明神 宗政という男

いろはseries 番篇


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「それが宗政の拾ってきたガキか」
「あんた!あの阿呆、どないかしてくれんと!けったいな言葉喋って、広島やってから何の改心もしたあらへんやないの!」
由は小さく握られたおにぎりをモグモグ無心で食べていた。入り口に立つ宗政の父である明神組組長にも気が付いてないほど、無心だ。
だが、がっつくわけでもなくきちんと座っておにぎりを両手でしっかりと持って姿勢良く食べる。食べる前に”いただきます”と忘れることなくきちんと言った。
「行儀のええ子やな」
「ああ、ちゃあんと躾されとったみたいやねぇ。ほら、お茶飲みなさい」
「…ったかい」
「え?」 
「これ、あったかいよ。美味しい!」
きらきらと目を輝かせて、もう長らく温かい物を口にしていなかった由が口にした言葉に冬子は唇を振るわせた。頬は痩け、髪は艶もなく肌もボロボロ。
抱き上げた時は痩せすぎて尻の肉が削げているせいで、冬子の腕に骨が当たった。
「美味しい?ああ、髪の毛、切ったるな。長いから鬱陶しいやろ。あら、あんた、この子、見てみて。綺麗な目の色してるわぁ、ええ男なるで」
少女のように長くなった髪を耳にかけ、頭を撫でながら慈しむように語りかける。宗政の目論見通り、冬子はこの日から由を必死に育てることになる。
栄養不足と虐待で痩せ細った身体を成長が止まるかもしらんと朝、昼、晩と三食、栄養バランスを考えて食べさせた。社会性を身に付けるために幼稚園へ通わし、送り迎えは冬子自ら行った。
「俺よりも天塩に掛けとる」と宗政が言うくらい、由は冬子が必死に育てあげたのだ。

「ええか、由。男は拳じゃ。なんぞあったら遠慮せんと殴ったらええ」
「坊、姐さんが聞いたら、また殴られますよ」
事務所のソファに座って由を膝の上に乗せて豪語する宗政を、若頭の神原が呆れたように見る。由は社交性も高く、強面に見える男たちに怯えることも人見知りをすることもなく笑顔で接した。
それどころか誰に逢っても「こんにちは」と挨拶を欠かすことなく接し、組員を和ませた。
「なんじゃあ神原、これはなぁ、将来、俺を守るために必要な掟じゃ。のぉ、由」
「でも、センセがお友達は叩いたらあかんて」
「そげんセンセの言うことよりも俺の言うこと聞いとったらええんじゃ。お前は大きぃなるぞ」
「え、クラスで一番ちいこい」
由が足をぶらぶらさせると宗政がその足を掴んだ。細い足は宗政の手で余裕で掴めるほど肉も薄く骨と皮だ。宗政が連れてきた頃よりも、肌艶も良くなったし髪も艶々になった。
好き嫌いをせずになんでも食べるので体重も徐々にではあるが増えたが、やはり標準よりもどうしても小さい。
「今だけじゃ。見てみぃ、この足。おかんが栄養与えまくって育成中じゃあ。しっかり伸びてしっかり育ったら食べごろじゃ」
由の頬に噛みつく仕草を見せると由が”きゃー”とケタケタ笑った。宗政の穏やかな顔を見る限り、由を引き取って正解だったなと神原は思った。
「食べごろて、牛や豚やないんですから。姐さんにほんまにしばかれますよ」
「由のことなるとすぐに目くじらを立てよるわ。じゃけぇ、鬼婆言われよん」
「それ、坊だけですからね。由、俺は言うてへんからな」
「裏切り者じゃあ」
笑う宗政の胸元から小さなクロスの十字架が顔を出した。いつも宗政の首に光るそれは由のお気に入りだった。すると由の視線んい宗政が気が付いた。
「由はこれ好きじゃなぁ。これはなぁ、十字架いうんじゃ」
「じゅうじか」
「そうじゃ、俺のお守りじゃ」
「お守り?」
「神さんは信じよらへんけど、まぁ、戒めみたいなもんじゃ」
「いましめぇ?」
難しい言葉に由は顔を顰めた。宗政は「まだ難しいのぉ」と笑う。
「で、坊、例の件ですが…」
「ああ、佐渡組の風間が何じゃあ言うてきちょるやつか。最近、ただでさえ騒がしいのにのぉ。まぁええ、何ぞ言うとるんじゃ。ああ、由、おかんが買い物行く言うとったけぇ、お前も一緒に行ってこい」
「はーい」
由は宗政の膝の上からスルスル滑り台のようにして降りると宗政と神原を見てにっこりと笑った。

