明神 宗政という男

いろはseries 番篇


*児童虐待と性的悪戯の描写が出てきます。
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何を叫んでいるのか、殴られたせいで耳はキーンと高い音が中で響いて、くぐもった空気が邪魔をしてハッキリと聞こえなかった。
振り上げられた拳は腫れ上がった瞼のせいであまり見えなかった。助けを求めようと開いた口には鼻血が流れ込み、声を殺した。
痛いと、思った。
ただ、痛いと。

児玉 柊士、のちの飛鷹 由が生まれた家は、普通の家庭だった。両親は特に問題もなく、柊士は一人息子として愛情をいっぱいに注がれ過ごしていた。特別裕福でもなかったが、特別貧困というわけでもなかった。
いや、普通よりは少しばかり良い暮らしのできた家庭だった。平和で幸せな、大きな変化もない平々凡々の日々ではあったがそれは生きていく上で人が一番、大切にするべき事だったのだろうと今では思う。
長閑な生活を過ごしていたせいで、その平々凡々の日々が、いつ、どこで歯車が狂ったのか全く分からなかったし気が付かなかった。
見逃してはいけない、僅かな綻びを見落としていたのだ。

ある日、両親の罵り合う声が聞こえた。それは初めてのことで幼い由は驚いた。ヒステリックに叫ぶ母親の声は初めて聞くものだったし、責め立てるように怒鳴る父親の声も初めて聞くものだった。
由は起きて二人の元へ行く勇気もなく、ベッドで布団を頭まで被り、この嵐が早く過ぎ去ることだけを祈った。明日には普通に、いつものように、由に”おはよう”と笑顔で言ってくれるはずだと。
だが由の願いも虚しく、目覚めた由に両親は視線も向けずに「おはよう」とぶっきらぼうに言うだけだった。そして二人の言い争いは毎晩続き、さらには日に日に激しさを増し、由は毎日、怯える夜を過ごすことになった。
そういう日々が続いたある日、母親が何も告げずに幼い由と父親を残して姿を消した。母親のいなくなった家はすぐに荒れ果て、勤勉で息子の由から見ても格好の良かった父親は荒んだ生活を送るようになり、その生活に見合うようなむさ苦しい無精髭を伸ばし、仕事にも行かずに朝から晩まで酒を煽るようになった。
そんな父親と2人きりになった由は幼稚園にも行けず、食べるものもろくになく、風呂にも入れず、部屋の片隅で転がる日々を送っていた。幼いながら、もしかして死ぬのかもしれないと思った頃、父親は由を連れて家を出た。
車に乗せられて車窓から見た家は母親が丹精込めて手入れしていた庭も荒れ果て、もはや由の知る家ではなくなっていた。それどころかどこか薄気味悪ささえ感じるような、そんな家に見え由はすぐに目を背けた。

連れてこられたのはボロく古臭いアパートで部屋の中に家具はなく、由は奥の和室に押し込められ、まるで野良犬のような生活を送った。
元の家から持ってきた唯一のお気に入りの毛布に包まり、母親が寝付くまで一緒にいてくれたこと日のことを思い出す。どこに行ってしまったのか、いつ帰ってくるのか、由は薄暗い部屋で母親の思い出に浸りながら眠りにつく日々だった。
だがそんな由を構いもせず、父親は強い香水の匂いを纏った派手な女を部屋に呼ぶようになり、夜はその女の甲高く鳴く声が五月蝿く眠れずにいた。
家が変わっても食事と呼べるようなものはなく、菓子パンを与えられるか賞味期限の切れたおにぎりを投げ入れられるか。そんな生活が続いたある日、由は空腹が限界に達し、勝手に部屋を出て冷蔵庫にあったソーセージを食べた。
そこにタイミング悪く飲みに出ていた父親が帰ってきてしまった。
久々に見た父親はまるで別人だった。ボサボサで手入れのされていない髪。タバコの吸いすぎで捲れた皮の目立つ唇、ヤニのついた歯。全てが野暮ったく、小汚い、見苦しい男になっていた。
笑顔で抱き上げて笑ってくれた父親とはまるで別人で由は声を失った。まるで他人の形相に怯えさえ見せた。
そしてその日、由は生まれて初めて殴られた。一度殴ると我慢がきかないのか、溜まっていた何もかもを吐き出すようにして父親は由を殴った。
そこに女が訪ねてきて止めに入ってくれたおかげで由は助かった。女に庇われ抱きしめられながら聞こえた父親の言葉は『あの女に似てるコイツが憎い』だった。
それから父親はことある毎に暴力を振るうようになった。
暴力を振るわれ、傷を負うたびに女が手当てをしてくれた。自分の母親よりも若い女だったが、ふと気が付いた。やたら身体に触れてくることに。
幼い由は抵抗する術も知らず、それどころか触れられる意味も分からず、ただ黙って長く赤い爪が身体を這い回るのを見ていた。
ある日、パチンコで負けて機嫌の悪い父親に殴られた由は、部屋の隅でゴミのように丸くなって転がっていた。そこに訪ねてきた女は由を殴ったことを咎め、手当をするからと父親に金を渡し、飲みに行ってこいと部屋を追い出した。

