落花流水

空series spin-off


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「終電…ないよな」
沙奈を家まで無事に送り届けたものの、駅では本日のダイヤは終了しましたの看板がハルの行く手を阻んだ。
時間帯を考えれば、まぁそうなるよね辺りを見渡す。駅名を見て多分あの辺かなと頭で地図を思い浮かべながら、確認するために携帯を取り出した。そのディスプレイに表示された文字に驚いて、思わず携帯を落としたが呼吸を整えてその表示を再度確認した。
梶原だ。20分前の着信。その前にも数回ある。ハルはそれを無視して地図アプリを開いた。歩くか?歩いてもいいか、酔いを覚ますのにはもってこいかもしれない。
そう思っていると、後ろでクラクションが鳴った。駅は終電を逃した人間がちらほら居て、迎えに来たであろう車が数台いる。
羨ましい限りでと振り返り、一台だけ異質な車に眉を顰めた。すると、黒塗り高級車の左ハンドルのウィンドウが開いて手が伸びた。
「え?小沢さん?」
何でと思わず見渡したが、ハルの周りに組員らしき人間はいない。キョロキョロとしていると名前を呼んで、小沢はハルを手で招いた。ハルはそれに慌てて車へ向かって走って行った。
「何してんの、こんなとこで」
「いや、友達を送っていって。小沢さんは…」
「ここちょっと行ったとこに事務所あんねん。何や見慣れた奴がおんなぁって思ってたらビンゴやし。終電あんの?」
「いや…」
「ほな乗れや。送るわ」
な?と笑顔を向けられ、ハルは断る理由も見当たらず頷いた。

「まさかあんなところで逢うとかな!超ラッキーやろ。俺と逢わんかったら、どないして帰るつもりやったん」
「タクるか…歩く」
「マジでか!タクなんか、いくらかかるねん!まして歩くとか!!」
ゲラゲラ笑われたが、確かにそうだなとハルも笑った。酒のせいと、思いも寄らない出来事のせいで正常な判断が出来なかった。
らしくないと深呼吸をして、運転席に目をやり小沢の左手を見た。指輪がない。こういう生業の人間に指輪をする習慣がないのだろうか。
「結婚したって聞いたんすけど」
「え!?誰に!?あ、若か!」
「おめでとうございます」
「いやいや、どーもどーも」
頭を撫でて照れた顔を見せる。それに胸が小さく痛んだが、ハルは笑顔で誤魔化した。
「子供、生まれるんでしょ?」
「ええ!?そんなことまで!まぁ、言うてもまだやけど。嫁も実家帰ってるし」
「そうなんですか?」
「何か、調子が悪いみたいで。俺もまだまだ下っ端やろ?朝も早いし夜も遅いからなぁ」
極道もサラリーマンみたいな事を言うんだなと可笑しくて、ハルは笑った。
「ちゅうか、酒臭っ!!」
「あ、すんません。飲み会でしてー」
「はぁ!?リア充め!青春謳歌しやがって!」
信号で停まった途端に頭を揉みくちゃにされ、ぎゃーぎゃーふざけ合った。以前はこうして遊んでいたが、ハルが自分の気持ちに気が付いてからは距離を置くようになっていたのだ。
「あの、今日は威乃の親父は?」
ハルは探るように聞いたことに後悔した。あの容姿を見紛うはずはないが、もしかしたらという疑念からだ。
極道であれば接待もあるだろう。威乃もその接待の事で愚痴っていたくらいだ。そこそこの地位に居れば、寄ってくる女の相手もする必要がある。ああいう世界は付き合いが大事だと聞くし、無下にも出来ないのだろう。
そうやって色々と自分が救われる言い訳を考えて、ハルは小沢の言葉に期待した。
「あー、兄貴と一緒」
「あ、にき…梶原さんですか」
「そうそう、兄貴、見合いやもん。どっかの会社の令嬢やてー。うちの組のこととか、兄貴の肩書も知ってるから堅気やけど堅気やないよな、ああいうの」
「見合い…」
小沢の結婚を聞いた時よりも衝撃だった。口の中が乾いて声が途切れた。肌を重ねたから衝撃が大きいのか、小沢への感情と梶原への感情は完全に別物だったのか…。
ハルは小沢が話す見合い相手の話が耳に入らず、適当な相槌に終始した。

