翌日、久志は山瀬に電話をかけ事情を説明し、雅に休みをくれる様に頼んだ。ドアが原因で吐いて倒れただなんて、事情を知らない人間が聞けば俄に信じがたいものだ。
だが山瀬は梶原からそれとなく聞いていたのか、組に入れる以上、身辺調査をしたのか久志に雅を看ておく様に言った。
久志は自分の部屋につけたドアを、躊躇いもなく外した。
「あ〜あ、お前が余計な事言うから、一日暇じゃん」
雅は不貞腐れた表情を見せながらも、未だにリビングに敷いた布団から出ようとはしない。
文句は言うが、きっと、まだ頭痛がするのだろう。
「阿呆、そない青い顔してるくせに、何言うとんねん」
久志は外したドアを他の部屋の、やはり外されて仕舞われてたドアと一緒に片付けると、布団に包まる雅に近づいた。
そっと雅の頭に手をやれば、昨日のコブは見事な大きさでそこにあった。
「湿布貼る?」
「ね、お前、馬鹿だろ?髪の毛あるだろ、剃れって言うの?」
「そうやんなぁ。冷やす?」
「もう意味ないし、昨日の話だよ?それに、見た目ほど痛くもないし」
雅は布団から手を伸ばすと、床に置いてあるノートパソコンを立ち上げた。
昨日の夜に訳もなく交わされた口づけは幾度となく繰り返され、そして、そのまま何も言葉を交わさないまま眠りについた。あれは何だったのか、まるで朧げな夢のようだ。
「何か食うか?」
久志が立ち上がると、雅は手を振った。
「いや、いいや。何か胃が変」
「そりゃあない吐いたら胃もびっくりするわいな。ほな、お粥さん作ったろか?」
「…後ででいいや」
雅はパソコンを弄りながら答えるだけだった。久志は仕方なく、雅の隣のに敷かれたままの自分の布団に胡座をかいて座った。
「何か食べないのか?」
「オマエと一緒に食う、じゃないと片付かん」
「母さんと同じ事言うな」
雅はクスクス笑い、パソコンを閉じた。
顔色は青いまま、余程、身体が辛いのかそのまま枕に顔を埋めてしまった。
「オマエのおかんってどんな人?」
「ん〜?優しくて美人で明るい人」
「何それ、完璧やん」
「完璧」
「え…マザコン?」
「そう。で、シスコン」
「あんまり見えんな」
どこか感情の冷たさが伺えるのは、雅が事件の後に受けた仕打ちのせいか。
綺麗な顔は、感情の冷たさを際立たせている様に思えた。
「弟も可愛かったけど、やっぱり男より女の方が可愛いよ。お兄ちゃんお兄ちゃんって。末っ子だったから、甘えん坊で我侭で。俺も弟も妹の言う事は何でも聞いた」
「そうなん」
雅の妹ならば、相当綺麗な顔だったのかもしれない。そんな邪な疑問を投げかけれる訳も無く、久志はにべもない返事をした。
「男はみんなマザコンなんだって。梶原のオッサンと一緒にご飯食べたとき、店の女将が言ってた」
「俺はマザコンちゃうわ」
きっぱり言い切る久志を、雅が片目を開けて見る。
「親父さんはシャブ中だったな」
「せやでー。おかんは売春婦。えげつない格好でいっつも出かけとったわ。あんなババァ誰が買うねん思うたけどな。ああいうババァにしか勃たん奴もおるんやでな。その金で親父はシャブ買うてたんやからな。俺がそない長いこと入っとらんで済んだんも、おかんの証言があったからやけど感謝ってあらへんな。いっつも酒飲んでシャブ炙ってる親父と、えげつない格好で夜になると出かけるおかん。家族って実感なかったなぁ。親父の子かも怪しかったしな」
「…シャブ中か」
「俺、あの炙った匂いが嫌いでな。あと親父の背中の龍神。いっつも背中向けて炙り必死でやってる親父の背中の龍神が、俺を睨みよんねん」
「龍神…」
今でも思い出すと、あの龍神だけには背筋が凍る。
明彦が肉の塊になっても、龍神は久志を睨み続けた。まるで、よくもやったなと言わんばかりに。
「使いっ走りにもならんチンピラや。どこの組おったんか知らんけど」
「そう…」
「まぁ、その道の親持つと子供もろくなんにならんってことや。兄貴も組入るって家出たし。兄貴が出て行っても、おかんも何も聞かんかったな。親父なんかラリってもう分からんかったやろうし」
