「すいません、時間とってもろて」
喫茶店に来た龍大に頭を下げると梶原は腰を下ろした。その店は昔、梶原が世話をした男が経営する喫茶店で組との直接的な繋がりがないうえに梶原が使う時は人払いもしてくれるところだった。
さすがに裏社会と関係を断ち切った人間の店なので梶原も滅多なことがないと利用しないが、今回は非常事態ということで頼むことにした。ここまでしたくはないが用心に越したことはないということだ。
「組やのうてここって何かトラブルか」
滅多なことではここに呼び出すことのない梶原が選んだ店に、龍大が面倒ごとかと言いながら腰を下ろした。しかし見れば見るほど、ついこの間まで学生服を着ていたとは思えぬ貫禄だ。
堅苦しいのが嫌いで何度言ってもネクタイをすぐに外す。これについては心が悪影響を与えているとしか思えない。まだ成長期なのか背も高く、それに見合って手足が長く首も長い。そして鍛えているおかげで肩も張っている。
色々と規定外なので龍大の着るスーツはすべてテーラーが一から作るオーダーメイドばかりだ。身体も顔付きも極道のそれに近づいている、これからという大事な時に厄介ごととはなと梶原は肩を竦めた。
「トラブル言うか、若、神木に会いましたか?」
「誰それ」
「親父の側近になった男です」
「いや、俺、最近は親父とも会うてへんわ」
「そうですか。実は…」
曽根崎組の現状、神木の過去、ヤクの売買について一通り話すと龍大は運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけた。
「それがほんまなんやったら、曽根崎をまずどないかせんとあかんやろ」
「もちろんですが、神木が何の目的でこっちに入り込んでるんか…」
「目的て、そいつを側に置いてるんは親父の考えやろ。なんぞ目的持って手飼いの振りして親父に近づくんは不可能や。思い過ごしやろ」
そう言われればそうかもしれないが、どうにも納得がいかないという顔をみせる梶原に龍大は片眉を上げた。
「じゃあ、俺が一回、神木と逢うてみる。お前も来い。腹の探り合いは俺は不得手やしな」
そんな話していると慌ただしく渋澤が店に入ってきて、早足で近づいてくる。ただ事ではないその表情に二人して渋澤を見た。
「曽根崎組が壊滅しました」
「は?」
「路が、路が襲撃して全員…。組にも火を点けて全焼したと」
渋澤が徐にスマホの画面をテーブルに置く。そこには曽根崎の事務所が爆発音を鳴らしながら大炎上しており、消防車が何台も居て消火活動をしているニュースの映像が映し出されていた。
「梶原、神木は!」
「親父と、九州です。ですが、路にそんなことが出来る力はありません」
「あのジャンキー具合じゃ、難しいやろうな。龍大さん、神木やいう証拠はありませんけど、神木以外にこんなことする奴はおりません」
「やけど、そいつは親父と九州。確かなんよな」
渋澤を見ると、しっかりと頷いた。
「神木がおらん、でも神木の犯行いうんが濃厚。というとこは他にも神木の仲間が居るってことやないんですか」
梶原の言葉に龍大は何も言わずに炎炎と燃え盛る事務所の映像を見ていた。
「くー!!」
くたばれ!と叫びたいのを抑えて、間抜けな、くー!威乃はそんな奇声を上げながら、調理台にパン生地を叩きつけた。
ここは威乃の短い人生、いやこれからの長い日本人の平均寿命を全うしたとしても2度とないほどに耐え、励み、死に物狂いで滑り込んだ製菓専門学校である。
ハルがそうであるように威乃もやはり曰く付きのあの学校の人間ということで受け入れ先が見つからなかった。卒業生はほぼ本職に就きますなんて誰が流したのか実しやかに囁かれる噂は学生の間だけに留まることなく、それどころか学校事態の肩書きが”極道養成学校”のような冗談のような広まり方をしていた。
そんな学校に在学し尚且つギリギリでの卒業予定の学生を快く受け入れてくれるような奇特なところは多くはなく、いや、ほぼなく、連日連夜、教師、とくに担任はみるみる疲弊していった。
だが学内で問題児であるトップ1、2のハルと威乃が将来の夢に向かって専門学校へ通いたいと言うならば叶えてやるべきだという、半ば意地になっていた教師の活躍によりどうにか入り込める学校を見つけたのだ。
