今年は桜の顔見せも早く、花見で有名な界隈は一気に息づき活気付いていた。この時ばかりは老若男女、殿様気分で酒を片手に夜桜を楽しむ。
そんな人混みの中を、名取春一はぼんやり歩いていた。高校生だった頃の派手な髪色は淡い茶色に変わり、チリチリ音を鳴らしていたピアスも二つだけになった。
見るからに喧嘩っ早くてやんちゃな自分とは別れを告げて、どこにでも居そうな、何なら少し大人しい雰囲気の青年。生まれ変わったとはこういう事を言うんだろうなと、少し伸びた前髪を指で弾いた。
ハルが在籍していた嶌野原高校は悪名の高さ通り、入学したときの半分だけしか進級して2年に上がることが出来ない。そしてまたそこから2割が3年になる前に様々な理由で居なくなり、その残った全員で卒業というのも難しく、また消える。
無論、そんな状態なので卒業後の進路や就職も決まらぬまま、とりあえず高校卒業という肩書きだけで学校を去る者は少なくはない。何なら、5割はそんな状態だ。
そんな状態のクラスメイトの中、ハルは念願かなって、ようやく整備士学校に入学することが出来たのだ。これも単に担任の血の滲むような努力のおかげ。ハルだけではもうどうにもならなかった。
学校名だけで人を判断するのが社会だと思い知った数ヶ月。忍耐を知った数ヶ月だった。
喧嘩をして名を売って得たものなんて何一つなく、今となってみると何で毎日あんなにも喧嘩をしていたのだろうと過去の自分を鼻で笑ってしまう。
格闘家にでもなるつもりだったわけもなく、本当、ちょっと頭のネジが吹き飛んだ3年間だったなと思った。
ところでハルは春一という名前だが春生まれではない。ハルが誕生した時は蝉が泣き喚く夏真っ盛りで、春なんてとおに過ぎ去っていた。
そして春一だが長男でもない。ハルには
夏生が生まれたのは寒波到来の稀に見る、極寒の冬だったそうだ。四季を名前に使う割には、その意味合いが謎な命名ではある。
一体、何を思ってこんな名前にしたのかと問いただしたくても、名付け親である祖母は雲の上だ。頑固でかなりの強者で変わり者だったらしいので、誰も異議申し立て出来なかったのだろう。
しかし桜を愛でるだけだというのに、よくもこう人が集まるものだ。それに花見なんて名ばかり。桜の花を愛でるよりも酒。桜の香りを楽しむより食欲!そんな酒の匂いと料理の匂いにハルはフーッと溜息をついた。
その腕を急に引かれて振り返ると、そこには羽田沙奈が居た。可愛いという容姿の沙奈は男ばかりの整備士学校の癒しで、ハルのクラスメイトだ。
平均よりも低い身長と、作業の邪魔にならないようにとボブショートスタイル。くりくりとリスのような目が悪友を思い出す。沙奈はハルを見上げると、笑顔とともに息を吐いた。
「よかったー、見つけた」
「ああ、悪い。場所分からんで」
「場所、あっちやよ」
場所が分からないと、このまま帰ろうと思ってたのになと思いつつハルは頷いた。
入学して間がない今日、親睦を深めようと今回の花見が計画された。ハルはとりあえず断ったが、ハルの素性を知らないクラスメイトは行こうとしつこく誘った。
ここで強く言うのも大人気ないと、顔だけ出して帰るつもりでハルは渋々の参加することにしたのだ。
「一番おっきいとこ、みんな取れたんやて」
「へぇ」
「春くん、最後までおる?」
春くんとか、高校の連中が聞いたら抱腹絶倒だなとほくそ笑みながら曖昧な返事をする。人の多さは殺人的で、小さい沙奈は吹き飛ばされそうになりハルにしがみついた。
「あ、ごめんね」
「ええよ、コアラみたいにしがみついとけ」
くつくつ笑うハルに、沙奈は頬を膨らました。
人混みをかけ分けるように歩いてクラスメイトが集まっているであろう場所に辿り着くと、周りよりも賑やかで心なしか人も多い。
あんなにも参加したのか?と近付けば、怒号が聞こえた。
「俺らが場所取りしとってんぞ!」
「ああ!?お前らの前に、うちの奴等が取りしとったやろうが!!」
まさに一触即発で我鳴り合うそれは、場所取りで大揉めなそれ。クラスメイトと、相手はだらしなく服を着た連中。