「じゃあ、ありがとうございました」
タクシーを捕まえるにしても、ましてや歩くにしても本当にチャレンジャーな距離だったなと、走り出してからの時間を考えて猛省した。
らしくない判断だったと、無謀なチャレンジをしないで済んだ事に感謝した。
「春一、また連絡しておいでな」
「え?」
「ずっと飯とか行ってたのに、学校とか忙しなって逢われへんようなって、ちょっと寂しかってん」
ぎゅっと手を握られハルは顔が強ばった。他意はないと分かっていてもハルからすれば混乱してしまう。
小沢はパーソナルスペースが狭く、ハルはそれに平然を装うのに必死だった。結果、邪な考えを持つ自分に自己嫌悪し疲れてしまい、距離を置いたのだ。
そして今回もハルはどうにか普通を装って、寂しがり屋ですねなんて言って退けた。
「肉、行こうな、肉。奢ったるから」
頭をポンっと撫でられ、ハルはどうにか頷いて車を降りた。
そして車を見送ると急いで自宅に戻り、部屋のドアを閉めた瞬間に上着を脱ぎ捨てて次々と服を脱いで風呂場に飛び込んだ。
シャワーコックを捻ってすぐ、勃ち上がる陰茎を握り上下に扱き始めた。シャワーを頭から浴びながら、小沢の手を思い出し指を口に入れ陰茎を扱く手を早める。
「う…はぁ、あ、あああ」
競り上がる熱に魘されるまま、口に入れた指を後ろへ回し窄まりの周りを指で突きながら腰を振る。
シャワーのお湯ではない蜜が手に溢れ、ハルは息を荒くして指に力を入れた。そして中に指を入れると扱く手を早めた。
「あ、あああ、はぁ、あ…、ん」
前も後ろも自分で慰めながら、小沢の一つ一つの動きを思い出す。声、仕草、香る香水。全てがハルを慰めるスパイスになった。
「イク、もうイク…あ、あああっ!あー、イク!」
もう我慢ならないと陰茎の先端を弄り回した途端、耳の奥で熱っぽく名前を呼ぶ梶原の声を思い出し一気に快感が背を伝って脳に駆け上がり、全身を震わせて熱を吐き出した。
「あ、あああ、はぁ…あ、あ…」
崩れるように風呂場の床に座り込み、全身の力が抜けたままハルはそのまま寝転がった。
上がる心拍数と一緒に、後悔の念も上がりハルは顔を覆って声にならない声を出し落涙した。

「春一、次の乙4の試験っていつやった?」
小山田がラウンジでコーヒーを飲むハルの前に座ると”絶対に受かる!危険物”なる本をテーブルに置いた。
「申し込み締切、もうそろそろ終わるんじゃね?」
「マジ、申し込み速攻せんと。春一は持ってんだよな?」
「高校の時に取ったな。奇跡やな、あれマジで」
「すげぇじゃん!工業高校やったっけ?」
「いや、バイト代が上がるから個人的に取った」
ハルは出身校から話をはぐらかし、危険物の本をペラペラ捲った。
まさか受かるとは思わなかったが、そもそも高校で勉強というものをしていなかったので脳は空っぽだったわけだ。
そりゃ、詰め込むスペースはあるよなと思う。確か、点数も高かったはず…。
「甲種は受けへんの?」
「別に必要ないしな。ガススタに就職するんやったらって思うけど」
「まぁ、確かに…。ちゅうか、沙奈のことごめんな」
「何事、急に」
「いやー、何か、微妙な空気でクラス全員で反省というか」
「大いに反省してくれ。ああいうのは周りが囃し立ててどうこうなるもんやないやろ」
飲み干したコーヒーをゴミ箱へ投げ入れ、入ったと笑うと小山田の視線に気が付いた。
「なに」
「春一ってさ、何か損してるなって。達観してるというか、俺らと同じ年やのにちょっと人より一歩前を歩いてる感じ。冷めてるっていうよりか、俺らと一線引いてるよなって」
「そんなわけないやろ。俺もガキで、お前も同じガキ。人と何も変わらん」
ただ、 隠し事が多いだけ。出身校、付き合いのある大人、家族、何もかも人に大きな声で話せるようなことではない。それだけ。
誤魔化すことばかり上手になって、上部の付き合いだけが増えていく。本当、”普通”ってなんて大変…。
そんな事を考えているとテーブルに置いていた携帯が振動した。ディスプレイに表示された文字を見て、すぐに上着に携帯を仕舞う。
「最近、電話多ない?春一、出てへんけど」
「ちょっと…出たくないっていうか」
「何、トラブル?」
「トラブル…ではないけど、まぁ、ちょっとな」
煮え切らない言い方をするハルに小山田は納得いかないという顔を見せた。
「俺、春一とはちゃんと仲良くなりたいの。どうせなら学校とか卒業してもずっと。やから、困ってたら頼って欲しいねんけど」
真面目な、だが不貞腐れた顔をする小山田に少し驚いて、そして笑ってしまった。こういう感覚って威乃以来だと。
「はは…ありがとうな。マジでどうもならんくなったら、一番に言うわ」
ハルはそう言って、小山田と拳を合わせた。