そんな教師の期待を裏切らないためにも、威乃は日々、パティシエになるべく修行に励んでいた。
威乃が通っている学校は主にパティシエ、ブランジェ・ブーランジェ、和菓子職人、ショコラティエ、製菓衛生師、調理師、管理栄養士を目指す者が通っており、それに見合った学科が数多くある。
威乃が通うのはパティシエ・ブランジェコースで高度調理師製菓技術学科という名前だけで何だか気の重くなるようなコースだ。まともに学校の授業を受けてこなかった威乃だが、ここに通ってパティシエになるためにはそうはいかない。
分厚い教科書を隅から隅まで舐めるように見て、覚えることは盛りだくさんだ。食品学、衛生法規、食品衛生学、あげればキリがないほどに覚えることもやることもある。
それに加えて実習である。オムライスくらいなら何とか作れるかもという威乃でさえも、今ではレシピを見ることなくケーキやパンが作れるのだからすごいものだ。学校が、いや、講師が。
初めは、お前、何で来たんみたいな哀れみの目を向けてた講師も、とりあえず一人前にしなければ!と必死に威乃を補講を積極的に設けて指導した。なので、このパン生地への攻撃は昔みたいな学校がー、とか、教師がー、とかの反抗でやっているのではなく…。
「渋澤くん、台、壊れちゃうよ?」
バンバン、生地に恨みでもあるのかというくらいに叩きつけていると、隣で同じように作業していた某有名人気女優に瓜二つの秋山 向日葵が心配そうに声をかけてきた。
何の縁か、威乃の昔の苗字と一緒という親近感から向日葵とは仲が良い。大きい目と小さい鼻。ぷるんとした唇はクラスの人気を独り占めしている。しかも某女優に激似というおまけつきなのでなおのこと。
だがそれを鼻にかけることもなく、向日葵は名の通り最高の笑顔でみんなを明るくしてくれる。間違いなく、威乃が今まで会ったことがない女の子である。
「向日葵ちゃん、生地は叩きつけて柔こうするんやで」
「いや、やり過ぎ」
わかります。やり過ぎですもの。そりゃ、講師も睨んできますよね。
「嫌なことあったんかなー?お主」
向日葵はノリも最高で、ニヤリと悪代官の真似して笑うのは可愛い限り。そりゃ、クラスの男子の人気独り占めだと痛感する。
だが可愛いなぁと本気でイカれて告ってごめんなさいで玉砕パターンとなる、それで終わる健全な人間ばかりといえばそうではないのだ。
まだ、そこまでクラス全員が馴染んでない入学して間のない頃、向日葵は空き部屋に連れ込まれるという女の子なら死ぬほどの恐怖を味わった。
犯人は一つ上のクラスの威乃曰く”ぼんくら共”で、ちょっとボクシングやってます、武道習ってます、喧嘩も負けたことがありませんという威乃からすれば一番弱い人間の自己アピールの酷い連中。そういう人間は腕に覚えがあると言いながら一人で行動をしないうえに、弱い者に只管、強い。
連れ込まれる瞬間を目撃した者が居たものの、料理の腕なら覚えありますみたいな学生の集まる学校でそこに乗り込むという勇ましい男は誰一人としていなかった。
それこそ、みんながどうすればいいと、まるで白雪姫の周りをあたふたと狼狽える小人のような慌てようで講師に言いにいくにしても報復が怖くて動けないという者ばかり。女の子は助けてあげてと泣き出すというちょっとしたカオスの世界。
だが威乃は同じクラスの女子が連れ込まれたと聞いた瞬間にミクロほどの太さしかない忍耐がブチギレた。向日葵と喋った事もない、何なら顔も知らない、それよりも何よりもコミュ力が高くない威乃にはクラスに友達もいなかったが、狼狽える学生を捕まえると”どこや!”と怒鳴りつけていた。
学校入る時に喧嘩はせん。出身高校のことは黙ってると、なぜか別の学校へ行ったハルと約束させらてたが肝心のハルがいないのに止まるわけがない。
見た目が中性的で身体も華奢だが目つきだけは昔取った杵柄の威乃に胸ぐらを掴まれたクラスメイトは慄いた。そして空き部屋近くで右往左往している同級生を押し退けて、入り口で見張り役をしている見るからにガタイの良い男を一撃で倒した。