「兄貴が居るのか?」
雅が意外そうな顔をした。
そう言えば、一度も志馬の話はしたことがなかった。というよりは、互いに家族の話なんてしたことがなかった。
まぁ、雅の場合はしたくても易々と出来る話ではないが。
「二個上やねんけどな、おるで」
「組って関西の?」
「いや、こっちの一新一家。山瀬さんは知ってるけど、俺は知らん組。それに兄貴が組員になってるかも分からん」
「一新一家か。老舗極道だな」
「らしいな。兄貴探しにこっち来て、こっち着いた数時間後に山瀬サンに拾われたから全然探してないけどな」
「連絡取らないの?」
「何て言うん?一新一家に電話して聞くん?」
久志は可笑しそうにケタケタ笑った。
「そうじゃないよ。一新一家は鬼塚組とは仲が良いんだよ。老舗極道で今時傘下も兄弟組も持たない組で、関東ではうちの次にデカイ組。うちの組長と一新一家の組長が仲が良いらしいから、山瀬さんにでも言えば居るかどうかわかるはずだけど?」
「いや、もし一新一家で正式な組員になってればええけど。そうやなかったらな…」
「ね、ずっと連絡取ってないの?」
「取ってへんし。多分、俺が親父殺した事も知らんわ」
雅は”そう”と小さく言って、久志の胡座に這い上がり頭を載せて目を閉じた。
睫毛の長い、顔のパーツ一つ一つがとても綺麗な顔だと改めて思った。
久志は上体を倒して、雅の額に口づけた。少し熱い様な気がする。熱があるのかもしれない。
「昨日の話してもええ?」
「ん?」
「ああやってドア開けて倒れる事って、よぉあるん?」
久志が聞けば雅はフッと目を逸らした。
その瞳に影が落ちた気がして、久志は聞いてはいけなかったかと心の中で舌打ちした。
どうも自分は後先を考えなかったり、人の気持ちを考えないところがある。何もかも明け透けに話をするのは、少し早かったか。
「殺害現場になった家に住めずに、古いアパートに住んでた時期があるんだよね」
だが雅はぽつり、吐露し始めた。
「自分の住んでた家とは似ても似つかない、蹴ってしまえば開きそうなボロいドアのアパート。毎日毎日、そのドアを開けるたびに吐いてた事はある。本当、胃がおかしくなっちゃってさ。結局、俺は夜に帰るのを止めた。事件は夜に起こったから、そういう因果関係で精神的に何もないドアの向こうに何かあるのかもしれないって思うのかと思って。どうしても夜に帰らないといけないときは、公園に泊まって朝に帰る。でも、やっぱりドアの前で躊躇う。ドア全てがダメなときだったんだ。トイレのドア、店のドア、どれも生活について回るもので、それを開けなければ次に進めない。でもある日、家のドアは開けれる様になった。何でかなんて分からないけど、家のドアは平気なんだ。ああ、でも出かける時に電気をつけて、夜帰って来ても部屋が明るい様にしたなぁ。テレビもタイマーで付けて。実は今もそれをしないと不安でね。お前はいつも先に出るし、いつも俺の後から帰って来るから知らないだろうけど」
「知らんかった。だから初めて着た時も、すぐに俺を入れへんかったんか」
「部屋のドアだけは、どうやってもダメだったんだよね。事務所も極力ドアは開けっ放しにしておくか、誰かが入る時に一緒に入り込むとか」
そう言われてみて、久志は初めて雅を紹介されたときに、車庫へ続くドアが全て開け放たれていた事を思い出した。あれは、そういう理由だったのか。
「あれはいいんだよ、半分上ッ側が磨りガラスになってるやつ。事務所から奥に入るドアがそれなのは、助かったけどね」
「言うてくれたらええのに」
そうすれば自分だって、ドアを付けたりはしなかった。だが、雅は笑うだけだった。
