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それから巴の家の近くの相川のマンションに着き、巴は一緒に相川の部屋に入った。初めて入るなと思ったが、それどころではない。
車の中で目覚めた子供は、初めて見る巴の顔を不思議そうに見ながらも小さな手でしっかりとしがみついてきた。
明るい部屋で見ると、目元が似ているかもしれない。そんな事を思いながら、延々、子供と睨めっこをしていた。
「何やってんの、お前ら。てか巴、熱計って。偉登、布団敷いてやるからな」
一人暮らしにしてはさすがという広さの部屋だ。性格同様、散らかった部屋かと思いきや、きちんと整理整頓されているのが意外だ。
広いダイニングからベッドルームが見え、大きいベッドの上にTシャツが無造作に脱ぎ捨てられているところは相川らしいと言えばらしい。
ダイニングには大きなTVとソファ。そしてソファの前のテーブルの上には、漫画雑誌が数冊置かれていた。ミニマリストなのか、必要最低限の物しかないのがまた意外だ。
ピピッと体温計が小さな電子音を鳴らし、巴がそれを引っ張り出すと相川が覗き込んできた。
「熱、ちょっとだな。風邪かなー?偉登、何か食う?」
「ダディ、このひと、だあれ?」
ダディって何…。この人、純日本人だよな。ダディって…。
「京極巴くん。はい、ご挨拶ー」
「もとおりいくとです、4さい。いつもおせわになっておりましゅ」
偉登は巴の膝の上に座ったまま、舌足らずに挨拶をして小さな頭を下げた。
「なに、この無駄のない挨拶。ん?本居?え!?本居って彩歌さんの子!?は!?マジであんたの子!?」
「でちゅよねー。偉登、何食う?アイス?チョコ?」
「ちょこー」
「よっし!チョコ食うか!」
「食わねぇよ!熱あんのに、アホかあんた!台所借りますよ!」
巴は偉登を相川に預けるとキッチンに向かった。冷蔵庫を開けると子供用のジュースやお菓子が入っていたが、それ以外は酒やつまみしかない。
チョコを食べさせようとしていたのだから、まぁ、そうだろうなと思い、勝手に備え付けの棚を開けてみると米を発見した。
「チョコよりはな」
巴は勝手にあちこち探って鍋や調味料を引っ張り出し、あっという間にお粥を作った。
「おおお、俺の台所からお粥!!お前、錬金術使えるんじゃね?」
相川は部屋着に着替えて、ラフな格好で巴を膝に抱いてソファに座っていた。くりくりと大きな目と、天使の輪っかの出来たツヤツヤの髪の偉登は巴を見ると相川の膝から降りて、両手を上げた。
「えー、そりゃないでしょー」
「アレルギーとかないですよね?」
巴は偉登を抱きあげるとフローリングに敷かれたラグに座り、お粥を冷まし始めた。
「ないない、好き嫌いもないもんねー」
「ダディはおなすがきらいなんでしゅ」
「チクるんじゃねぇよ」
巴が冷ました粥を口に運ぶと、小さな口を一生懸命開けて、それを頬張る。ツヤツヤのピンクの頬も、とんがった唇も、庇護欲が掻き立てられる可愛さだ。
「ヒヨコに餌、やってるみたいっすね」
「ヒヨコって、お前ねー」
「すげーなー、食うなー」
おもちゃみたいと巴は笑って、偉登にせっせとお粥を食べさせた。満腹になったところで船を漕ぎ出した偉登は、相川が布団に運んだ。
眠いから食べるのをやめるとかじゃないのか。子供ってマジですごいと巴は珍獣にでも逢ったような気分になった。
「マジでごめんな、付き合わせて」
「いいっすよ、明日、祭日だし。つうか、マジで相川さんの子?」
ソファに座る相川の手を掴んで、巴が焦ったように声を出したので相川が吹き出した。
「俺の子だし。そっかー、彩歌のことは知ってるけど偉登までは知らないって感じー?」
「いや、知るわけないでしょ。本気で引きました」
「まー、そうかー」
相川はキッチンに移動すると冷蔵庫からビールを取り出してプルを引っ張ると、つまみを手にして戻ってきた。
本居彩歌は相川の元カノである。ふさにも連れてきたことがあり巴も逢ったことがあるが、その頃はとっくに別れていた。
彩歌は清楚で気品があり、どうして相川と付き合う気になったのか聞きたいくらいに不釣り合いなカップルだったが…。
「結婚していたなんて…」
「彩歌は仕事だから、熱とか出たら俺がお預かりなの」