「可哀想にねぇ。あんな男に…痛いでしょ?見せて」
女は由の頭を撫でながら、服を脱がし始めた。荒い息で由の身体を舐め、未熟なその身体の反応に愉悦の表情を浮かべた。
「可愛いわぁ。肌もすべすべで…でも、男の子なのねぇ」
身体の反応を楽しむ様にして由を弄ぶ女に抵抗はあったのに身体が反応する。由はそれが怖くて仕方がなかった。何をされているのか幼い由には分からなかったし、いつもとは違う自分の身体にも恐怖を覚えた。
そんな由とは裏腹に女は興奮したように息を荒くして服を脱ぎ始めると、撓わな胸を由に触らせ自分の性器に由の未熟な性器を当てがった。
ずるっと飲み込まれるそれに吐き気が込み上げてきて、由は目一杯、女を押し返した。だが女は由の拒絶に気が付くこともなく、自分の身体を動かし始めた。
「あー、気持ちいいでしょ?」
「や、だ、やだ、やめてっ、や…」
嫌がる由を笑いながら、「身体は気持ち良いって言ってるわぁ、あん、気持ちぃい」と由の身体を揺さぶり出した。そこに父親が帰ってきたのだ。
父親は由の身体を弄ぶ女に鬼のような顔を見せた。由は部屋の端っこまで蹴り飛ばされ、頭を打った衝撃で気を失った。次に目が覚めると、裸の女が血塗れで転がっていた。
ぴくりとも動かない女を見下ろし、父親は肩で息を荒くしながら、「お前も売女か……」と涙を流していた。
その日の夜中に殴られて動けない由はお気に入りの毛布に包まれ父親に担がれ部屋を飛び出した。散々、殴られ蹴られて痛みすら麻痺してきた由だったが、それをした父親が一緒に連れて逃げてくれた事、トランクに放り込まれはしたものの、そこまで父親に抱いて貰えたことが嬉しくて自然と涙を零した。
次に連れてこられたのは、やはり薄汚いアパートだった。前の家よりも古く、かび臭かった。今度はそこに女は呼ばなかったが、朝も晩も電気も点けずに酒を煽り、そして由を殴った。