「誰にだってプライバシーってのがあるじゃない?どれだけ愛し合った人間でも、自分の城が欲しくなる。俺等みたいな同居してる赤の他人は、それがあってこその同居じゃない。何もかも相手から見えてちゃ、思ってもみないストレスが溜まるもんなんだよ?それに何て言うの?ドアが怖いから、ドアはつけないでって言うの?それで?それは大変だ、ドアは付けないでおくよなんて言う人間が居る?しかも同居相手。反対に俺の精神を怪しまれるね」
「せやな」
言われてしまえばそうだ。言うに事を欠いて”ドア”だ。
それを恐いだなんだ初対面で言われれば、コイツふざけてるのかと確かに思ってしまう。
「まぁ、今回は…部屋が真っ暗だったし、久々だったから気を失っただけ。毎回吐いて気を失う訳じゃない」
そう言って雅はフッと笑った。久志はそれを聞いて、胸の奥が熱くなった。
どれくらい一人で苦しんだのだろう?ドアの向こうのあるはずのない景色に怯え、誰にも縋れずに今まで生きて来たのか。
久志は雅を足から降ろすと、そのまま隣に横になり雅の細い身体を抱きしめた。
「もっと早う逢いたかった」
「口説いてんの?」
雅は笑ったが、久志は本心だった。もっと早くに逢って、雅を助けたかった。
雅の人生の歯車が狂った時に自分が隣に居て、何が出来るかなんて分からないけど、それでも雅の開けられないドアを代わりに開けてやる事は出来たはずだ。
「昨日よりも、もっと先に進もうか?」
耳元で甘く囁く雅に答える様に、久志は雅に口づけた。
身体が辛いのではないのだろうかと思いつつも、一年という期間、外部から閉ざされた世界に居たせいか、久々の他人の肌。それが男の肌だという現実を持ってみても、久志の興奮は抑えれるものではなかった。
久志が想像した以上に雅の肌は女の様に
男との性交なんて手順も何も分からない久志は、手探り状態で雅を抱いた。
どこまで押し進めていいのか分からない腰が、まるで初めてセックスをする中坊の様で、雅は笑った。
きっと、受け入れる側の方の負担は相当なものなのに、雅は一度もそれを感じさせなかった。
「大丈夫か?」
布団に俯せのまま横になる雅に、久志は台所からミネラルウォーターを持ってきて差し出してみる。
仕事を休んで真っ昼間から盛って、本当にガキだななんて思いながら久志は雅の背中を撫でた。
「…平気。でも分かった気がする」
「何が?」
「俺、男しか無理ってこと」
「……」
「大丈夫だよ、それで責任取れとか言わないから」
雅はそう言って、笑った。その顔が少し寂しげだった様に思えたのは久志の思い過ごしか、それとも願望か。
結局、無理がたたったのか雅は熱を出した。辛そうに息をする雅に、自分のせいで熱が出たのかもしれないと久志は自己嫌悪に陥った。
体調が悪いのも知っていたのに、身体に負担のかかる行為を行わせてしまった。久志はその夜は、寝ずに雅の看病をした。
翌日、雅は熱も下がり体調も良くなった様で、久志は胸を撫で下ろした。
組に顔を出しても、山瀬が上手い事言ってくれたのか休みについて尋ねてくる者は居なかった。
いつもの様に久志は車庫、雅は事務所。久志は車庫で車を洗いながらも、心此処にあらずの状態だった。
自分が男も抱けるとは思ってもいなかった、その事への戸惑いか後悔か。雅の負担を考えずに、自分の欲望のままに進んだことへの自己嫌悪か。
その答えを導くには足りない事だらけで、同じ道をいつまでも歩いている様な気分がする。
「どないせぇっちゅーねん」
今まで、彼女と呼べる相手が居なかった訳ではない。
捕まるまでは彼女も居た。ただ、中に入ってからすぐに別れた。待つと言われても、素直にうんと言えなかった。
出てからどうするかまで考えれる程、久志は大人ではなかった。待っていてくれたからといって、何かを返せるとも思えなかった。
結局、久志は生まれ育った街を離れたし、選択は間違ってなかったんだと思った。それこそ雅が言う、自分で道を切り拓いたというものだ。
関東に来て、あの時間、あの道を歩いていたから山瀬に声を掛けられたし、雅にも出会った。
でも、だからと言って、肉体関係を持った事が正しかったのかは分からない。