彩歌は高級クラブのママである。容姿端麗、スタイル抜群で話術もさることながら、あの場所に雇われでなく自分の店を出す時点でスキルの高さが分かる。
まさか、その彩歌と恋人同士ではなく、子供まで…。
「何?超ショックっていう感じ?まぁ、ぶっちゃけ偉登のこと知ってるのって組でも少ない方だしなー」
「相川さんが親なのがショックなのか、何なのか」
「何気に失礼だな、お前。まぁいいや。あ、泊まってけよ」
「は?」
「え?」
「泊まる?」
「え、だって明日休みじゃん?偉登居るから車も出せねぇし、送れねぇし、飲んじゃったもん」
「いや、一人で帰れますよ」
「ダメダメ、こーこーせーをこんな夜中に歩かせて何かあったら、ふささんに合わせる顔がじゃん?」
「はぁ…」
「朝、偉登に飯作ってよ。お前のこと気に入ったみたいだし。つうことで風呂は入れ、風呂」
押し込まれるように入った風呂で子供用のおもちゃを発見し、また落胆する。まさか結婚しているなんて思わなかった。
指輪もしてないし、店にもしょっちゅう来る。何なら女の子を連れてくることもある。だから絶対にそれはないと思っていたが…。
「くそ…」
シャワーコックを捻って頭からシャワーを浴びながら巴は頭をガシガシと掻きむしった。
翌朝、相川の声で巴は目が覚めた。ソファで寝るという巴を引っ張ってキングサイズのベッドで相川と偉登と巴、仲良く三人川の字で寝る羽目になった。
もう地獄以外の何でもないなと思いながら巴はこれからどうしようと考えながら眠りについたのだが、そんな事を考えながら寝たせいか気持ちが沈んでいて寝覚めは最悪だった。
「わーった、わーった。はいはい」
相川はスマホをソファに捨てると、Tシャツを脱いでクローゼットからシャツを取り出し始めた。
「え、出かけるんですか?」
「よぉ、おはよー、てか悪いんだけどさー、ちょっとお留守番しててくんない?店でトラブってるんだってー」
「はぁ、いいっすよ。俺も店は夜からだし」
「マジ?超助かる。偉登と仲良くしてるんでちゅよー」
「うざ」
ひでぇなぁと笑いながら頭を撫でるその腕を掴んだ。それに相川は首を傾げるが、今、話すことじゃないなと手を離した。
「なるはやで帰るから、寛いどいて」
相川はポケットにスマホや財布を捻じ込んで、車の鍵を持つと思い出したようにチェストの引き出しを漁りだした。
「あった!ここの鍵。もし偉登とどっか行くならこれ!あ、金も置いとくから。腹減ったら下にコンビニあるから」
捲し立てる様に一気に話すと相川は慌ただしく家を出て行った。さすがにその騒々しさに偉登が目を覚まし起き上がった。
シミ一つない卵のようにつるんとした額に手を当てると、ほんの少し温かい。これが子供体温なのか発熱なのか巴には判断が付かない。
「おはよーごじゃいます」
「はい、おはよう」
本当に良くできた子だなと偉登の頭を撫でて抱き上げた。顔を蒸しタオルで拭いてテーブルにあった体温計で熱を測る。
「うーん」
結構、高い。病院に行くべきか、いや、でも保険証ないしなぁ。祖母に電話して…いや、でもなぁと偉登を膝に乗せて考えていると偉登が巴の手をぎゅっと握ってきた。
「あ?」
「きのーの、たべゆ」
「ああ、お粥か。食欲があるのはいいことだな、作るわ」
ソファに偉登を置いて台所に行くと雛のように偉登が付いてきた。危ないなぁと思ったが離れたところで急変するのも怖いしなと、コアラのように足に巻きつけさせた。
簡単な粥はすぐに出来上がり、昨夜と同じように雛に餌をあげるようにして食べさした。
「無条件で可愛いは得だな」
「…?」
「いや、こっちの話。食ったら横になろうな。相川さん帰ってきたら病院行こう」
無垢な目で見られると罪悪感しか生まれない。巴は偉登をベッドに寝かして、台所を片付け始めた。
すると家の呼び鈴が鳴ってギョッとする。相川かと思ったが自分の家の呼び鈴をご丁寧に鳴らすような人とは思えない。どうするかなと思っていると鍵の音がした。
「え、相川さん?」
結構、早かったなと玄関へ向かうとドアを開けた訪問者に固まった。訪問者も巴を見て驚いた顔をしていた。
「彩歌、さん」
ジャケットを羽織り、細身のパンツスーツスタイル。キャリアウーマンのような姿で現れた彩歌に血の気が引く。いろんな意味で、キュッと首を絞められたような感じがした。
