空、雨、涕

空series second2


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愛の巣とも呼べる龍大のマンションのキッチンで夕飯を作る龍大の横に子供のように纏わりつく威乃。今日、あった学校でのことをずっと話している賑やかな唇にたまに啄むようにキスをして、口数の少ない龍大が応える。
以前よりもこういう時間は減ったものの、それでも週に1回は必ず威乃と二人の時間を作る。寂しがり屋な威乃のために龍大が自分で決めた自分だけのルールだ。
「でな、向日葵ちゃんが分量違う言い出してな、どこ見てるん!?ってなって」
「アボガド食う?」
「食う!で、隣の奴が…」
と言い掛けたところで、ガタガタと玄関の方で異常な音がして威乃と龍大は玄関を見た。オートロックとはいえ住人が入る時に一緒に入り込める容易いセキュリティ。
コンシェルジュがいるような完全防御のセキュリティというわけではない、侵入者がいてもおかしくはない状況だ。宅配は何かあっては困るので頼まない。
ただの高校生で風間組組長の息子、そこから成長して風間組若頭という大きすぎる肩書きが追加された。お披露目会こそしなかったものの、瞬く間に龍大の名は知れ渡り後継者の呼び声が高い今、何があっても不思議ではないのが現実だ。
龍大はシーっと唇に指を当てて威乃を手で制して、そっとキッチンカウンターから出ていく。龍大のプライベートルームのここをほとんどの組員は知らない。それどころか組幹部の人間は風間本邸に住んでいると思っているし、龍大もそれとなしにそういう雰囲気を出している。
いくら腕に覚えがあるとはいえ、威乃は堅気であり極道者ではない。威乃が一人でいる時に、もしものときがあっては困るのだ。
龍大は忍足で玄関に行くが外に動きは感じられない。ただ何か気配を感じた。龍大は梶原が少しは覚えてくださいと置いていったゴルフのアイアンを手に取るとドアの施錠を外した。
ドアを開けようとするが何かがドアの前にあって開かない。仕方なく思いっきり押し開けると、ゴロンと何かが転がった。それがすぐに人だと分かり、龍大はアイアンを置くと転がった小沢を抱き上げた。
「威乃、梶原呼んで」
廊下まで来ていた威乃が驚いてスマホを取り出した。暴行されぐったりとして動かない小沢を部屋に入れると急いでソファに寝かし、ついでに医者!と叫んだ。

