の車で見覚えのある場所に来た。爺の家だ。大きな爺の家の玄関には提灯が飾られていて、万里はそれを物珍しそうに見上げた。
そして中に連れていかれた万里は、いつも大賑わいする客間に通された。そこには見覚えのある人と見覚えのない人とがたくさん居たが、やはり万里と同じように全員が真っ黒な服を着ていた。
その奥には何故か葉子と三里の写真が飾られた飾り付けのされた大きな台があって、万里は蛾眉を顰めた。
「ママ?…おとん?」
部屋中が白と黒のコントラストの幕で囲われ、爺の家にいつも漂う線香の香りが今日はかなり濃い。万里はちょこんと座ると、周りを見渡した。
大人が皆、一様に万里の方を見てひそひそと言っている。奥に爺である晃志郎と了と里佳が居たが、了は嗚咽を漏らして咽び泣いていて万里は居心地が悪くなった。
皆が何故、泣いているのか。皆が何故、自分を見て怪訝そうな顔をするのか。何故、自分は一人なのか。万里は唇を噛んで、背を伸ばした。
「あれ、あの下はどうなっとるん?まさか、目がないとか言わんよね?」
「目はちょっと傷いったくらいで平気なんやて。やて、なんや、顔に大きい傷こさえたらしいえ?」
「葉子さんのご両親も事故で亡くなっとるでしょう。ほんに、気の毒やわぁ」
「せやかて、よりによってヤクザの抗争に…。なぁ、三里が邪魔してもうたとかやないよねぇ?ほれ、ヤクザは報復とかあるでしょう?」
「三里も何で、あないな埠頭に行ったんか。墓参りとは全然ちゃう道やないか」
黙ると一気に大人達の声が耳に入ってきた。ふと、それとは別の音に気が付き、振り返った。鼻腔を擽ぐる独特な匂い。これは雨だ。雨がしとしとと降っている。
万里はそれを感じながら、包帯を撫でた。少し、痛い。
「静粛にせぇ」
晃志郎がぱんっと手を叩いた。それに皆がハッと顔を上げ、口を噤んだ。いつも厳しい顔をしている晃志郎だが、今日は特段と厳しい顔つきだと万里は思った。
「今回、こないな事になってもうて…。ワシは息子を失うた。せやけど孫を残してくれとる。万里と葉月や。葉月は文香はんが面倒見ると言うてるが…」
「万里も私が育てます」
文香が静かに口を開いた。ぎゅっと唇を噛んで真っ赤に目を染めて、畳の一角を睨んでいた。
「ちょっと待ってぇな。あんたが育てるんはかまへんけど、あんた、万里も葉月もって…。自分の息子もおるんに、手が回らんでしょう」
「叔母さん、大丈夫。うちがきちんと育ててみせる」
「ちゃうんよ、そうやおへんの。あんた、葉月の身体が悪いん分かってるん?」
諭す様に言う叔母に文香は黙って俯いた。そうか、葉月はやっぱり具合が悪いのか。万里がぼんやりと祭壇を見つめていると、玄関の方でバタバタと大きな音がした。そして、転がる様にして叔父である忠雄が客間に入ってきた。
「き、きよった!ほ、報復や!」
忠雄の言葉に女共は悲鳴を上げた。だがその客間に現われた男を見て、万里は”あ…”と声を上げた。
「おいちゃん」
そうだ、あの時、万里を抱き締めた男だ。万里がニッコリ微笑むと、男は万里の顔の有様を見て直ぐさま万里の元へ駆け寄ると、さっと身体を落とす様にして正座をし頭を下げた。
「申し訳ない」
絞り出す様にして言われた言葉に万里は首を傾げた。大きな男が自分の目の前で陳謝している。その白髪混じりの髪が雨で濡れていた。
「雨やねぇ。濡れとるね」
万里はその濡れたところを小さな手で拭った。
「ば、万里!」
文香が悲鳴を上げたが、それを晃志郎が制した。すると男は立ち上がり、祭壇を見つめると晃志郎の方まで行き、やはり正座をし頭を下げた。
「申し訳あらへん。詫びて許されるとは思うてへんけど、ほんまに申し訳なかった」
「あんた、どこの組の人間や?」
「大阪の…仁流会明神組組長、明神
仁流会の名に周りが騒然としたが、万里は訳が分からず二人の様子を眺めていた。
「一人で出来たんか?報復か?」
「一人や。報復やない、これは謝罪や。こないな事になったんは明神組の責任で、俺の責任や」
