「バーボンはあんまり飲まへんけど、これええな」
眞澄はバーボンを口の中で堪能すると、クッと飲み込んだ。心よりはしっかりと酒の味を楽しむタイプかと雨宮は他の酒瓶を見た。
誰が揃えたのかは知らないがチョイスは間違っていない。銘柄だけの高価な物を揃えたわけでもなく、偏った品揃えでもない。揺れる船上というだけあって希少過ぎるオールドボトル、古酒になる物は置いていないのは好感が持てた。
「そういえば、スナイパーっていうのは?どこにおんねん」
眞澄の質問に雨宮は心に視線を向けた。だが答えるつもりはないようで、眞澄を気にすることなく酒を楽しんでいるように見える。
雨宮はそれを返事と取ると、渋々ではあるが口を開いた。
「スナイパーはこの船には乗ってません。別便です」
「別便?」
眞澄の怪訝な顔に雨宮は小さく息を吐いた。この状態で別便というのを訝しむのは尤もだ。だが…。
「ぶっちゃけ、俺もスナイパーの正体を知らないんすよね」
「は?裏鬼塚ちゃうんか。まだなんかあるんか」
「いや…」
裏鬼塚に所属とて全てを把握しているわけではない。人物は元よりそれこそ人数さえもはっきりとせず、それどころか関わりを持ったことがある人間なんて一握りだ。
それに雨宮もそうであるように、皆が皆、正体を隠して仕事をすることが普通とされている組織の中で実際のところどこの誰かさえも分からない人間の集まりといっても過言ではない。
例え一緒に仕事をしたとしても転校生よろしく自己紹介をするわけでもないので、コードネームしか知らないというのもザラだ。しかしそれを眞澄に正直に話していいものだろうか…。
それに今回は…。雨宮は自分のグラスにブッカーズ ノエを注ぐと、ゆっくりと口にした。
「ん、美味いな…。あー、その…今回のスナイパーは裏鬼塚でもないんすよ。裏鬼塚のスナイパーは俺も知ってるんすけど組長が使うスナイパーは別に居て、その正体は誰も知らないんすよね」
当たり障りない範囲でというのが分からないなと、これも話すぎなんだろうかと思いながら雨宮は話した。
今回のスナイパーは、雨宮が仕事をしたことがある裏鬼頭所属スナイパーの何十倍も腕の良いスナイパーだ。命中率も100%で嘘のような距離でも的確に的を射る。
だが姿を見せないことを徹底していて、雨宮でさえも後ろ姿すら見たことがない。男だということだけ心が話しただけで他は全く分からない、それが今回参加していた心専用のスナイパーなのだ。
裏鬼塚組を作り上げた崎山はもとより恐らく相馬でさえも知らない、正体を明かさないことをそこまで徹底しているスナイパー…。
雨宮の言葉に眞澄は息を呑んだ。裏鬼塚だけでも厄介だと思っているのに、心だけのスナイパーがいる。しかも格別の…。
「お前…本当、敵わへん男やわ」
眞澄が呆れたように言うが、心はそれに答えることなく空になったグラスを雨宮に向けた。すると反応のない鷹千穗を引きずるようにして連れて、万里がやってきた。
鷹千穗は諦めたような顔をしていて、やられるがままだ。
「この子、酒飲めるん?」
万里の質問に心と雨宮は視線を合わせた。そもそも、人間の三大欲求が欠如しているような男に酒なんて彪鷹が飲ませているとは思えない。
「知らんわ…。あ、飲ますなら、炭酸きいたやつにしろ」
「何で炭酸?」
「ブーム」
何?ブームとか言った??万里だけではなく雨宮も怪訝な顔をしたが、心が言うならば間違い無いだろうと炭酸水を手にした。
ハイボール、薄めで作って飲ませてみるかと作り出すと、その炭酸の弾ける男に鷹千穗が目を向けた。どうやらブームというのは本当らしい。
「酒、俺も頂戴」
掛けられた声に雨宮が肩を震わせた。同じ声色、同じトーン、話し方は昔と少し違うが、同じ細胞から分かれた分身。
Thanatosー戒人は雨宮を上から下まで見ると、ふと笑った。
「月笙が、お前と話をしろってうるさいんだけど、理由が分かんないなぁ」