「宗政ぁあああ!!!」
今にも起き上がりそうに眠る宗政の身体に縋り付くようにして泣き叫ぶ冬子を前に、由はガタガタ震えていた。
人の死を近くに感じたことがないわけではない。だが、今回は何かが違う。それが絆だとか信頼とかから来ているなんて由には分からなかった。
泣く冬子の背中を撫でる万葉はまるで怒りに震えた獣のようだった。周りに居る組員もまた抜け殻のようになり落涙していた。
車で移動中に襲撃され殺された宗政は無言の帰宅をした。帰ったら、今日は一緒に寝たるからと言って由の頭を撫でて行ったのに、宗政の目が開くことはもうない。
絶望する周りの声、冬子の声、動かない宗政。一気に押し寄せてきた波に由は耐えきれず、そこで意識を手放した。

「お前は俺の右腕じゃあ。俺が拾ったんじゃけ、俺のために生きろ。俺もお前のために組でっかして楽さしてやるからのぉ」

宗政は口癖のようにそう言っていた。俺のために生きろ。幼いながらも由はそれは当然だと思っていたし、そうすることが由の人生だと思っていた。
だが、自分の命を救ってくれた宗政はもういない。豪快に笑う声も頭を撫でる大きな手も、寝る時に守る様に抱きしめてくれた身体も、もう二度と逢えないのだ。
道標となっていた宗政を失い、これからどうすればいいのか由は生きる意味を見出せずにいた。
「これは、お前が持っといたれ。宗政の形見や」
万葉が由の細い首に通した金の小さなクロスのネックレス。由はそれを両手でぎゅっと握ると、ボロボロと涙を溢した。だが由が泣けば冬子はもっと悲しむと声を必死に殺した。
それを察した万葉は由を抱きしめると、かつて宗政がしたように大きな手で由の頭を撫でた。その瞬間、堪えきれずに声が溢れた。
そして堰を切ったようにわんわん咽び泣いだ。どれだけ泣いても宗政は帰らない。生きる術が見出せない。由の歩むべき道が真っ暗になってしまったのだ。

そんな時だ、顔に大きな包帯を巻いたクリクリとどんぐりのような目をした万里が屋敷に来た。
「万里や。由、お前の弟になる。面倒見たってくれ」
万葉に言われた瞬間に由の道に一気に灯りが灯った。ざーっと続くそれは宗政が指し示してきたものとは少し違ってはいるが、由の道標となった。
宗政の代わりにこの小さな子のために生きよう。この子を失わないために自分の命を賭しても何があっても守ると誓った。

宗政の事件の後、仁流会で蔓延っていた火種は益々大きくなり明神組は宗政襲撃の報復とも取れる動きを見せ、あちこちで大きな抗争を起こした。
襲撃に加わった組を潰し、仇討ちと動き出す明神組を止めるべく警察も躍起になり、結果、若頭である神原の逮捕となった。
暴対法のないなかのことで使用者責任は取られたずにいたものの、明神組の動きは徹底的に警察にマークされるようになった。それが狼煙となったかは定かではないが、狂犬と呼ばれた明神組が押さえ込まれたことで平成の極道戦争と呼ばれる極道界を揺るがす戦争が勃発。
疑心暗鬼になった組同士の抗争が激化し、一般市民にも危害が及びだしたころ風間組が静かに動き始めた。会長である佐渡組を堕とす下剋上だ。
そこに鬼塚組が風間組に付くという謀叛を受け、佐渡は呆気なく陥落した。

「神原海里や」
万葉に連れられて来た万里と由の前に現れたのは、痩身で少し神経質さが伺える顔をした少年だった。由よりも2つ上、万里とは5歳も違う少年は2人を見てニコリともせずに目を伏せた。
「かんばら…」
万里の声に海里が睨むように見て来た。ああ、この目はあの”神原”の息子だ。由はパッと顔を明るくした。
万里を守る懐刀は自分だけでは心許ないと思っていたのだ。そこにあの神原の息子が来るとなれば向かうところ敵なしではないかと。