「内臓はちゃあんと検査せんと分かりませんけど、見たところ問題あらへんのやないかなぁと思います。頭の傷も綺麗に血が出とるさかい、反対に良かったですわぁ。これ、血が出とらへんかったら脳内出血の可能性もありますから。頭は怖いからねぇ。あ、縫ぅたところは化膿せんように消毒しといてくださいねぇ。骨は折れてはれへんけど、せやなぁ、今から24時間以内におかしぃなったら直ぐにちゃあんとした病院行ってくださいねぇ」
白衣を着た男はテキパキと処置をすると、ゆったりとした口ぶりでそう言った。耳慣れない言葉を使う男は威乃と変わらぬ年頃で、部屋に来た時はリュックを背負ってパーカーにジーパンという部屋間違えましたか?というスタイルだった。
「あ、一応、痛み止め出しときますわ。今日、明日と結構、痛みますよ、それ」
男はリュックを漁ると薬の束を出してテーブルに置いた。
「悪かったな、急に呼び出して」
「構いませんけどー、僕の見立て絶対やないんで、ちゃあんとそん人、見といてくださいね。ほな」
梶原が謝罪とともに万札を数枚、男に差し出すと男はそれを受け取った。それを見ていた威乃は男と視線が絡んだので頭を下げると男はにっこりと笑って部屋を出ていった。
「今の、医者?」
「あれは学生です。医大生。ちょっと訳ありで、うちのモグリ使うのも龍大さんの部屋なんでやめときました」
梶原は小沢に近づくと苦虫を嚙みつぶしたような顔をして息を吐いた。無抵抗、いや、少し防御はしているようだが右からも左からも暴行されている。
腕の打撲の痕と額の痣、複数人に得物を使われての暴行だなと威乃は察した。
「う…」
痛みに顔を歪ませて小沢が目を覚ました。ぼんやりとした視界に入り込んできた龍大と梶原に驚いたような顔をして、「ああ、そうやった」と一人、呟いた。
「話せるか?」
「あ、兄貴、すんませ…」
話すのもやっとという感じだが流石に兄貴分がいる中で寝転がっているのは憚られるのか起きあがろうとしたのを、龍大が肩を押さえた。
「寝とけ」
「すんません…。ここしか、思い浮かばんで…。あとは張られてて」
龍大のマンションを知っている数少ない組員の一人である小沢は、何度も謝罪の言葉を繰り返した。
「張られてるって、誰にやられた」
「あの、」
口籠る小沢に何かを察したのか龍大と梶原は頷いた。それに小沢も息を吐いた。
「獅龍、さんです」
出てきた名前にギョッとし、思わずバカ兄貴と言いそうになって口を押さえた。
「何でまた。お前、何かしたんか」
小沢はチラッと威乃に視線を向けた。それに気がついた威乃が首を傾げた。
「え?俺?」
「獅龍さん、威乃さんのこと探り始めてます」
スッと龍大の顔つきが変わったのがわかった。梶原はそれを聞いて顔を手で覆って、「あー」っと声に出した。
「でも、俺、知らへん言うて。ただのツレちゃいますんって。やから威乃さんのこと言うてないんで。それは、ほんまですから!」
思わず身体を起こした小沢を龍大が制した。
「疑うてへん。獅龍のことや、お前から聞かんでも他で当たりつけてくる。あいつ、昔から鼻だけはええ」
「いや、そうやいうても渋澤の息子ですよ?それはほんまですし、なんでまた」
「兄貴の息子で学校の先輩、名取と一緒に3人で今も連んでるっていうんが変やて」
名取の名前に梶原の顳顬が痙攣した。だが平静を装い、頭を振った。
「何が変やねん。別に学校の先輩と今も遊ぶなんて普通やろうが」
「もともと坊が人付き合いとかせん人間やのに、なんぞあるやろて。名取は組が利用してるガススタの人間やて言うたんですけど、獅龍さんをボコった奴の弟やていうんもあって納得してくれへんのです」
そりゃ、そうだろうなと威乃は思った。獅龍の性格を把握しているわけではないが、自分をボコボコにした人間の弟がたまたま龍大の学校の先輩で舎弟の渋澤の息子がたまたま龍大の学校の先輩。
そしてその先輩同士はたまたま幼馴染で、人付き合いが嫌いな龍大が珍しく連んでいるんです。いや、無理すぎ。どれだけ偶然が重なるのか。
「え?でも何でハルのガススタに凸ったんやろ」
そもそも夏色が獅龍達を相手にしたのもハルのガススタに行ったからだ。それがなければ帰国していたとはいえ夏色が獅龍と絡むことはない。
サイコパスと呼ばれるのも喧嘩を売られた時の買い方や喧嘩の仕方がそうなだけで、道で歩いていていきなり人に殴りかかるような人間では流石にない。学校の肩書きのない今は無闇矢鱈に喧嘩を売られることもないので、初歌絡みでなければ日本で大きなことを仕出かすリスクは避けるはずだ。
「それは、自分にもわかりませんけど、でも、名取の兄貴のことは血眼になって探してます」
でしょうねと、そこに居た全員が思わず同意する。腕に覚えのある部下がまるで赤子の手を捻るが如く、一瞬で叩きのめされた。
プライドの高い獅龍もだ。それが傭兵とはいえ堅気の男、たった一人に。そんな外聞の悪いことを獅龍が黙って大人しくしているわけがないのだ。

風間組に幹部が集い報告会が執り行われる日、生憎の雨で先行き不安になるような天候に梶原は項垂れた。
本部に続々と集まる幹部は梶原に挨拶をしてから会場へ向かう。別にそういうの良いよと言うわけにもいかず、逃げるように喫煙スペースで煙草を口に咥えると隣からスッとライターが出てきた。
コンビニで手に入るような安物のそれに穂先を付ける。
「煙草、やめたんやろ」
言うと、男はライターをスーツのポケットに入れた。梶原よりも一回りも上で痩身な男は昔は恰幅が良かった。大病をして激痩せしたが、今の方がギョロギョロと動く目に厳つさが増して箔がついている。
風間組直系 沖組組長 古石 陸朗ふるいし ろくろうはニヤッと笑うと大きく深呼吸をした。
「医者も嫁も煩いですからね、空気だけですわ」
梶原の吐き出す煙を手で仰いで嗅ぐそぶりを見せる。それに梶原は舌を鳴らした。
「アホか、それこそやめとけ」
「梶原の兄貴、あれー、帰ってきたてほんまですか」
「獅龍さんか」
流石に総会で派手に暴れたおかげで話が広まるのが早いかと眉尻を下げた。昔からいる古石のような古株からすれば、あまり良い話ではないだろうなと煙を吐き出した。
「自分は用事あって行かれへんかったんですけどね、鬼塚のんにやられたて専らな噂ですよ」
「いらんネタやな」
「獅龍さんにええ印象持っとる古参の組長はいませんからねぇ。鬼塚のんが若いにしても圧倒的な力で今だにトップに君臨してるうえに風間の右腕です。誰も歯向かわれへんくらい力を示してる。あの実力見せられたら小童がとは言えません。せやけど鬼塚のんよりも年上で会長の息子である獅龍さんは大問題起こして他所にやられたうえ、帰国して早々、鬼塚の力も見極め出来んまま騒動起こしてはる。仁流会では嘲笑される状態です」
「大きい声で言うなよ。獅龍さんは何や言うてもご子息や」
「ええ、わかってますけどね。聞こえてもええ言うてる人間もおるくらい獅龍さんに対する期待は低い。最近は龍大さんも若頭なって動き出してはるのに、いきなり獅龍さんやないですか。会長がどない考えとるんか知りませんけど、龍大さんやなく獅龍さんが表側に出張ってくるなら反発も大きなりますで」
「せやな」
耳が痛い話だ。何ら成長もないまま帰国して、何ら成長がないところを見せつけたのは確かに痛い話だ。心との立ち回りも然り、印象は最悪。
「それと、会長のあれ、なんですか」
「あれ?ああ、神木か」
「みんなどない接してええんか分からんで戸惑ってます」
俺もだよと言いたいところを煙と一緒に飲み込む。本当に、あれ何?と聞きたいのはこっちなのだ。
「今日は龍大さんは?」
「そろそろ来る」
「荒れまっせ」
古石はそう言って笑うと梶原の吐いた煙を吸い込んで喫煙スペースから出ていった。