酒の勢いと若い勢い。女の子も数人居るのを見ればいい格好したいというとこ。ハルは小さく嘆息すると、沙奈を手で追い払った。
「春くん…」
沙奈が不安そうな顔でハルを見る。まぁ、普通の女の子からすれば怖いかなとフッと笑った。
「ええから」
ハルはそう言って、互いに引けぬところまできている連中に近付いた。
ああ、この雰囲気。懐かしい。一瞬、握りそうになった拳を緩め、見ず知らずの男の肩に腕を回した。
「何や!」
いきなり肩に腕を回され驚いた男が振り返る。ハルは男に口元だけ笑って見せた。
「俺の連れが何かした?」
男はハルの鋭い目付きに怯んだ顔を見せた。昔取った杵柄か、こんな杵柄でも役に立つらしい。
「あ、えーっと、名取!」
男と対峙していたクラスメイトで茶色の髪を無造作に遊ばした男は、聞いてくれよと言わんばかりに喚く。やかましい事この上ないが、聞く限りいちゃもんを付けられているのは確かだった。
「うちが先に取ってたんやないの?」
さり気なく、腕に力を入れる。男の目にはハルが数々のやんちゃの末に叩き潰した拳が見えているのか、先ほどまでの威勢はどこへやら。男の連れもその意気消沈ぶりに眉を顰めていた。
「いや、せやから…」
「せっかくの花見やし、楽しい飲もうや。なぁ?」
「ああ、悪い」
ハルが男の肩から腕を離すと、男はハルに頭を下げて去って行った。連れの男達は、どうしたを連呼しながら急に意気消沈した男を追いかけて人ごみに消えてしまった。
「うわ、すげぇ!なにあれ!名取の気合いに負けた!?」
先ほどまでハルに嵐の様に事の説明をしていた男は、ハルの前で今度は大はしゃぎ。異常に思えるテンションだが、ハルの年代ならば普通のことなのかもなと極めて冷静な自分に笑った。
「たまたまやろ、話わかってくれる人で良かったわ。俺、ガクブルやし」
と、有りもしないことを言う。だが周りは大盛り上がり、ハルはそれに息を吐いた。普通って、面倒。
「春くん、飲んでる?」
輪から離れて酒を啜りながらスマホを弄っていたら、沙奈が新しいビールを持ってきた。それに手に持っていた缶ビールを振ってみせて、頷いた。
「ああ、飲んでる」
「さっきのすごい」
「さっき?」
「槇原くんが春くん絶賛」
「槇原…」
輪の方を見ると、中心でみんなを盛り上げ歌う男が見えた。先ほどハルに必死に訴えてきていた男だ。
どこか幼馴染を思い出させる明るさと、あの威勢の良さ。何だか可笑しくて小さく笑った。
「俺、何もしてへんし。どうしたんですかー?って言うただけ」
「買い出し行くぞー!」
わっと騒がしくなり、ハルは空になった缶ビールを沙奈に渡した。沙奈が、え?と首を傾げるので、騒がしい方を指差した。
「俺も行くわ、買出し。タバコあらへんし」
「え、あ、じゃあ、あたしも行く」
沙奈は慌てて近くのクラスメイトに飲み物を押し付けると、鞄を取ってくるとハルに言った。何か欲しいものでもあるのかと、ハルはまだ愛でてない桜をようやく見上げた。
ひと時の今のためだけに咲き誇る桜が、とても誇らしげに見える。こんな風に桜をゆっくり見るのは生まれて初めてだなと、いかに今までが普通でない日常だったのかを思い知る。
「名取?やるねぇ」
ツンと腕を突かれ目を向けると、実習で一緒だった小山田
おしゃれな黒縁メガネと、それに見合う整えセットされた髪。彫りの深い二重と長い睫毛。猫の様に釣り上がってはいるが、くりっとした目の形のせいかキツさはない。
見れば見るほど美容専門学校のがあってんじゃね?と思うが、最近は油まみれでもおしゃれは必須らしい。
「やるねぇって、なにが?」
「沙奈よ、沙奈。名取にめちゃくちゃ気ぃあるんちゃうの?」
「あ、そうなん?」
今まで寝転がっていれば勝手に跨ってくる女ばかり相手にしてきたせいで、全く分からなかった。
言うなれば、普通な純情可憐なんて天然記念物みたいに思っていたが、意外にそうでもないらしい。
「ちょっと、何ですか?余裕ですか?男前やもんねぇ、名取は。で、付き合うんか?」
「まさか。俺、ろくでなしやもん」
ハルはそう笑って、小山田の眼鏡を弾いた。
「あいた!」