雅も自分をどう想っているのかなんて話はしなかった。ほぼノリと勢いのセックスは、相手が異性だとしても後が気まずいものだ。
「おい、久志。俺の愛車、花じゃねーぞ」
「あ!!!」
言われて気がつく。ホースから出る水は目の前のSLKをずぶ濡れにしていて、足下も水たまりが出来そうな程だ。
久志は慌てて水を止めると、出入り口に目をやった。
そこにはスーツを着た、何やら意味深な笑いを浮かべた山瀬が立っていた。
「すんません」
「花もここまで水やられたら、枯れちまうだろうなぁ。ま、日頃しっかり洗ってくれてるから、水も面白い位に弾いてるけどな」
「はぁ…」
「で、何かあったか?」
何かあったと言えばあった。雅が倒れて、介抱するはずがその身体に手を出した。
だが、それを山瀬に言った所でどうなる。第一、同性との肉体関係の話なんて聞きたくもないだろう。
「いや…何もありません」
「てめーは嘘が下手だなぁ。もう少し芝居出来ねぇと、どうにもなんねぇぞ。俺等の仕事は役者に似てるからなぁ。嘘だろうが何だろうが信じさせてなんぼだぜ?」
「…はぁ」
「気のねぇ返事しやがって。雅は役者だぞ」
山瀬は溜め息をついて、久志に言った。
悪い事を散々してきたくせに、久志はどうも嘘が下手だった。正直者と言えば聞こえは良いが、ただ嘘をつくほど雄弁ではないし何でも顔に出てしまう始末の悪い質だった。
「…あいつ、辛そうにしてませんか?」
久志の気がかりはそこだった。
同じ建物に居ても、ずっと駐車場に居る久志と事務所でパソコンに向かう雅が逢う事はほぼない。
雅が無理をしているのではないかと、久志は心配で仕方が無かった。
「ああ、昨日の今日だからどうかと思ったが、全然平気だって言いやがる。まぁ、どこまで本当かは知らねぇが、そんなに酷かったのか?」
山瀬がニヤリと笑った。それに久志は自分と雅が昨日、何をしていたのか見透かされているのではないかと目を逸らせた。
「ええ、その、はい」
何とも情けない受け答え。久志は自分自身にうんざりした。
「俺は初めに聞いただけだから、まともに見た事はねぇけどな。お化け屋敷じゃあるまいし、ドアが怖ぇなんてよ」
「俺の部屋にドア付けたんが、あかんかったみたいで。俺は聞いてへんかったから」
「まぁ、言わねぇだろ?」
「だから何で急に吐いたんか、倒れたんか分からんかったけど、話してくれたから」
「何もかもか?」
驚いた様な顔を見せる山瀬に、久志は頷いた。
「えーっと、家の事と、事件の事」
「そうか…俺らの商売は人の家潰す直接の原因になる事も、間接的な原因になることもあるからな。雅がその極道になれるのかだな。堅気に手出ししねぇっても、シノギ削る為には金のために何でもするっていう堅気を相手に商売もするからな。雅は頭が切れるから、そういう事やらせれば良い線いきそうだけど、もし自分と同じ境遇の人間に遭遇した時には仕事をこなせるかだな」
山瀬は車庫にあるSL500の車窓を鏡代わりにして、少し乱れた髪を整えながら話した。
「もうすぐ…ですよね?期限。ちゅうか、佐藤さんは雅を組が離さないって言うてましたけど」
「まぁな。雅の奴、こないだ20万渡したら3日で2400万にしやがった。株らしいが2400万を倍にしろって言ったら、それは出来ねぇらしい。何かとの兼ね合いでたまたま株価の上昇があると確信持てるやつがあったらしいが、今、事務所に居る奴で雅の話を理解出来る奴なんて皆無だ。全員、中学もろくすぽ行かねぇで悪さだけ一人前になった奴等ばかりだ。気は良い奴等だが、教養は今の小学生にも劣るくれぇだろうな。きっとあと数年で極道は住み難い国になる。ああやって拳だけが一人前の奴等ばかり居る組は潰れる。だから雅みてぇなインテリは必要なんだ」
「アイツ、どないするんですか?」
「オマエはどうする?」
「え…?」
雅の事を聞いたのに、その質問が自分に向けられ久志は驚いた。