「え?ちょっとやだ、あんた、ふさのとこの子じゃない!組の人間かと思った!」
「すいません。巴です」
「何、準は?」
「えっと、店でトラブルって」
「え?じゃあ偉登は?」
「飯食わしたんで、今寝てます」
「ええ!?ごめんね、なんか!」
彩歌は部屋に入るとベッドで寝る偉登の額に口づけた。
「はー、天使ちゃんー」
「あの、ちょっと熱高いと思うんすよ。めっちゃ飯は食ったけど」
「そうなの?じゃあ病院行くかー。起きるまで待ってていい?」
いや、俺がそれに返事するの?と巴は頷くような傾げるような妙な動きをした。
ソファで嫁と対面。旦那さんを喰ってしまってすいませんって、ここで謝った方がいいのかなと巴の思考はおかしな方へいっている。
おなか減ったよねと彩歌はコンビニであれこれ買ってきてくれて、二人でTVを見ながら食べているのだが緊張で味が分からない。サンドイッチって無味だったんだなと思うほどだ。
「巴くんって、準と仲良いんだ」
「え、いや、えーっと、たまたまっす」
「そうなの?でも助かったわー。準だけだったら何を食べさしたりするか」
チョコを食わそうとしてましたと言わずに笑って答えた。
「ここ偉登の着替えもないし、本当に寝かすだけなのよね」
「あの、一緒に住んでないんですか?」
見るからに一人暮らしの、見るからに子供がいるような、ましてや嫁がいるような生活感のない部屋。そもそも偉登が本居と名乗った時点で分かってはいたものの言質を取りたい衝動に駆られた。
冷静沈着な巴にすれば珍しい行動だ。こういうプライベート、ましてやあまり他人に踏み入れられたくない領域にずかずかと入り込む。だが、子供まで出てくると何がなにやら…。
「あれ?聞いてないのか、離婚してるのよ」
「離婚…」
「そ、偉登が生まれてすぐにね」
「まさか、相川さんの不貞…」
あの人ならあり得るという顔をすると彩歌が吹き出した。
「違う違う、何か誤解されてるけど準って一途なのよ」
ええーっという顔をすると、彩歌はまた笑った。
「あの人って優しいじゃない、底抜けに。ああ、女の子限定だけど。だからそんな不貞とかしないのよ」
「はぁ…」
「疑い深いなぁ、まぁ確かに仕方ないか。それが原因で5股してるとか言われちゃってる時もあったし。あの人ね、別れても関係を切らないのよね。困ったって言われたらすぐに飛んで行くわけ。何人前の彼女だったのよって子だったとしても行くの。そりゃ今カノからしたら面白くないでしょ。でも準は別れるときは困ったことがあったらいつでも連絡してって言っちゃうのよね。馬鹿でしょ。浮気されても裏切られてもよ?」
「そう、なんですか」
「そうそう、お前の事なんて知らねぇよっていうのが出来ない人なの。騙されても怒れないし、女が男を騙すのは仕方がないことだからって言うの。本物の馬鹿」
だめよねーと彩歌はケラケラ笑った。
「俺、相川さんは女好きで誰でも見境なく声かけてるのかと」
「まぁ、それは正解ね。そこで勘違いして好きってなっちゃう子もいるわけ。でも準は絶対に浮気はしないんだけど、無下にもしないわけ。ご飯行きましょうって言われたら行くのよね。そこで浮気ってされちゃうんだよねぇ」
「ご飯は浮気か浮気ではないかっていう論争見たことあります」
「そうそれ。準と付き合うならそれを浮気って取っちゃダメなのよ。でも難しいわよねぇ」
「確かに、難しいかもしれないです」
「でしょ?それって結局、誰も準の特別になれないってことじゃない?結婚してもね。準は困ってる子とか寂しがってる子を放っておけないんだけど、それって付き合っている彼女からしたら残酷じゃない?」
彩歌の言う事に頷くことも何かを言う事も出来なかった。そうこうしていると偉登が起き上がってきて、彩歌と部屋を出て行った。
主の居ない部屋にいるのもなと思ったが、色んなことがいきなり起こったせいで動けない。何をしてんだかとベッドに転がり、何で手を出したんだろうと思う。
後悔しているのかと考えたが、どうしても欲しかった。ただ見て、たまに話すだけじゃ足りなくて、あの日、チャンスがきてしまったのだ。
こういうところが子供なんだと目を腕で覆った。
妙な緊張感と子供がいる衝撃での疲れからか、巴はそのまま眠りについてしまい帰ってきた相川に起こされるまで目を覚まさなかった。