見た目で油断作戦。高校では顔が知られすぎて使えなかったそれも、ここでは面白いくらいにヒットした。そしてドアを蹴り破り飛び込んだ先では、衣服を剥かれながらも泣きながら必死に抵抗していた向日葵が男三人に抑え込まれている光景。
それが母親とリンクした威乃は、向かってくる三人の反撃を受けることなく叩き潰した。講師が事に気が付いて止めに来る頃には三人は殴られ過ぎて気を失っていて、あー、俺、終わったわとそこでようやく大きく呼吸をした。
だが、ここからも威乃が経験したことがないことが起こったのだ。まさにすごいね!善良生徒!というやつだ。今まで同レベル、もしくはそれ以下の部類の人間しか相手にしてこなかったので、これには本当に感激した。
何と、威乃は悪くないと、クラスの人間だけではなく常日頃からその連中に理不尽な思いをさせられてた学生等の嘆願書が提出されたのだ。更には学校側も、その暴君ぶりは耳に入っていたようで、それを周知していたのに何も是正出来なかったという責任も感じていたらしく、威乃は一躍ヒーローになった。
とはいえ、それで納得しないのが今回の性的暴行未遂の学生の親である。
「親の脛に寄生虫みたいに吸い付いてたバカ息子の後始末をするどころか、ろくな子育て出来てない親代表みたいな奴等が暴行罪やの、慰謝料やの大騒ぎしだしたわ」とハルに言ったが、本当に酷かった。
確かにやり過ぎたかなというのはあったが、ボクシングしてます武道していますって料理人の筋肉じゃないよね?という無駄な身体を作り上げて自慢するくらいなら、ガードくらいまともにしてよって思う。
さすがに反撃がゼロじゃなかったわけはないが、殴り返してきた拳も蹴りも「お前、本気か?」と思うほどで子供と喧嘩をしているようだった。なので暴行罪と言われればそうかもしれない。
このままでは保護者である渋澤の職業もバレてややこしくなるなぁと思い、学校を辞めることになるかもしれないと事前に話すことにした。話を聞いた渋澤は助けたことに関してはよくやったとは言ってはくれたものの、ダウンするまで殴りつけたことはやり過ぎではないかと灸を据えられた。
そして渋澤が梶原に話したのだろう、まったく面識のない弁護士を名乗る、まるでインテリヤクザみたいな男が学校に参上した。極弁だ。
小犬「こいぬ」と、似ても似つかぬ名前の弁護士は、怒り狂う親共を一瞥して鼻で笑うとまるでドラマのワンシーンを見るかのような饒舌な口調で一気に幕仕上げ、正真正銘の被害者である向日葵が被害届を出すそうですよ?これまでも、随分と元気のいい遊びをされていたようで。と、これが本物の悪代官顔!と言わんばかりの顔をしてモンスター化した親を蔑み囁くように言ったのだ。
まるで悪魔の囁き。更にはどの情報網を使ったのか、向日葵以外の集団性的暴行に加え複数人への暴行の証拠と診断書を掻き集めてきて警察に提出。実は3人とも逮捕されたのだ。
なので威乃はヒーローのまま学校への在籍を許された。だが暴行の事実はあるわけなので何もお咎めなしとはいかず、反省文10枚は辛かった。
そんな出逢いがあっておかげで、今では向日葵と威乃はコンビなのだ。邪な感情のない威乃と純粋に感謝して慕っている向日葵。男女の友情がここに証明された。
「嫌なことってか、俺、週末の打ち上げパスかも」
「えー。あ、彼女かぁ?」
そうそう、片眉上げていかにも気に入りませんという顔をして、一言「却下」。
「却下ってなんやねん!法案か!自分はさー、接待やなんや飲み行ってんのに、俺は却下とか、おかしくね!?」
獅龍のことで過敏になっているとしても、それでもあまりに酷い。自分だけとは口にはしないが、さすがに言いたくなる。自分だけか!と。
「なんか、重役さんなんやんねぇ?」
「うん」
この界隈一帯を縄張りとする仁流会風間組若頭です。とはさすがに言えずに、威乃の彼女は大企業の重役という無謀設定。年齢設定が絶対におかしくなると思う。
まさにマダムに飼われるみたいな。だが少し抜けたところのある向日葵は年上のお姉さんなんやねと素直に解釈。向日葵の中ではパンツスーツを着て長い髪を掻き上げる、いかにも出来る女が威乃の彼女と思っている。
それを聞いた威乃は、AVみたいな勝手な妄想をおおきに…。と言うわけもいかずに空笑いをした。