その日は暑い日だった。暑くて暑くて水が飲みたくて仕方がなかった。カリカリに乾いた唇と乾いて割れた舌。
そっと襖を開けるとひんやりとしたエアコンの風が蒸し風呂のようになった部屋に入り込んでくる。見ると父親は大鼾をかいて寝ている。少し音を立ててみたが起きる気配はない。
チャンスだと由はまるでコソ泥のように壁に沿って、足音を立てないようにそっと歩いて台所へ行った。冷蔵庫には目も向けずに何とか手を伸ばして水道の蛇口をゆっくりと捻った。
ちょろちょろと出た水がシンクに跳ねて音を立てないように手を出して、その手についた水を野良犬のように舐めた。少しだけ潤うとほぅっと息を吐いた。
干からびて割れた土地に流れる僅かな水は何の足しにもならないが、由には待ち望んだ水だ。もう少しと手を伸ばしたが、次の瞬間には強い衝撃が身体に走った。
「勝手に何をしとんじゃ!!」
「きゃあ!ごめんなさい!ごめんなさい!!」
由は殴られた痛みで蹲り、いつものように頭を抱えて猫のように丸くなった。その由を踏んで、蹴って、殴って、その暴力という嵐はいつまでも去らずに由は恐怖に泣いた。
もうダメだと、助けてと小さな声で言った。
すると神様がその声を聞いたのか、転がってきた瓶を踏んで父親が転んだのだ。由はそれを見て、針に刺されたように痛む身体を引きずり、見えない視界で何とかドアを捉え、血に塗れた口で叫んだ。
「た、す、けて…」
叫んだつもりの声は全く出ておらず、背中を蹴られた由はドアが開くと同時に部屋の外に転がり出た。這うようにして逃げる由の手が何かを掴んだ。
見ると、人の足だった。黒いズボンと黒い革靴。見上げたそれは高いところにあり、そして逆光で何も見えなかった。
「汚いガキじゃのぉ」
白い歯が見えた。ニヤりと笑った口元から、綺麗な歯が見えたのだ。
「柊士!!」
呼ばれた声に由は悲鳴を上げ、頭を抱えて丸くなった。そして恐る恐る見ると、父親が鬼の形相で立っていた。その手には包丁が握られていた。
「なんじゃ、物騒じゃのぉ」
男は笑うと由を抱き上げた。見えにくい視界で見た顔は、凛々しく、勇ましい目をした若い男だった。男の後ろには派手な女が顔を青くして立っていて、一階にはスーツを着た人相の悪い男たちが由たちを見ていた。
「これ、なんじゃったかの。そうじゃ、幼児虐待じゃ。こん、お前の息子か。ここまでするか?えげつい男じゃのぉ」
男は由の腫れ上がり傷ついた顔に蛾眉を顰めて、鼻血を指先で拭ってきた。ぬるっとした感覚に由がぎゅっと目を瞑ると、男はフッと笑った。
「それは俺の息子だ!返せ!」
「返せて、そない物騒なもん持っとる男にガキ返せてなぁ」
「じゃかましい!クソガキの分際で!!」
父親の包丁を掲げる姿が見えた。由は思わず男にしがみ付き、やめてと叫んだ。今度は大きな悲鳴にも似た声が出た。
男は由を庇うようにして避けた。刹那、悲鳴が聞こえた。由の小さな手に生暖かい物が当たった。由が恐る恐る見ると、それは血だった。
だが由はどこも怪我はしていない。じゃあ…と見ると、由を抱いた男の右目の下がぱっくりと切れ、血が流れ出ていた。
「きゃああああああ!!!」
「じゃかましいわ!!!」
女が悲鳴を上げると男は女を怒鳴りつけ、そしてニヤリと笑った。
「お前、俺がどこの誰かわかって、この傷つけたんじゃろうなぁ?ああ?」
ボトボト流れる血に、一階に居た男達が慌てて駆け上がってくる。それに父親は目の玉を左右にぎょろぎょろ泳がし、狼狽え出した。
「あ、あああ、」
「明神組組長の息子やて分かっての喧嘩じゃろうなぁ!!!?ああ!?」
「うわぁぁああああああ!!!」
父親は叫ぶと包丁を捨て部屋に飛び込んだ。男はスーツの男達に顎を向けると由を抱いたまま、アパートの階段を降りた。
その部屋に次々と男達が入りこんで少しして、父親の悲鳴と男の怒声が聞こえた。
「…バイバイ」
由は小さな声でそう呟いて、男にぎゅっとしがみついた。

「坊、医者行かないけません!それ、結構切れとります!それに、そのガキ!」
「ええんじゃ。ああ、あの女、忘れとったわ。また連絡する言うとけ」
由たちに駆け寄ってきた三十代と見られる男は見るからに狼狽えながら、車の後部座席のドアを開けた。男は由を投げ込むと、自分も乗り込み滴る血を手で拭った。
「うお、結構、派手に切れとる。これはおかんに殺されるかもしらんのぉ」
「いや、せやから医者に行きましょうて」
運転席に乗り込んだ男は、病院に行きますよとアクセルを踏んだ。
「飛鷹、こんガキ、お前の籍に入れぇ。あれ、なんて言うた?ああ、せや、養子縁組いうやつじゃ」
「……は?」
「お前、名前はなんじゃ」
「こ、児玉柊士」
由は起き上がると姿勢を正してきちんとシートに座った。
「とぉじ?はー、シャレとんな。まぁええ、ほな、今日から飛鷹じゃ。下の名前は何にしようかのぉ。ああ、俺は明神宗政じゃ」
「いや!坊!」
「なんじゃ、俺が決めたんじゃけ、そうするんじゃ。ええな!」
宗政は後部座席から運転席を乱暴に蹴ると、血が止まらんと傷を手で拭った。