「このままうちに居ちゃ、兄貴との再会もどうなるか分からねぇぜ。いくら、一新一家との関係が上手くいっていると言えども、それがこのまま続くかなんて保証はねぇ。俺等は極道なんだ。それにいくら仲が良いとは言え、他所の組に居る兄弟としょっちゅう連絡を取るのも如何なものかって話になる。今はいつでも消えてしまえる雑用係で組には何ら関係ないバイトだ。明日辞めますって言っても、俺も止めやしねぇよ?」
「いや…俺はここに残りたい思うてます。教養はあらへんけど。こっち来たんも兄貴に会いたくてしゃーない訳やのうて、とりあえず、兄貴に会うたら何か仕事でも紹介してもらえるかもしらんっていう考えやから。まぁ、そのうち逢えたらええかなとは思うけど、兄貴が一新一家やから俺もみたいな、仲が無茶苦茶ええ兄弟でもないし。それに、一新一家におるかなんか分からんし」
久志は言いながら、車の水滴を柔らかいタオルで丁寧に拭き取っていく。
しっかりワックスでコーティングされた車体は、少しタオルをかけただけで水滴が綺麗になくなっていった。
「まぁ、オマエはまだ期間あるから、そんな焦らんでもいいけどよ。まぁ、もし組に正式に入れば、初めに言った通り車の学校に行く金は出してやるよ」
「やっぱり、行ったほうがええですか?」
拾ってもらった上に学校まで。久志はなんだか申し訳なく思った。
そこまでしてもらって、自分が山瀬に何かを返せるかが久志には分からなかったのだ。
「今は近所の修理工と契約してるんだけどな。そこのジジィがもう隠居してぇってずっと言っててな。かと言って新たにどっかと契約するにしても色々とサツもうるせぇし、修理工探すのも手間がかかる。あれこれ調べねぇといけねぇしな。お前が免許取れば、いちいちそんな修理工探す必要もねぇし、契約金も払わなくて済むじゃねぇか。その代わり、オマエには手当渡すぜ?ああ、あと車の免許。運転手にもなってもらわねぇといけねぇし、何かと忙しいんだよ、極道も」
「車、好きやから、ほんまにそうしてくれたらありがたいけど」
「ん?」
「いや、雅はどないするんかなぁって」
「何や、オマエ、雅に惚れたか」
二度目の質問で確信を持ったのか、からかう様に山瀬が久志の顔を覗き込みながら言った。
それに久志は慌てて頭を振って否定する。
「同居してるし!ってか、俺もアイツも男やし!!!」
ヤル事ヤッてしまって、そのことで悶々をしているとは言えず。
同性だと言う自分に、何か違和感を覚えているのも認めれず。やっぱり、考えは堂々巡り。
元々、色々と考える事が苦手な久志とって、答えの出そうにないことをいつまでも考えるのは最早苦痛さえ感じる様になっていた。
「はん、そんな事か」
「そんな事って!!大事なことちゃいますん!!!」
久志の悶々としている事を一蹴してしまう山瀬の言葉に、久志は噛み付いた。
「オマエも別荘暮らししてたわりに、えらく偏った考え方やな」
「え?ああ、あれでしょ?中には多いって」
何度目だ、この言葉。久志は思った。
男ばかりの密室。しかも一分一秒全てを監視される中で、マスターベーションもままならない。
そんな中で性交に及ぶ。相手は男。
スリルが快感の火種となるのかは知らないが、実際、中に居た久志はそんな現場を目の当たりにした事は無い。
まして、誘われた事も誘った事もない。一瞬たりとも考えた事が無いと言った方が、正解かもしれない。
確かに若さ故、性欲はなかなか抑え切れずに辛いものだった。
一度、トイレで一人で処理している仲間が看守に見つかり、トイレから勃起させたペニス丸出しの姿で引きずり出されるのを見て、久志は出るまでは性欲を殺そうと誓った。
あんな羞恥。自分が当事者になれば一生の傷となるだろう。
男はデリケートな生き物で、そんな些細な事が理由で勃起障害にまでなる。