畳に擦り付けるように明神は頭を下げ、何度もすまないと謝罪の言葉を繰り返した。
「あんたの…あんたがやったんか?」
晃志郎が聞けば、明神はゆっくりと頭を上げ首を振った。
「やったんは興和会いう組や。堅気のあんた等が知ってるか分からんが、今、仁流会と興和会は抗争の真っただ中や。事故の時はたまたま京都の方へ来とって…。こんなこと言うても、しゃーないかもしらんけどな」
「ワシ等は普通の一般人や。あんた等で言う、堅気や。せやから、あんたらヤクザもんの事情や抗争やて、そないな事は分からんけどなぁ…。そうか、謝罪か。謝罪やて、まさか言葉だけで済ますわけやあらへんわなぁ?」
「もちろんや。あの子の一生涯の金の面倒は俺がみる。金だけや。俺自身も組も一切関わらん。望むだけの誓約書でも何でも書く」
晃志郎は顎を擦りながら、何かを考え瞠目した。そして、ゆっくりと目を開くと万里を見据えた。
「文香はん、万里の包帯はずしてんか」
「え!?あかんよ!まだ抜糸もしよらんし、血も止まったあらへんのに!大体、今日かて病院に無理言うて外出許可もろたんに!」
「ええから外さんかい!!」
怒号に驚いた文香は目に一杯涙を溜めて、万里に近付いた。そして、ごめんねと繰り返しながら包帯を外していった。
包帯と、その下のガーゼを取ると万里の視界はクリアになった。少し左目がぼやけてはいるが、煩わしいものがなくなったおかげで万里はスッキリした気分になった。
「ひっ…!!」
その万里の顔を覗き込んだ叔母が悲鳴を上げ、そして一気に部屋が騒々しくなった。万里は訳が分からずに文香を見上げたが、文香も青い顔をしていた。
「でっかい傷じゃのう。かなり深いから、綺麗にはならんらしいわ。神経までは傷つけたあらへんとは言うてたけど、それも大きいならんと分からんやてな」
晃志郎は顔色一つ変えずに万里を見て言うと明神に視線を移した。明神も同じ様に万里を見て、そして息を吐いた。
「明神さん、あんた子供は?」
「おらん。最近…抗争で亡くした」
「そうか。ほな、あんたが万里を育てぇ」
「親父!何を言うとんねん!!」
了が晃志郎に飛びかからん勢いで叫んだが、晃志郎はそれを一睨みして黙らせた。明神は万里をじっと見て、それから頭を振った。
「うちは極道であって、孤児院やない」
「あんた、なんでもする言うたやろうが」
「ちょお、待ってください!ヤクザ…こんな人に万里は渡せません!可哀相や!!」
今度は文香が泣きながら晃志郎に懇願した。万里がこうなった原因の極道に万里を預けるなんて正気の沙汰とは思えず、まるで厄介払いの様で文香は嫌やと泣いた。
「文香はん、あんたあの子の傷、直視出来るか?」
「……え?」
「これから一生、万里はあの傷と過ごすんや。子供は惨い。万里はすぐにあれを揶揄われるやろう。今回ん事件は報道も大きい。そのうち万里のことも知られてしもて、ヤクザに親殺されて顔にでっかい傷作った子やゆーて曝しもんや。せやかて、あんさんとこなら」
「極道の子供を揶揄う人間はおらん…ちゅうことか」
明神は大きく嘆息した。
「ちゃうか?しかも仁流会や。万里ん盾になってくれはるやろう。ワシ等では、あの子は護ってやれん。毎日がそれこそ針の筵になるんや。今回ん事であらなんてゆーんや?週刊誌か?訳ん分からんのが探り入れてきとる。うちはええネタになるんや。万里ん事はまだ表に出てへん。こんままあんたの子になれば、それこそ知られることは一生あらへん。あんた等が相手やったお陰で被害者の詳細までは報道されへんねんもんなぁ。けったいな話やで」
「じーじ、おとんとママは…?」
そう万里が言うと部屋がシンっと静まり返った。それまで何も理解出来ていなかった万里は、晃志郎と文香、そして明神の話を聞いて状況を理解してきた。
今、ここに二人が居ないのは、あの写真の下にある箱に入っているからと、何故、気が付かなかったのか。目の前のその光景は前にTVで見た、”葬式”というもので、それが何かを葉子に聞いて教えてもらったばかりだ。
