空、雨、涕

空series second2


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渋澤威乃は感情を落ち着かすために広い応接間を裸足で歩いていた。その応接間には足を飲み込みそうな毛の長い絨毯が敷き詰められていて、部屋の中央にあるソファセットは大地震が起こってもピクリとも動きそうにないほどに重そうな物だ。
ソファは見事な刺繍が施されテーブルは歴史の教科書に載っていた、いつかの時代のどこかの国の女王と一緒に描かれていたものに似ている。あまりいい趣味ではないよなと思いながら、威乃は着慣れないスーツのネクタイの結び目を指で触った。
今日は仁流会の総会である。その総会が行われる物騒なところに、なぜ自分のような一般市民が居るのか。
それは総会が終わったあとに龍大と食事の約束をしたからだ。総会があるのであればしなかった約束。まさか、ここまで引っ張ってこられるとは思っていなかった。
確かに最近はお互い多忙で時間も合わず、龍大が帰ってくるころには威乃は夢の中だし威乃が目が覚めたときには龍大はいない。とりあえず時間が全然合わないのだ。
そこでようやく時間が取れた龍大は、少しでも一緒に居たいと威乃を無理やり連れてきてしまった。総会に出るなら威乃も一緒に行かないと無理と、たまに頑固な聞かん坊になるから始末が悪い。
梶原はどちらかと言えば龍大寄りだ。龍大がそう言うなら威乃に諦めてくださいと言うようなとこがあり、今回も然り。威乃もその辺はもう慣れたものではあるが、まさかいかにも一般人ですの装いで居るわけにもいかずに、何かあったときのためにとスーツまで着さされてしまったのだが…。
「龍大め」
その肝心の龍大はどこかへ行ってしまい、どうしていいのか時間を持て余す。外は猛獣だらけなのは分かりきっているので、部屋を出る気にもならない。
そう、総会だ。仁流会系の組の幹部連中が集う会議のようなもの。ということはだ、あの鬼塚心も来ているということだろう。時代錯誤の鬼がここに。
「あかんあかん、あいつだけはあかん」
威乃は首を振ってソファに座り、靴下を履いて硬い革靴に足を入れた。慣れない革靴は固さを感じ、どこか重いような気もする。
ブルーカラーのスーツは手触りがよく、恐らく高いものなんだろうなと魔女でも出て来そうな鏡を覗き込んでポーズを決めてみる。
「いやー、似合わん」
顔のせいかそれとも雰囲気のせいか、どうしてもスーツに着られているように見える。龍大なんて、お前は雑誌モデルかと言いたいくらいに似合いすぎていて憎ったらしい。
年下の恋人は何を着ても様になる。
「野生っぽさか」
ワイルドな感じを出してみるかと髪を弄っていると、ノックもなしに部屋のドアが開いた。威乃が驚いて振り返ると、シルエットが龍大に見えて声をかけようとしたが違和感に口を噤んだ。
「あ?誰、お前」
案の定、龍大ではなかった。龍大よりも少し背が低く、龍大よりも痩身だ。黒のタイトスーツに身を包んだ男はゆっくりと威乃に近づいてくる。
耳よりも下まであるソフトスパイラルの髪はスモーキーアッシュに染められていて、サイドをツーブロックで派手に刈り上げ、右側の前髪だけ耳にかけるというお洒落上級者みたいな男だ。
右側だけ見せられた耳に光るピアスが印象的。キラッと光るのはダイヤか。大粒じゃないものにしても、男にしては珍しいと思った。
だが、男の獰猛な目つきには見覚えがあるように感じた。高く整った鼻梁と形の良い唇。あれ、この顔と思っていると男との距離がやたらと近づいていることに気が付いた。
「あの…」
ここに入ってくるということは風間組の人間なのか…。いや、この部屋には誰も入ってこないからと龍大は言ったが…。
「お前、誰やて聞いてんだろーが、アホか」
「渋澤…です」
男の暴言に苛立ちを見せずに、とりあえず名前を名乗っとけと名乗ると男が蛾眉を顰めた。
「渋澤?渋澤って、まさかお前、渋澤の息子か?」
うわ、知り合いかよ、しかも渋澤って呼び捨てってことは上の人間かよと威乃は小さく頷いた。
これ、やばいかもと思いながら、男にそこまで警戒をしないのは声にも聞き覚えがあるからだ。いや、他人の空似とはいえ、顔も声もなんてことあるのだろうか?