戒人は空いている雨宮の隣に腰を下ろした。テーブルに置いた手を見て、爪の形から指の長さまで自分と全く同じ手に懐かしさと寂しさを覚えた。
「あれ?あんさんのこん香りは何?御園みたいな匂いせん?こん人」
万里が犬のように鼻を鳴らすと眞澄が鼻で笑った。確かに昔はしなかった香りが戒人から香る。香水ではなく、これは…。
「御園はそんなけったいな匂いやあらへん」
「けったいやって。失礼な人やわぁ。ほんで、なに?香水?」
「線香。今は
唐突の質問に万里は眉を上げた。
「あんたと逢うたん、今日が初めてやのにわかるわけおへん」
「だよなぁ…。そういう時にリラクゼーション効果みたいな感じで、月笙が香炉でいつも炊いてるから染み付いてるんだろうな」
雨宮は静かに唇を指で撫でた。緊張からか異常に乾いている。
戒人が瓜二つの自分を見ても何の反応も見せない理由、恐らく解離性障害、いわゆる記憶喪失に見られる症状にPTSD等がある。
戒人が自殺を図った時は身も心も限界な上に雨宮への贖罪への思いが強く、自分をとことん追い詰めていた。なので雨宮の目の前で戒人は命を絶ったのだ。
それに加え、身体こそは成長していたとしてもまだ10代の子供で未熟な精神が入水自殺をしたことで崩壊したと言われれば納得する。それも未遂になってしまったのなら尚のこと。
記憶喪失は一種の防衛反応とも言われている。脳が精神を守るために記憶を封印してしまうのだ。戒人の場合は顔に傷を負っている。
その傷を見ることで心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が出て、過去の悔いている過ちがフラッシュバックで起こり自我が崩壊する可能性もある。
だが戒人の場合はThanatosとして李王暁として月笙が育ててきたおかげで自我を失わずに済んだものの、自分のことが一切分からないというストレスから自己破壊的行動へ出る者も居る。
恐らく月笙はそれを回避するために、効果のほどは分からないがThanatosとして人格を与えリラクゼーション等で戒人を守ってきたのだろう。
「月笙ってあれやろ、相方。Thanatosは仕事依頼は直接出来ひんって聞いたで、受付やろ」
「受付…ふふ、いいなそれ」
戒人が笑うのを見て、雨宮も思わず笑みを浮かべた。どんな形にせよこうして笑うまでにしてくれた月笙には感謝しても仕切れない。
和やかな雰囲気の中、ガチャっと船室のドアが開いて高杉が姿を現した。全員が全員、同じような黒づくめの姿だが高杉はその中でも一際幼く見えた。
高杉はぐるっと船室を見回すと、見知った顔を見つけたとばかりに雨宮の方へ向かってきた。
「日本酒ってねぇの?」
万里や眞澄の重鎮に目も向けずに高杉は心の隣に腰を下ろし、開口一番そう言った。もちろん心への挨拶もなしだ。
よくこれで鬼塚組の中で今まで生きてこれたもんだ。呆れながらも雨宮はウイスキーのボトルを何本か高杉の前に置いてみた。
「日本酒はないみたいっすよ。ハイボール作りましょうか」
「柚子で」
「さすがにないっすよ」
船だぞ、ここ。そう言おうにも会話をしている雨宮とも目を合わそうともしない。気怠そうに、だが警戒心を感じるほどに何かに備えている風に見えた。
高杉が一人でこうして行動すること事態が稀だ。常に同期の成田か気心の知れた相川や橘、それに高杉をフォロー出来る佐々木といる。
色々と問題があるのでそうしている可能性は大いにある。とりあえず戦術に関しては抜きん出ているが、社会常識の無さや一般常識の欠如は問題があるでは済まされないほどのレベルなのだ。
「心んとこの子やろ?この子も裏なんとかなん?」
万里が頬杖を付いて高杉をジッと見るが、まるで万里の存在がそこにないかのように視線も向けずに無関心を貫く。万里はそれに首を傾げた。
襲撃の作戦は完璧だった。爆破の起こる時間と規模、侵入経路から敵の数ともしもの場合の脱出方法。寸分の隙もない計画には感心したものだ。
その作戦を考えたのが…これ?