「海里…そこは身体を反転させれば避けれんで」
数年後、畳の上で息も絶え絶えで打ち上がった魚のように動かない海里に由は呆れたように言った。あの神原の血を一滴も継いでないとは予定外だ。それどころか稀に見る運動音痴。
反射神経と運動神経、それが死んでいる。それに比べて目を見張る成長を遂げるのが万里だ。格闘センス、運動神経も常人を遥かに上回るものを持っていて、身体の柔軟性も付け加えれば文句のつけどころがないものだった。
「俺は、あのクソとは違うからな。格闘センスなんかいらんわ」
仰向けに寝転がって海里は舌を鳴らした。海里の父親嫌いの理由は知らないが、鬼神と恐れられた男の子という立場では良い思い出もないのかもしれない。
由の知る神原の父親は屈託なく笑い、威張ることなくいる男で幼い由に格闘技の基礎を教えたのも神原だ。短い期間ではあったが万里のことも可愛いがっていた。
今思えば、自分の息子に出来なかったことを由と万里にしていたのかもしれない。
「海里の格闘センスには期待してへんけど、頭の方は期待してる」
「ああ?」
「万里が組に入るまでに俺と海里で地盤を固めんねん。親父が会長に退いて木崎さんが組任されてるけど、鬼神としての若頭神原の穴は大きい」
「おいおい、ヤクザにするとか、おかんが許すわけないやろ。俺もお前も真っ当にっていうんがおかんの望みやぞ。万里やて…あいつが一番、ここにおるんが間違いやのに」
「極道戦争の被害者なら、その報復する資格もあるやろ」
「俺はヤクザにはならへん、ヤクザはクソや。滅んだところで泣く人間はおらん。それどころか拍手喝采で喜ぶ人間が大多数や。俺を含めてな」
「ほんま、捻くれ者やなぁ」
だが結局、由も海里も明神組組員となり冬子を激昂させ、万里までもが組員となったときは寝込んでしまった。親不孝だなぁと思いつつ、宗政に拾われた時から由の心は決まっていたし神原は何だかんだ言いながらあの鬼神の子。
時に残忍な一面を見せることがあり、やはり生きる道は極道の世界にしかなかったのだ。
そして由と海里が人生で初めて味わった絶望と後悔と無力さを味わった万里の目の傷。元々ある顔の傷と目の傷、その二つのせいで、いや万里はもともと極道になるつもりではいたようだが…。
どちらにせよ、3人が明神組の将来を担うこととなった。だが由にはどうしようも出来ない弱点があった。

宗政が死んだ日、あの日から車に乗れなくなったのだ。車酔いでは済まないほどの嘔吐を繰り返し、水すらも飲めずに脱水症状で病院に担ぎ込まれたこともある。
冬子が死にものぐるいであちこちの医者、それこそ内科、外科、耳鼻科、手当たり次第に由を連れて診てもらった。精密検査をしたものの、どれも異常もなく、最後の病院で勧められたのが心療内科だった。
冬子くらいの歳の女医は由にいくつか問診をし、そして冬子にもいくつかの質問をした。そこで出たのが心因性からくる車酔いだ。
由の場合、電車や飛行機は乗れるのだ。車だけが由のネックで冬子の膝枕で眠ろうが何をしても酔うのだ。酔うというよりも身体が拒絶する。
由は実父に車のトランクに入れられて移動をするというのを繰り返していた。移動先では見知らぬ女と過ごす生活、その女からの性的虐待。そして父親が手にかけた女の遺体。
その心の奥底にあるトラウマが、車に乗っているところを襲撃され殺された宗政の事件で引き出されたということだ。
カウンセリングで治る可能性はゼロではないが、冬子がそれを拒否した。由の過去を調査した飛鷹は宗政と共に死に、きちんと話せる者といえば由本人だ。
”児玉柊士”であったことを知る人間はほぼおらず、ましてやカウンセリングのためにその過去を医者に話すリスクの大きさ、もしもの時に由を取られる可能性に冬子は首を縦に振るわけがなかった。
由は宗政の残した忘形見なのだ。
「堪忍なぁ、あんたの車嫌い、治してやられへんで」
「ええねん。歩くん好きやで。おかんも運動なるもんな」
病院の帰りにゆったりと歩きながら言うと冬子はぎゅっと由のまだ小さな手を握った。
「運動やなぁ。今度、2人で電車乗って京都でも行こうか。美味しいもん食べて、今やったら桜に間に合うわ」
「京都、あ、あんな、あんな、団子食べる!神原が前に買うてきてくれた!」
「ああ、あれな、せやな、行こうか。来週にでも行こな」
誰が見ても仲が良い親子、そうとしか見えない2人のプチ旅行は冬子の大切な思い出だ。