「渋澤にこんなデケェ息子いたっけ?まーええわ、で、お前、新入り?にしてはええのん着てんな」
男は威乃が首に締めたネクタイをするっと指で触る。きちんとした身なりをしている威乃とは対照的に、男はジャケットのボタンを外し、シャツのボタンも3つほど外しノーネクタイ。
正装じゃなければいけないのかは知らないが、これはないだろうと威乃でも思うような着崩し方だ。威乃の七五三もどうかとも思うが…。
「威乃」
そのときドアが開き、待ちわびた恋人の声に威乃が顔をあげた。
だが、この男の正体が分からないので、どう対応をしていいのか分からない。威乃は目を泳がせながら小さく返事をした。
「どないした…。え…?」
龍大が男を見て、珍しく驚いた顔を見せた。まるで幽霊でも見たかの様に、龍大はぎょっとした顔をしたのだ。
「はー、なんや、久しぶりすぎて俺のこと誰か分からんのか」
男はふっと笑うと龍大の方を向いて歩み寄る。威乃はやはり知り合いかと二人の様子を伺った。
「なんで、こんなとこに…」
「呼ばれたからに決まっとるやろ」
ふと威乃に視線を送った龍大の、その一瞬の隙を見逃さずに男は龍大の腹を抉るように殴った。不意をつかれた龍大は、ぐっと声を出して膝をついた。
「りゅ、龍大!」
あの龍大がたった一発で膝をついた!?威乃は何が起こったのか分からず混乱した。この男は誰なのか、一体、何がどうなってるんだと思っていたその時、膝をつく龍大の身体を蹴り上げたのだ。
そしてスーツのポケットから何かを取り出したのを見た瞬間、威乃は迷わず男に飛び蹴りをかました。背骨を蹴られた男は身構えてなかったせいで壁に身体を叩きつけることになり、鬼の形相で振り返った。
「はー、いった…。見かけによらず、やるな」
男は器用にバタフライナイフを手で弄びながら、威乃と対峙する。龍大は威乃の腕を掴んだが、それを振り払った。すっと構えて男の動きに神経を研ぎ澄ませた。
龍大が動けなくなるってどういうことだと混乱しながら、じわじわと間合いを詰めていくと男の後ろから影が現れ、あっという間に腕を後ろ手に回して壁に押さえ込んだ。
「ってぇ!!!」
「か、梶原さんっ!」
梶原は動けない龍大を見ると、大きく息を吐いて男の肩を背中側から肘打ちをする。男はそれにまた痛いと叫び、手に持ったバタフライナイフを落とした。
「いってぇな!秀治!」
「総会で何してるんですか」
梶原はナイフを拾うと後から来た渋澤に渡し、男の拘束を解いた。何がどうなってるんだと思っていると龍大が立ち上がった。
「龍大…」
「梶原、なんで獅龍しりゅうがここにおんねん」
「呼び捨てにすんな、殺すぞ、くそが」
男、獅龍は煙草を取り出すと口に咥え、梶原を見た。梶原は嘆息すると、スーツのポケットからライターを取り出し火を灯した。
「親父に呼ばれたから来たんじゃ、くそむかつく貴様のツラ拝みにわざわざアメリカから来るか」
獅龍は悪態をつくとソファに座り龍大を睨みつけた。龍大は口元を拭うと、卑怯なんは相変わらずかと鼻で笑った。
刹那、威乃でも部屋の空気が変わるのが分かった。獅龍は煙草を投げつけるように灰皿に捨てると立ち上がり、龍大の方へ向かってきたのだ。
だが、その間に素早く梶原が入り込み、渋澤に目配せした。渋澤は頷くと獅龍の元へ行こうとした龍大の首元を掴み、引きずるようにして部屋を出ていった。