「あんたはええ加減にしなはれ!!!!」
和室に響き渡る声に由は怯え、ぎゅっと目を瞑った。それを見た宗政が由の肩を抱いて、目の前に立つ和服を着た婦人、宗政の母親である冬子に向かって口の前で人差し指を立てた。
「大声出すけぇ怖がっとるじゃろうが、可哀想になぁ。鬼婆じゃ」
「宗政!!」
「何を怒っとるんじゃ」
宗政は呆れたように手を広げ、首を傾げた。
「あんた、その子を飛鷹に養子にするように言うたんやて!?何を考えてはるん!?この子は人間やねんよ!犬や猫やないんよ!」
「おかんも母親やったらわかるじゃろ。見るからに虐待じゃ。医者の話じゃ全治半年ないし一年。後遺症が出るかも知らん状態じゃ。なんせのぉ、肋骨もヒビ入ったまんま何ヶ月もおって、耳も鼓膜がやられとった。頭はちゃあんと守っとったけぇ、たいしたことあらへんかったけどろくなもん食うてへんから栄養も偏った状態じゃ。犬や猫の方が、まだマシな生活しとろう」
「せやけど…!!」
宗政に言われ、その隣で子犬のように震える由を見て冬子は息を詰めた。
「なんじゃ、胡散臭い男やったから飛鷹に探らしとる。そない目くじら立てて怒ることやあらへんじゃろ。ガキの命一つ救っとんじゃけ」
「とにかく!飛鷹を困らすんはええ加減やめなはれ!ほんで、そのけったいな言葉もどないかしなはれ!」
「けったいなて、おかんが広島の叔父貴のとこに奉公に出すから、俺の言葉おかしなったんじゃろ」
「あんたがろくでなしやからそないなことになったんや!!」
今日一番の雷に由は肩を震わせた。そんな由を見て、冬子は大きく息を吐いて手を出した。
「お腹すいたやろ?ご飯作ったるさかい、おいで」
由は迷いながら宗政の顔を見ると、宗政は由の薄い尻を叩いた。
「食うてこい。お前は軽すぎじゃ。おかんの飯は美味いけぇ、腹一杯食うてこい。食うたら一緒に風呂入って寝たるわ」
「広島弁と京弁混ぜんといて!!!」
冬子はそう叫ぶと、由を抱き上げて部屋を出て行った。
「お怒りじゃあ。あー、いててて」
宗政は目の下のガーゼを押さえて、息を吐いた。まさか10針も縫うことになるとは思わなかった。
料理の類も一切していなかった真新しい包丁でやられたせいで、切れ味は抜群だったらしい。傷口は綺麗だが、危うく右目の視力を失うところだった。
「坊」
後ろの襖が開き飛鷹が顔を出した。飛鷹は宗政の護衛であり側近であった。奔放な宗政に振り回されながらも、しっかりと仕事をする宗政の懐刀だ。
「ご苦労じゃったのぉ。で、どうじゃった?」
「それが、あの男の前に住んでたアパートに若いのに行かせたんですけど、そのアパートの押入れから、仏が出てきよりました」
「は?ガキか?あいつの兄弟でもおったんか?」
「いえ、女です」
「女?母親か」
「いえ、商売してる女で身元ははっきりしませんが、女が行方不明になった時と男がガキと一緒に今のところに越してきた日は一致しました。坊が引っ掛けたあの女の証言も取れてます。ただ、ガキがおるんまでは知らんかったそうですけど」
「なんじゃあ、そりゃ。最近の堅気は恐ろしいのぉ。ほんで母親はどこじゃ」
「それが、こっちは中入っとります」
「はぁ?あいつの家族はどないなっとるんじゃ。そんなややこしい親の子には見えんかったけどなぁ」
宗政は胡坐をかいて息を吐いた。
「あの男、もともと生真面目で面影こそはありませんけど、なかなかええ男やったみたいですよ。そこそこの会社に勤めとって、その会社で知り合うた女と結婚してガキが生まれて家も建てて順風満帆。せやけど女がツレに誘われた飲み会に行って一変してまうんです」
「男か」
「それがろくでもない奴やったみたいで、ホストかぶれの…。まぁ、その男に熱あげてもうて、家族捨てて男と逃げてもうたんですけどね。もともと半グレみたいな奴やったもんで、男がヤクの売人始めて、二人でヤク漬けですわ」
「シャブセックスか。ハマるとろくでもないらしいからな」
「一回、執行猶予食ろうてるんですけど、その間にも再犯して、今は実刑ですわ。あと3年は出てきません。男の方はもっと刑期が長いかと」
「はー、ろくでなしじゃのぉ。で、父親はどないした」
「坊が言うた通り、山の肥料にしてきました」
「よぉ肥えた豚やったけぇ、ええ肥料になるじゃろ。ほな、あとは戸籍じゃ。早い事、養子縁組して飛鷹にしてやれ。腐っても母親じゃ。我が子やいうて急に探し始めたら面倒じゃ。ああ、せやせや。名前は”より”じゃ。由緒正しいの”由”で”より”。あいつは俺の拠り所になるんじゃ」
「あの、やっぱり、本気ですか」
飛鷹が言うと宗政は大きく頷いた。一度言ったことは何が何でもやり遂げるのが宗政だ。それが無理難題で周りが振り回されようとも、自分がそうと決めると突き進むのだ。
「お前が出すんは戸籍だけじゃ。育てるんはうちで育てるけぇ、心配せんでええ。ほっといてもおかんが世話しよるんやけ」
「いや、別に自分も子供は好きですからええんですけど、坊はあんまり子供好きやあらへんでしょ」
「由は別じゃ。あいつ、父親が殺られそうなっとる時に何言うたか分かるか?」
「は?いえ」
「バイバイ、じゃ。我がの親父、殺されるかもしらんいうんに、バイバイって言いよったんじゃ。ええ根性しよると思わんか?あれは、大物になるで」
「はぁ…」