「…おらんの?」
万里が首を傾げると、文香が崩れる様に泣いた。そうか、あの温かいぬくもりは葉子が抱き締めていてくれたからか。必死に護ってくれたから、自分はここに居るのか。
そうか、二人はあの宇宙の星になったのか…。
あの、真っ暗な中に…。
でも、二人一緒なら、きっと怖くない。
怖くない。
「…宇宙の…星。…おらへんの」
万里は呟いたが涙は出なかった。泣いてはいけない。兄貴は強く逞しくいなければいけない。泣いてはいけない。
万里はぎゅっと拳を握ったが、フッと目の前に影が出来た。そっと顔を上げると明神が立っていて、直ぐさま膝をついて頭を畳みに擦り付け土下座した。
「すまんかった!!!詫びても許してもらえるとは思ってない!せやけど、お前の親、奪うてもうてすまんかった!」
大きな身体だった。三里よりも晃志郎よりも大きくて広い背中が、小さく揺れていた。万里には明神の言っている意味が理解出来なかったが、喉の奥につっかえる何かで息が出来なくなっていた。
ふるふると身体が震えて、強く握った拳をにもっと力を入れたがその震えが止まる事がなかった。
「う…」
声が漏れた。視界が揺れて、写真の中で微笑む三里も葉子も見えなくなって、目の奥がずきずきと痛んだ。頬に涙が伝い、傷に当たるところで激痛が走り、でも痛みよりも何よりも悲しみが万里を襲った。
いつまでも土下座をして謝り続ける明神の前で小さな万里は二人の遺影をジッと見ながら、只管泣いた。そして、今まで抑え込んでいたものを吐き出す様に、声を上げて咽び泣いた。
それから1ヶ月後、日暮万里は明神万里へと名前を変え、明神
万里の名と、離れ離れになった弟の葉月の名を一つずつ取って…。
「みょーじんって変わった名前やなぁって、あっくんが言いよん」
「みょーじんって伸ばすんやない、万里」
「とーとの新しい名前と、万里の名前って”漢字”がよぉ似よるんね。かーかが書いてくれよってん」
万里と万葉は二人で日が沈みかけた河川敷を歩いていた。万葉は仕事がない時はこうして、万里と河川敷を散歩する事を日課としていた。
そこは万里達と同じ様に散歩する親子連れや、ジョギングなどをする人でゆったりとした時間が流れていた。万葉は万里を溺愛する訳でもなく、特別視することもなく、どちらかといえば礼儀や作法に厳しく育てた。
そして万里を養子として迎え入れた事を誰よりも喜んだのは、万葉の妻である冬子だった。一人息子を亡くし気落ちしていた冬子にとって万里は天からの贈り物そのもので、顔の傷はもちろんのこと心の傷までも包み込む様な愛情を一心に注いだ。
もともと人見知りもせず物怖じもしない万里は、厳しい組員にも自分から話しかける度量を見せた。その天真爛漫さは後継を失った明神組の希望となり、組は一気に活気付いた。
「とーと、今日もピーマン食べてくれる?」
「おかんに見つかったら、また正座やで。俺も…」
「万里、知ってんねん。今日はな、ピーマンの肉詰めってやつやねんで。神原が教えてくれてん」
神原とは明神組若頭で、初めて明神の家に行ったときに”神原と呼んでください”と小さな万里に頭を下げた男だった。万里は、お友達は呼び捨てにしてはダメ!と葉子にいつも言われていたので戸惑ったものの、明神がそう呼びなさいと言ったのでそれに従っていた。
厳しい顔の男ではあるが、冬子に隠れて駄菓子をくれたり今日のように夕飯の献立を”坊ちゃん、今日は敵ありです!ピーマンの野郎です!”なんて言って教えてくれる、万里のお気に入りの組員だった。
「とーと、手」
万里が小さな手を伸ばすと、万葉はその手を大きな手で包み込んだ。握った手はごつごつとして固くて、そして、温かかった。
神原の手もそうだが、家に居る者の手は皆、ゴツゴツとしていて大きい。そのなかでも明神の手が一番大きくて、万里は好きだった。
「温いねぇ」
万里が笑うと万葉は少しだけ笑って、また二人してゆっくり歩き出した。