それに威乃も慌ててついていき、さっさとドアを締めた。
「くそったれが!!離さんかい!渋澤!!」
暴れる龍大を押さえこめるのは親父くらいだなと威乃は眉を上げて、ドアに手を伸ばそうとした龍大の腕を掴んだ。
「ちょっと、説明して」
マジで訳がわからんという顔の威乃に、龍大は熱を吐き出すようにして大きく息を吐いた。

また同じような応接間だった。派手な調度品は洋風で、子供なら入れそうな花瓶が部屋の隅に飾られている。というか、さっきの部屋もそうだが全てにおいて趣味が悪いなぁと思う。何かこう、感覚がズレてる。
ソファセットに座る龍大は仏頂面で、機嫌の悪さはここ最近でマックスだ。威乃はとりあえず渋澤に二人にしてくれと頼み込んだのだが…。
「そんな不機嫌なまんまやったら、俺、帰る」
お前のその辛気臭い顔、いつまでも見てられへんと投げ捨てると龍大が威乃の腕を掴んだ。
「いや、ほんなら説明せぇよ。あれ誰」
「…獅龍」
いや、名前は聞いたから。つうか、久々に思うけどQ&Aのやり方知ってる?と問いたいと威乃は項垂れた。これでよく仕事が出来るものだ。
「獅龍いうんは聞いたて」
「あいつは、宗方…いや、風間…獅龍」
「え?え?ああ、従兄弟?」
「いや…兄貴」
「ああ、兄貴。は!?え!?ええええ!?」
威乃は飛び上がるほどに驚いたが、合点もいった。威乃が獅龍に対して身構えることをしなかったのは龍大に似ていたからだ。声なんて、そのまんま龍大の声だった。
「きょ、兄弟おったん。え?ちゃんとした兄弟?」
あまり自分のことは話さないにしても、梶原にも聞いたことがない。もしかして訳ありとか?めっちゃ死ぬほど仲悪かったけど。
「おかんも親父も同じで、獅龍は正真正銘、一滴も間違わずに俺の兄貴」
「マジか…」
「いうても、絶縁されてるから風間やのうて、宗方獅龍が今の名前」
歴史の登場人物みたいな名前やなとは言わずに、絶縁に首を傾げた。
「獅龍は見たらわかるけど、あのまんま。気に入らんかったら手も得物も出す。そのせいで親父の逆鱗に触れてもうて絶縁されて、宗方んなった」
龍大の親父ということは風間組組長。その逆鱗に触れるって…。
「まさか、獅龍が戻って来るとは思わんかった。面倒なことなる」
龍大は威乃を引き寄せ肩に額をつけると、ぎゅっと握った手に力を入れた。

総会会場は男どもが犇めき合っていて、明神万里はげんなりした顔をした。開場まで時間があるので、それまでの間は自由に酒でも飲んでくれということだろうが…。
酒を飲むくらいなら帰りたいと項垂れる。
神原は電話がかかってきて、じっとしとけと母親が子供に言うように言って消えてしまった。大体、こんなむさ苦しい連中ばかりがいるところでどうしろっていうんだと思いながら、ここにいつまでもいると加齢臭が移る!と部屋を出た。
廊下は広く長く会場とは打って変わって静かだ。だが灰皿は見当たらないので喫煙していいかは分からない。
「面倒やな、帰ったろうかな」
呟いていると奥の大きなエレベーターが開いた。神原かと目をやると長身の男が降りて来た。見ない顔だなと思いながら、独特なスパイラルパーマーと整った獰猛さのある顔立ちに組員にしては派手だなと感じた。
壁に凭れて、風間組もついに趣向変えかと思っていると男が万里の目の前で止まった。
「あ?なんやねん」