「Hey 龍大」
駐車場で車を降りると獅龍が手を上げて向かってきた。渋澤が頭を下げると獅龍の後ろにいた組員も龍大に頭を下げた。獅龍に振り回されているのだろう。疲労しているのがここから見ても分かった。
「獅龍…」
「お前のとこのあれ、使われへんな。誰や、小沢」
指をパチンと鳴らされ龍大が一歩前に出ようとしたのを渋澤が先に前に出て止める。獅龍はそれに笑うと渋澤を指差した。
「ああ、”いの”の親父やったな」
「ああ!?」
「龍大さん!」
威乃の名前で龍大の顔つきが一気に変わり獅龍の後ろにいた組員が思わず後ろに下がった。渋澤は龍大を諌めるように、もう一度、名前を呼んだ。
「獅龍さん、威乃は息子ですが、何か?」
努めて冷静に言う渋澤に獅龍は大袈裟に首を振った。
「いやぁ、お前の息子やしー、逢って挨拶しとこかなて。逢わせろや」
グッと拳を握る龍大を宥めるように手を向ける。龍大のこの態度では何かあると言っているも同じだ。獅龍もまた、決定的な何かを引き出そうと挑発をしてきている。
普段であれば相手にしないであろう龍大も、獅龍が相手、そして威乃のこととなると話は別になる。
「獅龍さん、息子は堅気ですので自分も家業のことは話してません。知ってはいますが組関係の人間とは極力、接触しないようにしていますんで勘弁してください」
渋澤が頭を下げると獅龍は「へー」と言って、自分を睨みつける龍大を嘲笑うようにして見る。自分に腹を立てて苛立っている龍大を見るのが楽しいと言わんばかりの顔だ。
「渋澤、お前さぁ、俺に指図出来るくらい偉くなってんな」
「そういうわけではありませんが…」
「息子が堅気やいうても親父がヤクザなんやから、覚悟くらいしとるやろ。お前の嫁のことかてあるしな」
渋澤がギョッとした顔を見せると獅龍は戯けるように笑ってみせた。
「俺が何も知らんとでも思ってんのか?」
「もうええ、渋澤。遅かれ早かれ、こいつとはやり合わんとあかん」
「龍大さん!」
龍大は渋澤を押し退けて前に出ると、獅龍も一歩前に出た。
「おいおい、それが兄貴に対する態度か?あ?」
「兄貴やなんて思うたことあらへん」
「Damn!殺すぞ、龍大」
「何をしてるんですか」
今にも殴りあわんばかりの龍大と獅龍に渋澤も獅龍の舎弟もこの状況をどうすれば良いかと慌てていると、刺すような声が響いた。
そこには神木がいて、今にもゴング開始になりそうな二人を呆れたように見ると溜息を吐いた。
「こんなところで何を始める気ですか?もう皆さん集まっていますよ。組長もお待ちです」
誰であろうとここは助かったと渋澤は息を吐いた。獅龍はかなり龍大の周辺を調べ上げている。威乃のことだけではなく、母親の愛のことまでも。
どれだけ優れているとしても獅龍にとっては龍大は弟であり、自分よりも劣ると思っている。それが間違いだとしても、獅龍にとって龍大は”下”なのだ。
そして常日頃から物事を一歩引いて見れる龍大も獅龍が関わると話が違ってくる。これは遅かれ早かれ、ぶつかる時が来るのかもしれない。それは風間組にとって岐路となり、自分にとってもまたそうなるだろうと渋澤はグッと拳を握った。