「高杉は幹部やから裏の人間やない。ま、高杉がおらな、ここまでスムーズに出来てへんかったかもな」
「教育がなってへんやろうが。挨拶くらい教えとけ」
万里は気にしていないようだったが、流石に眞澄が不満げに言う。確かにそれな!と雨宮も眞澄に共感した。
「ハイボール、これで我慢してください」
出せば、にこりともせずに受け取り口を付けた。
「あ、組長、崎山にキレられるのは面倒なんで勘弁してくださいねぇ」
高杉は心のグラスに自分のグラスを当てるとそう言った。そうだ、今回の襲撃よりも凄まじい戦いが残っている。
高杉が今回の作戦に参加していることを崎山が知っているとは思えないし、高杉の行動を制限しているわけではないだろうから恐らく高杉は崎山に睨まれることはないだろう。
だが心と雨宮はそういうわけには。心は病院を勝手に抜け出しているし、雨宮も勝手に姿を眩ませた。それを笑って許してくれるような人間じゃないのはよく知っている。
「その辺は雨宮に」
「は?」
突然そう言われ、雨宮は少し高い声が出た。何を言い出してるんだ、こいつと思う発言だ。
「俺が崎山さんに対応しろって?無理っしょ。殺されちゃいますよ」
「俺かてただじゃ済まん」
「いや、組長は病院抜け出したくらいで…」
「俺が命令して鷹千穗が屋敷を出た。鷹千穗が屋敷を一人で出れたのは、高杉が指示したからや」
「え?どういう…」
「屋敷の組員を鷹千穗が倒して、鷹千穗が苦手な高杉をガレージに閉じ込めた。もし高杉が外におったとしたら逃げられましたじゃ通らん。やからガレージの電子パネルを破壊して、外部から自動で監禁状態…。高杉が屋敷を監視カメラで見ながら、組員の数も減った時に鷹千穗に合図送って作戦決行」
「な…なんつうことを…」
よりによってそこが手を組んだのか!この作戦に高杉がいると聞いた時は驚いたが、何年も戦場で生きてきた高杉を入れない手はない。
どの国にいたのかまでは知られていないが、いくつもの修羅場を潜り抜けてきたこの船上の誰よりも過酷な世界で長年生きてきたのは確かだ。
だとしても、屋敷を抜け出すために高杉を使ったというのは…。
「死ぬほど拙いでしょ…」
「あいつ、相馬よりも面倒などこあるから俺じゃ無理や」
「いや、俺はもっと無理でしょ。下手したら殺られますよ」
責任の擦り合いのような攻防を続けていると、パンっと手を叩く音が響いた。それは梶原で、全員が注目するとフッと笑って酒瓶を掲げた。
「この無謀な作戦についてくきてくれて感謝する。俺1人じゃ出来んかった。佐野がおったとしても二人でも無理や。ここにおる全員が揃って出来たことや」
ぐるっと全員の顔を見渡し、最後、千虎を見て”お前もな”と梶原は言った。千虎は周りを伺うようにして、小さく頭を下げた。
この無謀な作戦に何故、千虎が参加することになったのか。そもそも、この作戦の発起人は誰かという話から始まる。答えから言えば彪鷹と梶原だ。
仁流会系の組員であるとはいえ、それぞれが別の組に所属していて重鎮と呼べるポストに就いているのだ。更に言うと絆どうこう以前に互いに反目しあうような仲の関係。
そんな連中を集めれるのは二人しかいないのだが、だがそれは急遽というわけではなく、実のところ彪鷹が組に戻ってきた時に発案されたものだった。
彪鷹は鬼頭組の組員のような存在という、はっきりとしない状態で山瀬の下で動いてきた。そのおかげで常に仁流会や鬼塚組を一人、冷静に外から見ることが出来たのだ。
仁流会は平成の極道戦争が終わったばかりで、突けば綻びが出そうなほどに弱体している傘下組織も多かった。加えて鬼塚組だ。
仁流会が安定してきた頃には今度は鬼塚組の内紛が勃発しており、そのせいで山瀬が命を落とすこととなった。正直、グラグラの状態でいつ崩壊してもおかしくなかったのだ。