本当はアホみたいにデカて、アホみたいに威乃に執着してて、アホみたいに強いくせにプロ顔負けの料理の腕前の、アホみたいにイケメン。同性と言ったところで向日葵が偏見を持つような人間ではないことは、あの事件から一緒に学生生活を送る上で分かってはいるがカミングアウトというのは勇気がいるのだ。
「クラスだけやないって言うた?」
「言いましたとも」
威乃は滅多に飲み会には参加しない。龍大の許可のせいもあるが、そもそもコミュ力が高い方でも柔軟性があるわけでもない。
毛色の違う人間ばかりが集うクラスにいるのも、たまに、正直しんどいと思うときがあるくらいに馴染めてはいないのだ。その点、昔馴染みのハルはかなり上手く付き合っていて、世間渡りの上手なのを羨ましくも思う。
そんな威乃がそういう状況を踏まえても参加しようと思ったのが、週末に開催される打ち上げた。様々な理由があってどうしても参加したいと言った、半ば懇願のような威乃の願いを一蹴した龍大。
悲願の関西パティシエコンテスト団体部門の優勝祝杯!!それが今回の打ち上げだ。
いや、ないないない、ないわ。分からず屋もここまできたら、ただの暴君やからね!と叫んだが聞き入れてもらえるわけもなく。
「でも、お主、祝杯であるぞ」
「やんなー、時任講師も来るんやろ?」
「そうそう、渋ちんの恩師」
今回、これだけゴネたのは威乃が向日葵を救出してから反省文の指導や義務教育で習う算数レベルの計算が出来ない威乃への時間外学習、基礎の料理過程授業の補修、とりあえず最強落ちこぼれの威乃を一端の生徒に育ててくれた恩師、時任
行きたいとうずうずしながら怒りの矛先はパン生地へ。喧嘩なんか長らくしてないのに腕力が上がっているのは間違いなくこのせい。すると暴れ狂う威乃の尻のポケットがブルブル振動する。
「マジか、出れねぇ」
手は粉まみれだ。渋々それを洗って、イースト菌臭漂う教室を抜け出す。見ると着信履歴は"渋澤さん"。即ち、威乃の父親である。
「もし?」
掛け直すと、ワンコールで出た。素早さに笑う。
『ああ、授業中やな。悪かった。今日、迎えいかれへんなった』
「ああ、そう?平気やで。バイトやし」
『大丈夫か?他の奴行かすか?』
いや、あんた。俺は園児か。とは思えても言えるほどのフランクな仲ではない。親子といえど母親もあの状態の義親子。距離はまだまだ遠いのだ。
「あー、ハル呼ぶから」
肩肘張るような話し方をしなくて良いだけ成長か。
『そうか?ほな、なんかあったらすぐに連絡せぇよ』
「はいはい。バイバイ」
バカみたいに心配性だ。自分が女だったら何が何でも迎えに来るか組員を行かせるくらいしそうな感じだ。母親の外出もヘルパーが付いてはいるが遠くには常に組員が帯同している。
だが威乃からすればそれはありがたいことではある。
「ハル、空いてっかなー」
昔馴染みのハルは威乃とは畑違いの整備学校へ通っている。昔から器用で車やバイクが好きだったので、結局、その道に言ったという感じだ。派手につけていたピアスも減らして髪も大人しめの色に染め直していた。
昔の名取春一を知っている人間がすれ違っても、気が付かないかもというイメチェンである。いつまでも尖ってばかりはいられないだろと、どこか達観した大人のことを言って普通に紛れ込んでいるが…。
「梶原さんと付き合ってる時点で、見た目を変えたところで、あいつ何も変わってないってわかってよな」
そんな普通の人はいませんよとブツブツ言いながら、スマホを弄る。
「お迎えきてちょ」
最近、ようやく使い始めた無料コミュニケーションアプリでハルに連絡すると、休み時間なんか即レス。いや、勉強してます?と呆れる。
『了解』
短い!愛想がない!だが、絵文字で返されても微妙。あのハルだ。
すると向日葵から"まだー?"と可愛いのか威乃にはちょっと分からない、アメーバーをコミカルに、だが色合いがグロテクスなスタンプが送られてくる。
ご丁寧に吹き出しで”MADAKANA?"と聞いているが、向日葵の美的センスはちょっとおかしい。一緒にいるようになって、一番に感じたのがそれだ。
そういう意外なツボも良いギャップなのかと思いながら、スマホをズボンのポケットに捩じ込んで教室に戻った。