「ビスコ買うてきたるから」
「チョコボールもな!ダーリン!」
買い出し組が動きだし、ハルもそれに続く。沙奈はクラスメイトの数人しかいない女ばかりの軍団に混ざり、ほんのりピンクの頬を更に赤くさせて笑っていた。
可愛いと思う。今までハルの周りには居なかったタイプだ。だが、それだけ。
もしかすると、枯れてるのかなとどこか冷めた自分に自嘲した。
公園近くのコンビニは大繁盛だった。暴漢にでも遭ったのかと言わんばかりに中の商品は閑散としていて、ハル達は少し行った場所にあるスーパーに行くことにした。
少し大きいそこは花見客の買占めにもビクともしないくらいの商品量で、ハル達はカートを押しながら歩いていた。
ふと、ぼんやり歩くハルは、見覚えのある男が視界に入り足を止めた。他人の空似か?というくらいに、いつもの格好からは想像がつかない姿だが、多分そう。
ハルは確かな確信を持って男にゆっくりと近付いた。眼鏡をかけて、白のシャツにスラックス。セットを崩した髪。
くたびれたサラリーマンのようで、白菜をじっと見るその姿に噴き出しそうになる。だが鋭い眼光は隠し来れてはおらず、アンバランスさが半端ない。
何の罰ゲーム?と周りを見渡しても、仲間らしき人間は居ない。意外、一人かとハルはくつくつ笑って男の横に立った。
「こっちの方が元気な白菜ですよ?」
「あ、すんません」
店員と思ったのか、適当な事を言うハルに頭を下げた男はハルの顔を見て、ギョッとした顔をした。
「うわっ!」
「やっぱ、梶原さんやん。何それ、おしゃれメガネ?」
「は?な、何してんねん」
ハルの登場に狼狽する梶原は辺りを見渡して、何?を繰り返した。
「何、これ。一人鍋?時期外れ」
カゴを覗き込めば、そんな感じの材料が目についた。梶原はそのカゴをハルとは反対方向へ持ち替える。
「あれ?ねぇ、護衛おらんの?」
「おらんわ。あっち行けよ」
「風間は?」
「もう帰りはった」
「そうなん?これ、水炊き?しらたきもうちょい増やそうや。マロニーちゃんと」
「はぁ?」
「柚子胡椒はある?」
「そんな本格的にしねぇよ」
「いや、俺が要るし」
「…は?」
「春くん?」
ハルが消えたのに気が付いて、沙奈が探しに来た。沙奈は梶原に一瞬怯えた顔を見せたが、頭を下げて小さく笑った。
「ほれほれ、オンナ連れやろ。あっち行け」
梶原はハルを犬でも追い払うように手で払う仕草を見せる。厄介者ってことかとハルは眉を上げて、ふんっと鼻を鳴らした。
「あ、俺、今日はこの人んとこ行くからここで抜けるわ。適当にみんなに言うといて」
「え!?」
「はぁ!?」
沙奈と梶原の声がハモる。梶原なんて、誰がそんな!と大慌てだ。
「え?春くん、あの、その人…?」
「あ、俺の…叔父さん」
「ば!!」
「あ、そうなん!あの、こんばんは。羽田沙奈です。春くんのクラスメイトです」
改めて頭を下げる沙奈に、梶原もつられて頭を下げた。
極道、風間組の若頭補佐が専門学校生に頭下げてるよと、ハルは笑いを噛み殺した。組員が見たら卒倒しそうだ。
「じゃあ、ごめんな、また。あ、ビスコ、小山田に買っといたって」
ハルは梶原の持っていたカゴを奪うと、その硬く太い腕を引いて歩き出した。
この光景も可笑しな光景だ。専門学生に腕を引っ張られる極道。不自然極まりない光景だ。
「おい!誰が叔父や!そんな年ちゃうし、大体、何で俺がお前と鍋なんか!」
「この間、頭にチャカ突きつけられて、今にも脳味噌ぶち撒けようとしてたの救ったん誰やった?更には、匿うための寝ぐらも用意して…大変やったわぁー」
ハルは小言のように言いながら白滝と椎茸をカゴに追加して、序に豆腐も大きい物に変える。鍋の時期でもないが、鍋と聞くと無性に食べたくなるから不思議だ。
「あれはそれなりの報酬を払ったやんけ!」
「風間と喧嘩したって威乃を預かったこともあるし」
「…」
「ああいうサポート、もういらへんってこと?自分で対処するんや?へー。ご苦労やなぁ」
「はぁー。柚子胡椒やな!」
ハルの脅しにぐうの音も出ない梶原は髪をガシガシ掻いて、そう言い捨てた。