学校が終わりバイト先のガススタで客の車を洗車機に入れ機械のスタートボタンを押す。入れたての洗車機は水圧で汚れを吹き飛ばすかのように、勢い良く水を噴射し始めた。
撥水コースだから少し長めかと腕時計を確認していると、作業着の尻に入れた携帯が振動していた。濡れた手の飛沫を軽く払って手にすると、ディスプレイを見てまた作業着に戻した。
「無視はないやろ」
後ろから声が掛けられて肩が震えた。ゆっくりと振り向くと携帯を耳に当てる梶原が立っていて、その後ろには普段とは違う車があった。
いつもの車だとマフラー音で気付くのにと内心舌打ちして、小さく頭を下げた。
「俺、何かしたか?」
「何、急に。ちょっと忙しかっただけ」
「ほな、今日は」
「終わってからあいつと飲みに行くから」
バイト仲間の三島を視線で探す。梶原はそれを見てハルの顔を覗きこんだ。
「今日はハルはすぐ帰るって言ってましたよー、飲みに行こうって誘ったのに…が、三島君からの返事や」
さすが、こういうとこ抜け目ないよなとハルは苦笑いをした。
「このまま担がれてここから拉致られるか、仕事終わりに大人しく来るかどっち」
「そんなんせなあかん?」
「いきなり反抗期迎らえても、俺としては困惑しかないからな。上手い事いってたと思うけど?」
梶原の言葉にハルは鼻で笑った。まぁ、そうなるわな。反対に自分が梶原の立場なら、何の前触れもなく連絡を悉く無視されるなんて許せない。
許せないが、ハルからすれば梶原の行動が今は許せない。
「あと1時間はあるけど、家行く」
「逃げんなよ」
言われ、思いっきり睨みつけた。梶原もそれをいつもの優し気な顔ではない顔で見て、その場を去って行った。

言っていた時間を少しだけ過ぎて、ハルは梶原のマンションに着いた。駐車場に梶原の愛車がある。ハルはその隣に自分のバイクを置いて息を吐いた。
ここに来るのにここまで気が重いのは始めてだ。期間にしては短かったが、正直、楽しさしかなかった。
梶原はハルをべたべたに甘やかすが、それをこれでもかと表に出すようなことはしない。さりげなく優しく甘やかすのだ。
ハルがそういうことが苦手なのを分かっている上での配慮なのだろうけど、今となっては何がなんだかという感じだ。
「気ぃ重い」
言っても仕方ない。いつまでもこうしていられないし、けじめも付けずにフェードアウト、所謂、自然消滅というのは嫌いだ。
相手にも失礼だし、何よりも消化不良感が酷くていつまでもイライラするのだ。

意を決して部屋の前に行き、合鍵をポケットで弄ぶ。どうしようかなと思っていると、ガチャッとドアが開いた。
「いつまでそうしてんねん」
少し困ったような、来てくれたことに安堵したかのような顔をした梶原に迎えられ、ハルは部屋に入った。
無言のまま向かい合ってソファに座る。と言ってもこの部屋のソファはもともと一台しかないので、梶原がソファに座りその足元にハルが座るのが定番だった。
今は梶原がソファに座り、ハルがその向かいの床に腰を下ろしている。 この部屋でここまで沈黙したことはない。ハルは味わったことにない空気の重さに嘆息して、ポケットから鍵を出してテーブルに置いた。
「返す」
「いや、意味わからん」
梶原は額に手を置いて言う。確かに意味が分からないかもなと思いながら、じゃあどうするつもりだったのかとも思った。
ドン・ファン気取って外にも内にもとやるつもりだったのか?そういういい加減なことはしないと思っていたのに、いや、色々と忘れていたがヤクザだ。
心地よい空気に浸っていたが、ヤクザ、極道、しかも若頭補佐。本質はそういうことだったのだろう。
見抜けるわけがない、何だかんだ言いながらハルは社会を知らない子供なのだ。
「意味、わかんなくていいよ」
ハルが立ち上がろうと顔を上げると、梶原の視線とぶつかる。思わずそこから動けなくなるような、そんな目だ。
今まで見た事のない厳めしい目で、風間組の梶原の目だった。
「そういういい加減なことせんやろ、お前は。理由を言え」
「理由って、いいよ、もう」
ハルは視線を逸らして梶原の怒りから逃げようと立ち上がると、その腕を掴まれた。
「俺はお前を離す気ないし、こんな意味の分からんことも受け入れられへんぞ」
「はっ…そんなこと言って、」
何で責められてるんだと思った途端、ボロッと涙が零れた。
「え、ちょ…」
梶原が驚いてハルをギュッと抱きしめると、そこから逃れようとハルが暴れた。
「もう、何、お前…」
「やめろよ!」
ドンッと梶原を突き放したが、一度零れた涙は留まることなく流れる。それを手で拭ったが止めどなく溢れ、流れ、羞恥心と悔しさで嗚咽が漏れそうになった。
「なんで、俺、何か…可哀想に見えた?軽く見えた?こんな事、する男じゃないって…思ったのに」
「はぁ?何を言うてんねん」
「あんた、俺を離したくないって、自分は結婚するくせに俺をどうしたいわけ!?」
梶原がギョッとした顔をしたのを見て、ハルは舌を鳴らした。大人のこういうと大嫌いだ。
言わなければバレないとでも思ったのか、男だからそういうことは放っておいていいと思ったのか。
「もう、あんたなんか大嫌いや」
ハルは吐き捨てる様に言うと部屋を飛び出した。バンッとドアの閉まる音がしたが、梶原は天井を仰ぎ見てそのまま後ろのソファに身体を乱暴に預けた。