睨みつけるような視線に万里が気が付いて言うと、男はふっと笑った。だが万里はすぐに殺気を感じ、さっと右足を上げた。案の定、男は万里に蹴りを入れて来たのだ。
「ああ!?なんやねん!」
「はは…great」
「はぁ?」
互いに足を下ろし睨み合う。男はニヤリと笑い、万里を見下ろした。
「お前、誰や?」
「誰ってなんやねん、あんたこそ誰や」
「俺は獅龍」
いやいや、誰やねんと万里は呆れた。長身の獅龍は万里のサングラスの上の隙間から見えた左目に首を傾げ、弾くようにサングラスを叩いた。
サングラスは顔から外れ、柔らかい絨毯の上に音もなく落ちた。
「殺てまうぞ、おのれ」
万里が獅龍を睨みつけると、獅龍はくつくつ笑い”freak”と呟いた。
「なにしとんねん」
二人にかかる声に同時に視線を送ると万里は舌打ちをした。そこに居た鬼頭眞澄は絨毯に転がるサングラスを拾うと二人に近づき、万里にそれを差し出した。
「何や、面倒ごとか…?」
眞澄は獅龍の顔を見ると、ぎょっとした表情を見せた。
「お前、獅龍か」
「眞澄か、久しぶりやん」
お前の知り合いかよ!と万里はサングラスを掛けると、加齢臭漂う部屋に大人しく居ればよかったと後悔する。ここで面倒ごとを起こしてしまえば、神原の機嫌が悪くなり一ヶ月くらいは辛い日々を送ることになるのだ。
ああ、こんなことなら由でも連れてくるんだった。一人は拙い、非常に拙い、対処の仕方が全然分からん!と万里は何度目かの溜息を吐いた。
「どないして戻って来た」
「別にお前と感動の再会しに来たわけあらへんわ、俺が継ぐ予定やった組の今を見学に来ただけ。噂で鬼塚組の組長がクソガキやて聞いたけど、ほんまか?どこにおんねん。ちょっと、挨拶したろう思ってな」
ニヤリと笑う獅龍に、眞澄と万里は顔を合わせて笑った。
「あ?なんじゃ」
「あー、堪忍え。悪気はあらへん。確かに鬼塚組ん組長はガキやから」
万里がそう言うと、タイミングを合わせたようにエレベーターが開いた。眞澄はそこを見ると口角を上げて笑い、顎で万里に合図を送った。
それに気が付いた万里も同じように視線だけエレベーターに向け、笑う。
「あんた、自分のその腕でクソガキがどへんなもんか、確かめたらええねん」
ほらと万里が指をさす方に獅龍が目を向けると、エレベーターから気怠そうな男が降りて来た。長身でセットのされていない髪。痩身だが鍛えられた身体なのはスーツの上からでもわかった。
「は?まさかあれが?冗談やろ、ガキやんけ」
現れた鬼塚心は欠伸をしながら目の前の3人に気がつくと、露骨に顔を顰めた。嫌いな総会に来たのに、初っ端にお前らに会うとはなというところだ。
万里と眞澄は心の後ろにお目付役の相馬がいないことにほくそ笑んだ。すると獅龍はすっと心の行く手に立ちはだかると、その足を止めさせた。
「あ?誰じゃ、お前」
「はー、お前が鬼塚し…」
最後まで言葉を発することが出来なかった、それはたった一発の拳が獅龍の腹に叩き込まれたからだ。獅龍は胃の内容物を吐き出し、その場に崩れ落ちた。
「邪魔じゃ、ボケ」
心は崩れ落ちる男の身体を長い脚で跨いで、会場へと向かう。万里は動けずにいる男の横に屈むと”fuck off”と耳元で囁き、心のあとを追った。
「あれがクソガキや、獅龍。つうか、お前は変わらへんなぁ。しょーもない男のまんまか」
眞澄は呆れたように言うと、同じように会場に向かった。獅龍は激痛の引かない腹を押さえ、くそっと何度も呟いた。