それを見てきた彪鷹は、一つの組が壊れた途端に仁流会は崩壊すると感じた。ならば何かあったときに崩壊の原因となるものを叩き潰す必要があると考えた。それも上層部の息の届かないところで確実に力のある人間が、二度と仁流会に手出し出来ないまでに完膚なきまでに徹底的に。
仁流会に戻ってきた彪鷹が目をつけたのが若いながらに組の大幹部となっていた万里、眞澄だ。常日頃から険悪な間柄ではあるが、血に飢えているという点では合致している。
龍大に関して言えば、心が参加するとなると聞くまでもなくというところだ。少人数ではあるが力では圧倒する部隊を、他の誰にも知られることなく作る必要があったのだ。
そこに鷹千穗も交えれば向かうところ敵なしというところだが、きちんと形成されているわけでもない、言うなれば建設途中な上に今回は海の向こうへ渡る必要があった。
船はいくらでも用意できるが、その船を動かす者となると話は別だ。さすがに船舶免許を保有している者はいなかった。
さすがにそこまで上手くいかないかと言っていると、心当たりがあると心が言い出したのだ。
身を隠す時に利用した男、千虎だ。千虎は自分のセクシャリティの面で劣弱意識が強く、いつ何時、仕事や生活環境が窮地に追い込まれることになるのか分からないと考えていた。
その為には、どんなことでも出来るようにありとあらゆる資格や免許を取得していたのだ。それを千虎の留守中に知った心は、千虎を今回の件に巻き込んだのだ。
「あと、正直…Thanatosでええんか?お前が居てくれたんは大きかった」
戒人はうーんと考える顔をして、肩を竦めた。
「内部情報は月笙が得たもので、俺は腕だけだよ」
「それだけとしても、あの人数を圧倒的な力で倒せたのは大きい…」
「それなら、この男が一番のPowerだ」
戒人は高杉に向かって指を鳴らしたが、高杉はそれを一瞥するだけで酒に口を付けた。
「ああ。ほんまに…武器の調達と戦術は見事。やけど何よりも、誰も怪我をすることもなくこうして船に居ることが当初の目的や。来生は死んだ。やけどこのまま香港マフィアが大人しく手を引くとは思えん。今後、日本に帰っても各々の組で警戒だけは怠らんようにしてほしい。あと、今回の件は我が親父にも死んでも言うな。俺らの作戦は御法度で愚かや。急遽誂えたようなチームがここまでこれたんが奇跡なだけで、次も同じように出来るとは限らへん。ただ、二度目がないとも限らへん。それだけは肝に銘じとってくれ」
梶原はそう言うと口許で笑みを作り、グラスを掲げた。それに合わせて全員がグラスを掲げた。
港へ着いた時には陽も昇り、船に乗り込んだときとは違い港も明るく世界が違って見えた。
「ほな、また総会でな」
万里は心の肩を叩くとサングラスを掛け、にやりと笑った。それぞれが帰路に着くのを眺めながら、心は雨宮を振り返った。
「じゃあな」
「いやいやいや、ちょっと待ってください。じゃあなって何すか。意味分かんねぇ」
「俺、ちょっと行くとこあるから、お前らは先に帰って色々と片付けとけ」
「行くとこってなんすか?」
「んー、母親の墓参り」
心がそう言うと雨宮は怪訝な顔を見せたが、言い出したら聞かないという心の性格を知っているからか肩を落として頷いた。最早、諦めだ。
神童に逢って、来生が出てきて…。久々に母親のことを思い出した。
傷心に浸るような性格ではないので、本当に何となくというのは言い訳で組に帰って相馬にドヤされるのが面倒だというのもある。
このまま姿を消すのもありかとも思ったり…。とりあえず何よりも面倒というのが先に出てしまった。
「気をつけて行ってきてくださいよ」
雨宮が言うと、心は背中で返事をしてその場を立ち去った。