「それで癖なって止めれねぇ様になる奴も居るらしいぜ。残念ながら俺はそんな機会なかったから、味わった事はねぇが極道には多いっていうのは、その辺が理由かもしれねぇな。あんな男ばっかり、しかも規律ばっかりで常に見張られて、何もかも監視下のもとで生活するんだぜ?鑑別所の方がラクかもしれねぇな。ムショなんかは今は定員オーバーで、寝返りも打てねぇ状態で眠るらしいからな。ちっと溜まってて隣に若い、ちょっと雅みたいな顔の奴が居ればおかしな方へ行くのも分からなくはねぇな」
「俺は、本ばっか読んでたし…。あ、車の雑誌なんっすけど。連れが送ってくれてて」
「まぁ、オマエはガタイもでかいしなぁ。ちょっとモテねぇかもしれねぇな」
山瀬はそう言いながら、近くに置いてあるパイプ椅子に腰掛けた。
「雅に居てほしいなら、てめぇが引き止めればいいじゃねぇか」
「……」
「アイツは極道以外になんかなれるもんあるか?」
「アイツはめっちゃ頭エエし」
山瀬の言いたい事は、そういう事ではないのだろう。
”人殺しの崎山の息子”の足枷がある雅が、極道以外に何になれるのか。そう言いたいのだ。
だが、それは久志も百も承知の話だった。だからと言って、雅に極道になれと言える訳もなかった。
「会社経営もあるな。でも、何にしても金が要る。なら、どっかで働いて金を工面しなきゃならねぇ。殺人犯崎山の息子で、また、くだらねぇ嫌がらせ受けてなぁ」
「……」
「雅が堕ちていくのが怖いか?」
山瀬はそう言って目を細めた。
堕ちる。そうなのだ、極道になるということは堕ちるということだ。
普通に生きていればしなくていい汚い事をして、それを生業としていく。
人を騙し傷つけ、唾を吐き、暴言を吐き、泣き叫ぶ女を売り飛ばす。
道の真ん中を我が物顔で肩で風を切りながら歩き、常に暴力と共に歩む。
一度入ってしまえば、その色と匂いは取れることがなく、出ては入るを繰り返す。そんな中に雅が…?
「似合うとれへんと思います。頭ええ、株や何や難しい話の出来る、今からの時代にはアイツみたいなインテリな極道も必要かと思うけど、アイツを今だに苦しめる原因になった奴らと同じ道歩まんでも、ええんやないですか?も、もしかしたら、親父と同じ様に…人も」
「…人殺しかぁ」
山瀬が呟いた。それに久志は頷く。
「極道になればいつかは通る道やし、アイツは透かした顔してやりよるかもしらんけど、そうなったらアイツはもうどこも行かれへん」
今でさえ、行き場を無くしている様に久志には見えた。
行き止まりの壁の前で、虚勢を張って必死に立っている。そんな感じだ。
「ま、あいつの場合はそうなるな。プライドが高過ぎて出来ませんて言葉知りやがらねぇ。どっちかってと俺は雅が過去に捕らわれちまって、がんじがらめに思うけどな」
「…がんじがらめ」
「過去を振り返って何になる?嫌な過去なら消すしかねぇんだ。そうしねぇと、この世知辛い世の中、誰も生きていけねぇよ」
山瀬はそう言って立ち上がり、邪魔したなと出ていった。
山瀬にも忘れたい過去があるのだろう。久志だってそうだ。
当然の報いと思っていても、父親を拳だけで殴り殺した過去。何も感じていないわけではない。
抵抗しない、出来ない身体。クスリで脆くなった骨、内臓。それらが殴る度に折れ、潰れた。まるで小枝の様に、泥団子の様に容易く脆く。
雅には味合わしたくなかった。あの、命を奪った瞬間の例えようのない虚脱感と絶望感。
父親が家族を殺し、雅は殺されかけ、父親は自分自身を殺した。
雅は殺されかけた恐怖を背負い、家族を失った絶望感に苛まれた。なのに、次はその虚脱感を味合わなければいけなくなるかもしれない。
極道は、下っぱはコマだ。コマは自分で動くことは出来ず、指令がかかり始めて身体が動く。
しかも鬼塚組ともなれば、替えのコマはいくらでもある。言わば使い捨てなのだ。
殺してこいと言われれば、それにどんな意味があるのか考えずに実行する。万が一、出来ないときは切り捨てられるのだ。
そんな世界に、雅を浸からす訳にはいかない。久志は拳を握りしめた。